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第11話 薔薇を飾る髪


 トルガ・ラグレイが王宮を去ってから、三日が過ぎた。


 その三日間で、クラルシアは再び女王に戻された。


 いや、違う。


 女王に戻ったのではない。


 人形に戻ったのだ。


 朝、女官たちに髪を梳かれた。


 光を受けるたび、金の髪は絹糸のように揺れる。


 頬には薄く紅を差され、唇には薔薇色を乗せられた。


 白い首元には真珠。


 細い腰には淡い青の帯。


 頭には、ヴァイスヴェール王国の象徴である薔薇の髪飾り。


 胸元は慎ましく覆われている。


 誰が見ても、品のある装いだった。


 そのはずだった。


 けれど、クラルシアには分かっていた。


 布は、自分を守るためにあるのではない。


 美しく見せるためにあるのだ。


 小柄で、華奢で、骨まで細いように見える身体。


 それなのに、胸元だけは少女のものとは思えないほど豊かで、柔らかな膨らみを持っている。


 自分では、そこが嫌だった。


 隠したいと思うほど、布は形を拾う。


 覆っているはずなのに、そこだけがわずかに持ち上がる。


 清楚に整えられた飾り布さえ、かえって視線の行き先を教えているように見えた。


「もう少し、胸元を……隠せませんか」


 小さく言うと、女官は困ったように微笑んだ。


「十分に慎ましい装いでございます、陛下。それに、この形が一番お美しく見えます」


「そう……ですか……」


 それ以上は、何も言えなかった。


 一番美しく見える。


 その言葉が、喉の奥に引っかかる。


 白い首。


 細い肩。


 華奢な腕。


 小さな腰。


 そして、どれだけ隠しても、布の下から存在を主張してしまう女の身体。


 女官たちは、それを品よく、美しく、王族らしく整えていく。


 けれどクラルシアには、自分の身体が、自分のものではなくなっていくように思えた。


「陛下、本日もお美しゅうございます」


 女官が言った。


 クラルシアは鏡の中の自分を見つめた。


 そこには、可憐な少女がいた。


 十八歳の女王。


 金色の髪に青い瞳。


 小柄で、白く、壊れそうなほど華奢で、見る者の庇護欲と所有欲を同時に煽るような顔。


 その下に、隠しきれない女の線を持つ身体。


 それはクラルシアであって、クラルシアではなかった。


 飾られた器。


 磨かれた人形。


 王家の血を宿す、美しい入れ物。


「本日は三名の方とお会いいただきます」


 ヴェルナー宰相が静かに告げる。


「……三名」


「はい。レオヴァルト王家の第三王子、北方公国のローレンツ公子、そしてベルン侯爵家の当主でございます」


 クラルシアは返事をしなかった。


 それでも準備は進んでいく。


 彼女が望もうと望むまいと、扉は開き、相手は現れ、クラルシアは微笑むことを求められる。


 そういう仕組みになっていた。


 謁見用の小広間に通された最初の男は、若い王子だった。


 栗色の髪を整え、香水をまとい、白い手袋をした美しい青年。


 礼儀は完璧だった。


 跪く角度も、手を取る仕草も、発する言葉も、申し分ない。


「ヴァイスヴェールの白薔薇と称される陛下にお目にかかれましたこと、光栄の至りにございます」


 白薔薇。


 クラルシアは微笑んだ。


 その笑みが、自分のものではないことを知っていた。


「遠路、ようこそお越しくださいました」


 王子は顔を上げた。


 その瞬間、目の色が変わる。


 驚き。


 陶酔。


 そして、欲。


 彼の視線は、まずクラルシアの顔に留まった。


 次に、白い首元へ落ちる。


 そこまでは、まだ礼儀の範囲だった。


 けれど、その目は一瞬だけ胸元で止まった。


 本当に一瞬だった。


 すぐに王子は微笑みを取り戻した。


 だが、クラルシアには分かった。


 男の目は、分かる。


 見ていないふりをしながら、見ている目。


 清らかだと褒めながら、その下にあるものを想像する目。


 クラルシアは、膝の上で指を重ねた。


「噂には聞いておりましたが……これほどとは」


 彼は呟いた。


「陛下ほどの方を妻に迎えられるなら、我が国の者たちもどれほど羨むことか」


 妻。


 その言葉に、指先から体温が抜けていく。


 王子は気づかない。


「私は陛下を大切にいたします。お若く、美しく、これほど清らかな方だ。必ずや、素晴らしい王子をお産みになるでしょう」


 素晴らしい王子。


 身体の奥が、静かに凍っていく。


 この人は、自分を見ていない。


 見ているのは、美しい妻。


 自慢できる王妃。


 まだ生まれてもいない子のための器。


 クラルシアではない。


 次の公子は、武人らしく日に焼け、堂々とした体格をしていた。


 礼儀は先ほどの王子より粗いが、快活で、自信に満ちている。


 ローレンツ公子。


 北方国の御前試合で、並みいる騎士を破って優勝した公子。


 聞いたことがある。


「いや、実にお小さい」


 公子は笑った。


「抱き上げれば折れてしまいそうだ。だが、そこがまた守り甲斐がある」


 守り甲斐。


 クラルシアは微笑んだ。


 守るという言葉は、優しいはずだった。


 けれど彼の目は、守るものを見る目ではない。


 自分の腕の中に閉じ込めるものを見つけた男の目だった。


 公子の視線は遠慮がなかった。


 顔を見る。


 首を見る。


 肩を見る。


 そして、胸元で明らかに止まる。


 隠されているからこそ、かえって興味を引かれるのだと言わんばかりだった。


 胃がひきつった。


 それでも、クラルシアは微笑み続けた。


「陛下のような美姫を迎えられる男は幸運ですな。華奢でいらっしゃるのに、実に……いや、失礼。神はずいぶんと贅沢にお作りになった」


 ロゼの視線が冷たくなる。


 クラルシアは、膝の上の指をきつく握った。


 この人は今、わたしの何を見ているのだろう。


 答えは、分かっていた。


 分かってしまうことが、嫌だった。


「私は子には恵まれやすい家系でして。陛下ほどお若ければ、きっと何人でも――」


 その先は、あまり聞こえなかった。


 立っていればいい。


 笑っていればいい。


 誰かの声が、頭の中で繰り返す。


 ロゼが一歩前へ出かけたが、宰相ヴェルナーの視線がそれを制した。


 すべては国のため。


 王家のため。


 次代のため。


 美しい言葉はいくらでも並べられる。


 けれど、どれも同じ意味だった。


 三人目の男が現れた時、クラルシアは一瞬、息を止めた。


 ベルン侯爵。


 五十を過ぎた男だった。


 腹は大きく突き出し、顎の下にはたるんだ肉が重なっている。


 指には宝石の指輪がいくつも嵌められ、歩くたびに香水と酒の混ざった匂いが漂った。


 その目が、入室した瞬間からクラルシアに貼りついた。


 顔ではない。


 身体だった。


 白い喉。


 華奢な肩。


 胸元。


 腰。


 脚。


 まるで品定めをする商人のような目だった。


 特に胸元へ向けられた視線は、隠された布の上からでも重かった。


 見えないはずのものを、見えているかのように眺める。


 その目が肌の上を這うようで、クラルシアは息の仕方を忘れた。


「これはこれは……」


 侯爵は口元を歪めた。


「噂以上ですな、陛下」


 クラルシアは立ち上がったまま礼を返した。


「ようこそお越しくださいました、ベルン侯爵」


「いや、いや。こちらこそ。まさか私のような老骨にも、陛下との縁談の機会をいただけるとは」


 老骨。


 そう言いながら、その目には枯れた気配など少しもなかった。


 濁った欲望が、じっとりとクラルシアに絡みつく。


 侯爵の視線は、布で隠された場所を、見えないまま眺めていた。


 その視線だけで、肌に見えない手が触れたようだった。


「しかし陛下は、実に可憐でいらっしゃる。まるでまだ幼い少女のようだ」


 侯爵は近づいた。


「甘い匂いも実に……」


 ロゼが一歩前へ出る。


「侯爵。それ以上は」


「おお、これは失礼」


 侯爵は大げさに両手を上げた。


 だが、目はクラルシアから離れない。


「いや、あまりに愛らしいもので。陛下ほど小柄であられると、かえって殿方の庇護欲をそそりますな」


 喉の奥が詰まった。


「侯爵」


 ヴェルナーが穏やかに声をかける。


「ご発言にはご配慮を」


「これは失礼、宰相殿」


 侯爵は笑った。


「なに、陛下をお褒めしているだけです。これほど美しく可愛らしい方なら、どこの国の王子も欲しがるでしょう。私とて、年甲斐もなく胸が高鳴っております」


 欲しがる。


 その言葉が、妙に生々しく響いた。


 クラルシアは微笑んだ。


 微笑まなければならなかった。


 女王だから。


 王家の血だから。


 ヴァイスヴェール王国の未来のためだから。


「陛下」


 侯爵が言った。


「どうか私との縁も、真剣にお考えください。年齢の差など、些細なことです。私は若い妻を大切にする自信があります。特に陛下のように美しく、まだ瑞々しい方ならば――」


 ロゼの指が、剣帯の金具に触れた。


 抜きはしない。


 だが、その視線は完全に冷えている。


 あと一歩。


 あと一言。


 あるいは、その濁った目が少しでも陛下の身体へ近づくなら。


 その時は、礼法も爵位も関係ない。


 ロゼは、そう決めていた。


 だが、クラルシアは小さく首を振った。


 やめて。


 騒ぎにしないで。


 そういう意味だった。


 ロゼは苦しそうに奥歯を噛み、剣帯から指を離した。


 クラルシアは、心の中でどこかがまた一つ死んだ音を聞いた。


 見合いが終わった頃には、日が傾いていた。


 窓の外には、王宮の庭が見える。


 薔薇が咲いていた。


 赤。


 白。


 淡い桃色。


 どれも見事だった。


 完璧に手入れされ、美しく、香り高く、少しの傷も見せない花。


 クラルシアは、その薔薇を見つめながら思った。


 嫌い。


 薔薇の花は嫌い。


 永遠に美しくあれと命じてくるから。


 傷ついても、苦しんでも、咲いていろと言ってくるから。


 背後でヴェルナーが言った。


「本日の候補者はいずれも有力です。特にローレンツ公子はラウゼン国との外交上の利が大きく、ベルン侯爵は国内貴族の支持を固める上で価値があります」


 クラルシアは振り返らなかった。


「……そうですか」


「陛下には、もう少し前向きなお姿勢を見せていただきたい。皆、陛下のお美しさに心を奪われておりました。これほど有利な交渉材料はございません」


 交渉材料。


 クラルシアは、静かに目を伏せた。


「わたくしは、材料なのですね」


「陛下」


 ヴェルナーの声は、あくまで穏やかだった。


「王冠を戴くということは、個を超えて国に尽くすということです」


 個。


 国に尽くす。


 ヴェルナー宰相の言うことは、間違っていない。


 きっと、間違っていない。


 クラルシアはそう思おうとした。


 わたしは、臣民の血税で生きている。


 何も返せていない。


 何も守れていない。


 王冠を戴いているのに、国の役に立てていない。


 ならば、この顔が使えるなら使えばいい。


 この身体が役に立つなら、差し出せばいい。


 男たちが欲しがるものを、国のために渡せばいい。


 それが女王の務めなのだと、そう思えばいい。


 親に捨てられることも。


 傷つけられることも。


 価値を測られることも。


 世界には、いくらでもある。


 もっと苦しんでいる人はいる。


 もっと奪われている人はいる。


 もっと声も上げられずに死んでいく人もいる。


 それなのに、なぜ自分だけが苦しんでいるような顔をするのか。


 なぜ、自分だけが被害者のように震えているのか。


 甘えている。


 弱い。


 情けない。


 女王なのに。


 国のために生きなければならないのに。


 ベルン侯爵であっても、きっと悪い方ではないのかもしれない。


 年の差があるからこそ、大切にしてくれるかもしれない。


 王子も、公子も、侯爵も、皆、国のためには必要な相手なのだ。


 だから、これはいいことのはずだった。


 やっと国の力になれるのだ。


 何の問題がある。


 何の問題もない。


 そう言い聞かせる。


 そう言い聞かせなければ、立っていられなかった。


 でも。


 苦しかった。


 思えば思うほど、胸の奥が狭くなっていく。


 わたしの心。


 それは、どこへ行ったのだろう。


「ご安心ください。陛下が最も国益に適う相手をお選びできるよう、我々が尽力いたします。陛下は難しいことを何もお考えになる必要はございません」


 選ぶ。


 その言葉に、トルガの声が重なった。


 ――クラルシア。おまえはどうしたい。


 クラルシアの指が、隠してあるロザリオに触れた。


 その下には、自分の身体がある。


 彼らが見ていたもの。


 彼らが欲しがったもの。


 国のために差し出されるもの。


 答えられなかった。


 あの時も。


 今も。


 どうしたいのか分からない。


 何を望んでいいのか分からない。


 望んだところで、叶うとも思えない。


 だから、きっと自分は傀儡なのだ。


 命じられれば座る。


 命じられれば笑う。


 命じられれば頷く。


 命じられれば、いつか誰かの妻になり、子を産む。


 それが正しいはずなのに。


 その先にある未来が、どうしても明るく見えなかった。


 すべて、わたしのせいなのに。


「陛下?」


 ヴェルナーが呼ぶ。


「明後日も見合いの予定が組まれております。よろしくお願いいたしますね、陛下」


 その瞬間、ぽきりと、なにかが折れた気がした。


 クラルシアはゆっくりと振り返った。


 笑った。


 いつもより自然に笑えた気がした。


 それはたぶん、その笑みの中に、自分がもういなかったからだ。


「宰相の判断に、お任せいたします」


 ロゼが息を呑んだ。


 ヴェルナーは満足げに頷く。


「賢明なご判断です、陛下」


 その言葉が、胸の中で冷たく響いた。


 自室へ戻る頃には、クラルシアの心はほとんど空になっていた。


 女官たちが髪飾りを外す。


 首飾りを外す。


 指輪を外す。


 帯を解く。


 一つずつ飾りが消えていくのに、軽くならない。


 むしろ、自分の中に何も残っていないことだけがはっきりしていく。


 最後に胸元の飾り布が外された時、クラルシアは反射的に自分の身体を腕で隠した。


 女官はそれを不思議そうに見た。


「陛下?」


「……何でもありません」


 小さく答える。


 何でもない。


 何でもないはずだった。


 けれど、今日一日浴びた視線が、まだ肌に残っている気がした。


 顔。


 首。


 胸元。


 腰。


 値踏みされる視線。


 欲しがられる視線。


 愛ではなく、所有のための視線。


「お疲れ様でございました、陛下」


 女官が頭を下げる。


 クラルシアは頷いた。


 鏡の中の少女も、同じように頷いた。


 人形。


 それが、そこにいた。


 クラルシアは鏡を見つめたまま、小さく呟いた。


「……わたしは、どうしたいのでしょうね」


 誰も答えなかった。


 答えられる者など、ここにはいなかった。


 問いは、声になった瞬間から部屋の白さに吸い込まれていく。


 ロザリオだけが、冷たく指先に触れていた。


 クラルシアはそれを握る。


 少しだけ、痛かった。


 その痛みだけが、まだ自分のものだった。

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