第10話 消えない白鐘
トルガ・ラグレイが下層区へ戻って最初に向かったのは、娼館街だった。
赤い灯りが、雨上がりの泥道に滲んでいる。
安い香油。
酒。
煙草。
女たちの笑い声。
男たちの怒鳴り声。
薄汚れた窓の奥から漏れる、甘ったるい息遣い。
いつもの下層区だった。
磨かれた床もない。
丁寧な言葉もない。
あるのは欲と金と、疲れた人間の身体だけだ。
その方がいい。
そのはずだった。
「黒犬じゃないか」
馴染みの女が、赤い唇で笑った。
「今日は荒れてるね」
「黙れ」
「あら、怖い」
女は慣れたように笑い、トルガの腕に指を絡めた。
トルガはその手を払わなかった。
何も考えたくなかった。
クラルシアの顔が、頭の奥にちらついていた。
真面目な顔。
怒った顔。
泣いた顔。
それから、伴侶候補だと告げた時にこぼした、ほんの小さな笑み。
あんな顔をするとは思わなかった。
女王などと呼ばれて、助けを呼ぶことさえ諦めたような目をしていた女が、あの時だけ、ただの少女みたいに笑った。
その顔が、消えない。
「……くそ」
トルガは女の腰を引き寄せた。
女なんざ、誰でもいい。
そう思っていた。
いや、そう思いたかった。
肌の温度があればいい。
声があればいい。
匂いがあればいい。
抱いて、忘れて、眠れればそれでいい。
下層区では、そうして夜を越してきた。
どうしようもない苛立ちも、血の匂いも、腹の底に溜まった虚しさも、女の体温と酒でどうにか朝まで押し込めてきた。
だから今夜も、それで済むはずだった。
その夜、トルガは娼館を渡り歩いた。
赤い灯りの部屋。
酒の匂いが染みついた寝台。
薄い香を焚いた狭い個室。
名も知らぬ女。
馴染みの女。
初めて見る女。
笑う女。
媚びる女。
何も聞かずに金だけ受け取る女。
誰でもいい。
そう言い聞かせた。
だが、消えなかった。
細い肩。
小さな身体。
腕の中で震えていた重み。
折れそうなほど頼りないくせに、自分の足だけで立とうとしていた。
雨と泥と血の匂いしかしない自分の腕の中で、あの女は気を失った。
怖がったわけではない。
たぶん、安心していた。
それが余計に腹立たしかった。
なぜ、自分の腕などで息をする。
なぜ、あんな場所で泣く。
なぜ、忘れない。
「黒犬」
女の一人が、寝台の端で煙草をくゆらせながら言った。
「誰かを忘れに来た顔だね」
トルガは返事をしなかった。
「当たり?」
「黙れ」
「図星か」
トルガは硬貨を投げた。
床に散った金を見て、女が目を細める。
「多いよ」
「なら喋るな」
女は肩をすくめ、それ以上は何も言わなかった。
翌日の昼。
トルガは行きつけの酒場へ向かった。
自分は酒に酔わない体質だ。
それでも、喉を焼くものを流し込めば、少しは頭の中が黙るかもしれない。
そう思った。
壊れかけた木の扉を押し開ける。
ギィ、と鈍い音がした。
「あ、トルガ」
酒場の看板娘、ニーナの声が響く。
「ごめん。今日うち、休みでさ──」
「ラークロイグを頼む」
「……今、昼なんだけど?」
「酒場だろ」
「そういう問題じゃないんだけどね」
ニーナはトルガの顔を見て、言葉を飲み込んだ。
茶化せる顔ではなかった。
「いつも通り、ストレート?」
「ああ」
コトリとグラスが置かれる。
琥珀色の液体が、昼の薄い光を受けて揺れた。
トルガはそれを一息で飲み干した。
「もう一杯」
「いいけど、金あるんだろうね。この酒、うちでも高いんだから」
トルガは硬貨を乱暴に置いた。
その額を見て、ニーナが顔を引きつらせる。
「いや、どんだけ飲む気?」
「黙って注げ」
「はいはい。今日は最悪な日ってわけね」
ニーナはため息をつきながら、二杯目を注いだ。
その後もトルガは、ウイスキーの瓶を空け続けた。
グランドナック。
シャーロットポート。
再び、ラークロイグ。
琥珀色の酒は、喉を焼くだけだった。
頭の奥に残った白い部屋は、少しも滲まない。
「ねえ。いつまで飲んでるつもり?」
ニーナが不機嫌そうに言った。
「あんたが酒に酔わないのは知ってる。でも、そろそろ死ぬよ」
「……」
「しかも今日、休みのつもりだったのにさ。あんたのせいでもう日が傾いてる」
トルガは答えなかった。
グラスの底に残った酒を見ている。
見ているはずなのに、そこに映るのは別のものだった。
白い指。
金の髪。
ロザリオを握りしめた、頼りない手。
「トルガ?」
ニーナが近づいた。
「大丈夫?」
その声に、トルガは顔を上げた。
近い。
女の匂いがした。
安い香油と、酒場の木と、どこか健康な肌の匂い。
クラルシアとは違う。
違うはずだった。
なのに、トルガはその違いにすがるように、ニーナの腕を掴んだ。
「ちょっと」
ニーナの目が揺れる。
次の瞬間、トルガは彼女に口づけていた。
荒く、逃げ場を塞ぐような口づけだった。
ニーナが一度、彼の胸を押した。
「待ちな」
低い声だった。
酒場の看板娘の声ではない。
下層区で生きてきた女の声だった。
「ここじゃダメ」
トルガは止まった。
ほんの少しだけ。
だが、その一瞬で、ニーナは彼の目を見た。
「……あんた、私を見てないね」
トルガは答えなかった。
「誰を見てるの」
「誰も」
「嘘つき」
ニーナは息を吐いた。
怒るでも、笑うでもない。
ただ、呆れたように、少しだけ寂しそうに。
「隣の宿」
「……何?」
「行くなら、そこ。ここではしない」
ニーナはトルガの手を掴み、自分からほどいた。
「それと、私は私だから。誰かの代わりにするなら、途中で蹴り飛ばす」
トルガは黙っていた。
「返事」
「……ああ」
「よし」
ニーナは酒場の戸締まりをし、外套を羽織った。
その横顔は、妙に凛としていた。
その夜、トルガはニーナを抱いた。
何度も。
酒の匂いが残る身体を、眠るための道具のように使おうとした。
だが、駄目だった。
触れているのはニーナのはずだった。
声も、体温も、肌の色も、何もかも違う。
それなのに、ふとした瞬間、白い肩を探している自分がいた。
金の髪が揺れるはずもないのに、そこにないものを見ようとしていた。
腕の中にいる女が誰なのか、分からなくなりかけるたび、トルガは自分の浅ましさに吐き気がした。
ニーナは途中で何も言わなかった。
けれど、やはり途中で様子がおかしいことに気付いていた。
夜明け前。
二人は宿屋の寝台に横になっていた。
薄い窓から、下層区の白みかけた朝が差し込んでいる。
「やっぱ、あんた相手だと疲れるわ」
ニーナはあくびをしながら言った。
いつもの調子だった。
けれど、目は笑っていなかった。
「ねえ。王宮で何かあったの?銀靴が探してたのはもう噂になってんだけど」
「……」
「あとさ」
ニーナは横目でトルガを見た。
「やっぱ他の女のこと考えてたでしょ」
「……いや」
「嘘。長い付き合いだから分かる」
ニーナは身体を起こし、乱れた髪を手でまとめた。
「そういうの、女はすぐ分かるからやめときなー。相手によっては背中から刺されるよ」
トルガは何も言わなかった。
否定する言葉が見つからなかった。
「私がいいって言ったから、ここに来た。でも、私を見てなかった。あれは駄目」
トルガの喉が、わずかに動いた。
「……悪かった」
「謝るなら、ちゃんと私を見て言いな」
ニーナの声は、冷たくはなかった。
だからこそ、余計に刺さった。
トルガは顔を上げる。
ニーナは、笑っていなかった。
怒っているというより、呆れていた。
そして、少しだけ傷ついていた。
「悪かった」
もう一度、トルガは言った。
「……本当に、今回だけね」
ニーナは下着を手に取り、淡々と身につけ始める。
「私は誰かの代わりじゃない。そこ間違えたら、次は蹴りとばすから」
「……ああ」
ニーナは服を整えながら、ふっと息を吐いた。
「ま、あんたの慈善活動に免じて、今回は見逃してあげる」
「慈善活動?」
「慈善活動でしょ」
ニーナは振り返らずに言った。
「ここで仕事を選ぶやつなんて、あんたくらいなの。善人は斬らない。子供は売らせない。悪党は減っていく。それは感謝してる。」
トルガは黙った。
「でも、今のが許されるわけじゃない」
ニーナはそこで、ようやくトルガを見た。
「一回、頭冷やしなよ。今のあんた、最悪な顔してる」
「………」
「ま、今日は店開けるからいつでも来なよ。じゃあ」
そう明るい声で言い残して、ニーナは宿屋を出ていった。
トルガはしばらく、寝台の上で動かなかった。
残ったのは、解放感ではなかった。
虚しさ。
罪悪感。
そして、吐き気がするほどの自己嫌悪。
「……最悪だ」
低く呟いた。
女を抱けば消えると思った。
クラルシアを想像すれば、壊せると思った。
汚れた夜の中へ引きずり下ろせば、あの白さも、自分の中でただの欲に変えられると思った。
だが、違った。
消えなかった。
汚れなかった。
むしろ、自分の方がひどく汚れたような気がした。
トルガは服を引っかけ、宿を出た。
朝の下層区は、まだ半分眠っている。
赤い灯りは消えかけ、泥道には夜の名残だけが残っていた。
彼は八番通りにある自分の部屋へ戻った。
二階の安い部屋。
壁には雨染みがあり、窓枠は歪んでいる。
寝台は古く、机の上には仕事の依頼が乱雑に積まれていた。
人買いの残党狩り。
賭場の用心棒潰し。
銀靴に追われた男の逃亡手配。
縄張り争いの仲裁。
いつもなら、適当に選んで金に換えた。
トルガは一枚目の紙を手に取る。
数行読んだところで、舌打ちして机に放った。
「……やる気が出ねえ」
寝台に仰向けに倒れる。
身体は疲れていた。
だが、頭だけが妙に冴えている。
何人抱いても、あの女王の顔だけが消えなかった。
だから、クラルシアを想像して抱けば消えると思った。
結果は最悪だった。
ニーナにも説教をされた。
誰に対しても誠実で、優しい女。
俺にさえ頭を下げやがった。
女王になど、絶対に向いていない。
俺の言葉にいちいち傷ついたような顔をみせた。
そして、白い指でロザリオを握りしめていた。
「気に入らねえ」
低く呟く。
気に入らないのは、クラルシアだけではない。
あの女をあんな顔にした王宮が気に入らない。
あの女に何も選ばせない連中が気に入らない。
下層に戻って、女を抱けば忘れられると思った自分が気に入らない。
トルガは腕で目元を覆った。
「そういう話じゃねえ」
欲が溜まっていたわけではない。
女が欲しかったわけでもない。
ただ、消したかった。
白い部屋。
金の髪。
涙に濡れた目。
小さな身体の重み。
その全部を、泥と酒と香油の匂いで塗り潰したかった。
だが、消えなかった。
死んだばばあの声がする。
――トルガ。
「うるせえ」
誰もいない部屋で、トルガは呟いた。
それでも、眠れなかった。
王宮の白い部屋に置いてきた女王が、また人形の顔に戻っている気がした。
机の上には、金になる仕事がいくらでもある。
抱ける女もいる。
戻る場所もある。
腐るほど汚れた日常もある。
なのに、何一つ手につかなかった。
下層区は何も変わっていない。
変わったのは、自分の方だった。
それが一番、腹立たしかった。
それから三日間、同じだった。
ニーナの酒場には行かなかった。
仕事の依頼はいくつも来た。
酒も飲んだ。
眠るために、身体を疲れさせもした。
それでも、眠りは浅かった。
目を閉じるたび、白い部屋が浮かぶ。
テレサの名を守ろうとした声。
――そんな言い方、しないでよ。
トルガは舌打ちした。
「……まだ残ってやがる」
王宮を後にして三日目の夜。
雨が降り出した。
最初は細かった雨が、すぐに屋根を叩く音へ変わる。
下層区の薄い屋根板が、安っぽく震えた。
トルガは寝台に横になっていた。
目は閉じている。
だが、眠れてはいなかった。
雨音の奥で、また白鐘が鳴った気がした。
鳴るはずがない。
聖ルミナ教会は焼けた。
白い壁も、鐘楼も、あのばばあも、とうに灰になった。
それでも、耳の奥でかすれた鐘が鳴っている。
朝でもない。
教会もない。
鐘もない。
なのに、鳴る。
「……うるせえな」
トルガは起き上がった。
外套を掴む。
どこへ行くつもりなのか、自分でも分からなかった。
王宮へ戻る気はない。
女王様の婿になる気もない。
あの白い部屋に置いてきた女のことなど、知ったことではない。
そう思っていた。
そう決めたはずだった。
なのに、足は部屋を出ていた。
階段を降りる。
泥に濡れた路地へ出る。
雨が黒い外套を叩く。
夜の王都は静まり返っていた。
途中、雨宿りをしていた荷馬の綱を外した。
誰のものかなど知らない。
あとで金を置いておけばいい。
そう思って、トルガは鞍もない背にまたがった。
この雨の中、好き好んで外を出歩く者はいない。
娼館街の赤い灯りさえ、雨に滲んで遠く見えた。
トルガは王宮の方角へは向かわなかった。
向かったのは、旧道だった。
聖ルミナ教会へ続く道。
もう何もない場所へ続く道。
「……何してんだ、俺は」
答えはない。
何かを探している。
そう認めるのも腹立たしかった。
やがて、古い石橋が見えた。
白鐘橋。
聖ルミナ教会へ向かう街道の入口にかかる橋だった。
トルガは橋の手前で馬を降りた。
雨に濡れた石畳。
黒く沈んだ街灯。
向こう側へ続く、暗い道。
その先に、白鐘の小教会はもうない。
あるのは焼け跡と、草に埋もれた瓦礫だけだ。
それでも、この橋にまで来てしまった。
馬の首を軽く叩き、綱を解く。
雨に叩きつけられる自分だけが残った。
「あのばばあ、いつまで迷惑かける気だ……」
低く吐き捨てる。
返事はなかった。
あるはずがない。
テレサは死んだ。
教会は焼けた。
白鐘も、もう鳴らない。
それでも、雨の向こうで、かすれた鐘の音がまだ鳴っている気がした。
トルガは濡れた髪を乱暴にかき上げる。
戻る気はない。
王宮になど。
あの女のところになど。
そう思うほど、足元の石橋が、彼を逃がさないように冷たく沈んでいた。




