第12話 白鐘橋
王宮の窓から覗く夜は、いつもより黒く見えた。
クラルシアの中身は、もう空っぽになっていた。
見合いだけが原因ではなかった。
けれど、あの男たちの視線が、声が、笑みが、今まで押し込めていたものを一斉に引きずり出した。
母の死。
父から手放されたこと。
戦火に焼かれた聖ルミナ教会。
炎と煙の中を、泣きながら逃げ回った夜。
誰の手も掴めず、テレサ様の声だけを探していた自分。
遠くで鳴り続けていた、かすれた白鐘の音。
北壁の教会で浴びせられた冷たい水。
隠されたパン。
引かれた髪。
嘲笑。
そして、王宮に戻されてから人形として扱われた三年間。
悪い記憶ばかりが蘇る。
ひとつ思い出すたび、次の記憶が手を伸ばしてくる。
忘れたふりをしていた痛みが、今夜だけは順番を待たずに押し寄せてきた。
生き残った。
それだけだった。
生き残ったから、女王になった。
生き残ったから、美しく飾られた。
生き残ったから、誰かの妻にされようとしている。
生き残ったから、子を産めと言われている。
こんなことなら。
クラルシアは、窓硝子に映る自分を見つめた。
あの時、聖ルミナ教会で死んでいればよかった。
テレサ様と一緒に。
白鐘の音を聞きながら。
そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ静かになった。
頑張ってきた。
そう思っていた。
そう思いたかった。
笑って立っていれば、少しは国の役に立てるのだと。
美しい女王でいれば、誰かの安心になるのだと。
自分が人形であることに耐えれば、何か一つくらい守れるのだと。
でも、もう疲れてしまった。
明るい未来など、どこにも見えない。
誰もクラルシアを必要としていない。
欲しがられているのは、この顔。
この身体。
王家の血。
女王という名。
中身など、最初から誰も見ていなかった。
空っぽだった。
空っぽのまま、美しく飾られているだけだった。
窓の外では、雨が降っていた。
細い雨ではない。
空そのものが壊れたような、土砂降りの雨だった。
窓硝子を叩く音が、絶え間なく部屋に響いている。
その音が、妙に優しかった。
王宮の中の声を、すべて消してくれる気がした。
――生きていれば、必ず良いことがあるのですよ。
テレサ様の声が、胸の奥で聞こえた。
嘘つき。
テレサ様の嘘つき。
良いことなど、なかった。
あったのかもしれない。
けれど、あったとしても、すぐに奪われた。
大切なものはいつも先に消えた。
信じた人ほど、自分の前からいなくなった。
――クラルシア。おまえはどうしたい。
今度は、トルガの声が蘇る。
クラルシアは唇を噛んだ。
そんなこと、聞かないでほしかった。
分かるわけがない。
どうしたいかなど、ずっと考えないようにしてきたのに。
望めば苦しくなる。
欲しがれば失う。
助けてほしいと思えば、誰も来ないことを知ってしまう。
だから何も望まないようにしてきたのに。
あの人は、それをまっすぐに壊していった。
無責任だ。
わたしのことなど、何も知らないくせに。
あんな目で、あんな声で、聞かないでほしかった。
でも。
せめて終わるのなら、聖ルミナ教会がいい。
白鐘の小教会。
テレサ様が鐘を鳴らした場所。
生きていていいと、初めて教えられた場所。
あそこでなら、少しだけ許される気がした。
そう思った時には、足が動いていた。
夜の王宮は静かだった。
土砂降りの雨音が、見張りの声も、廊下の気配も、すべて曖昧にしていた。
警護の隙間を縫うように、クラルシアは廊下を進んだ。
自分でも不思議なほど、誰にも止められなかった。
運が良かったのか。
それとも、女王が一人で消えようとしているなど、誰も思わなかったのか。
靴を履いていないことに気づいたのは、冷たい石畳を踏んだ時だった。
けれど、どうでもよかった。
裸足で駆けた。
雨が全身を叩く。
髪が頬に貼りつく。
薄い寝衣が水を吸い、重くなって足に絡んだ。
それでも、クラルシアは止まらなかった。
小石が刺さり、足の裏が切れた。
冷たい泥が肌にまとわりついた。
それでも、どうでもよかった。
痛いなら、まだ生きているということだ。
それすら、もうすぐ終わる。
夜の王都に、人影はなかった。
この雨の中、外を歩く者などほとんどいない。
店の灯りは閉ざされ、窓は固く閉められ、石畳に叩きつける雨音だけが街を満たしていた。
雲の裂け目から落ちる月明かりだけを頼りに、クラルシアは走った。
誰も気づかない。
女王が裸足で走っていることに。
白い寝衣を泥で汚し、髪を乱し、息を切らしていることに。
この国の人形が、たった一人で夜の雨の中を逃げていることに。
誰も、気づかなかった。
聖ルミナ教会へ。
テレサ様のいた場所へ。
やがて、橋が見えた。
古い石橋。
白鐘橋。
聖ルミナ教会へ向かう街道の入口にかかる橋だった。
クラルシアはそこで、また絶望した。
遠い。
まだ、遠い。
聖ルミナ教会跡は、この先のさらに先にある。
夜の道を、雨に濡れた女一人で歩いてたどり着けるような場所ではない。
それでも行きたかった。
帰りたかった。
焼け跡でもよかった。
瓦礫でもよかった。
白鐘がもう鳴らなくても、テレサ様がもういなくてもよかった。
あの場所を、もう一度だけ見たかった。
足を引きずる。
一歩。
また一歩。
けれど身体は、もう言うことを聞かなかった。
濡れた石畳に足を取られる。
鈍い音がした。
自分が倒れる音だった。
膝を打ち、手をつき、泥と雨水が白い指を汚した。
足の裏が熱い。
冷たい雨の中なのに、そこだけ焼けるように痛かった。
潰れた血豆から、薄く血が滲んでいた。
雨がすぐにそれを洗い流す。
何も残らない。
血でさえ、すぐに消えていく。
「……神は」
地面に手をついたまま、クラルシアは小さく呟いた。
「わたしの最後の願いも、聞いてくれないんだね」
声は、女王のものではなかった。
泣き疲れた少女の声だった。
嫌だ。
一目だけでよかった。
聖ルミナ教会を見たかった。
黒く焦げた石でも、崩れた鐘楼の影でも、何も残っていなくてもいい。
あの場所に、もう一度だけ帰りたかった。
それだけでよかったのに。
あとは何も望まないから。
もう邪魔にならないから。
だから、せめてそこまでは許してほしかった。
なのに、足が動かない。
「やだよ……」
声が震えた。
「こんなところで、終わりたくない……」
その言葉が口からこぼれた瞬間、クラルシアは自分で驚いた。
終わりたいはずだった。
もう全部、終わらせたいはずだった。
それなのに。
こんなところでは嫌だと思っている。
聖ルミナ教会まで行きたいと思っている。
まだ、最後の場所だけは選びたいと思っている。
「お母様……お父様……ごめんなさい。」
なにもできなくて。
そう呟いた。
涙が落ちた。
けれど、雨に混じってすぐに分からなくなった。
その時だった。
「クラルシア」
誰かが呼んだ。
雨音の向こうから、低い声がした。
クラルシアは、ゆっくりと顔を上げた。
空は厚い雲に覆われ、橋の上には雨だけが降っている。
それでも、街灯の弱い光と月の光が、橋の上に立つ影をかろうじて照らしていた。
黒い外套。
高い背。
鋭い目。
「……トル、ガ」
名前を呼んだ瞬間、涙が溢れた。
まただ。
また、この男の前で泣いている。
自分は、いったい何度この男の前で泣けば気が済むのだろう。
「惨めだね。わたし」
まるで小さな子供のような声だった。
雨音に消されるはずのその声を、トルガは確かに聞いた。
「女王なのに。何もできなくて。逃げることもできない。終わる場所にもたどり着けない………」
トルガは何も言わなかった。
ただ、雨の中を歩いてきた。
足音は、雨にほとんど消えていた。
クラルシアの前で膝をつき、その身体を支える。
冷えた手。
血の滲んだ足。
濡れた頬。
泥に汚れた寝衣。
トルガはそれらを見て、低く息を吐いた。
「立てるか」
クラルシアは首を振った。
「そうか」
それだけだった。
トルガは黙って、彼女を抱き寄せた。
無理に引き上げるのではなく、壊れものを扱うように、しかし迷いなく。
そのまま、クラルシアを強く抱きしめた。
雨と泥と、夜の匂いがした。
王宮の香とは違う。
綺麗な花の匂いでもない。
それなのに、温かかった。
クラルシアは、トルガの胸元に縋った。
涙が溢れるが、雨で消される。
「トルガ」
声が震える。
「お願い」
ずっと言えなかった言葉だった。
誰にも言ってはいけないと思っていた言葉だった。
言えば、迷惑になると思っていた。
言えば、失望されると思っていた。
言えば、自分が本当に何もできない人間だと認めてしまう気がしていた。
それでも、もう言わずにはいられなかった。
「助けて」
トルガの腕に、静かに力がこもった。
この女が、自分でそう言った。
女王としてではなく。
白薔薇としてでもなく。
王家の血としてでもなく。
ただ一人のクラルシアとして。
なら、答えるだけだった。
「分かった」
短い言葉だった。
けれど、その声には迷いがなかった。
「すべて俺がなんとかする」
それ以上、トルガは何も言わなかった。
代わりに、大きな手をクラルシアの頭へ置いた。
濡れた金の髪に、泥と雨が絡んでいる。
撫で方など知らない男の手だった。
大きく、硬く、不器用で。
それでも、壊さないように力だけは殺していた。
クラルシアの顔が歪んだ。
「……っ」
声にならない嗚咽が漏れる。
泣いていいと言われたわけではない。
けれど、その手があまりに温かくて、もう我慢できなかった。
トルガは視線を落とし、クラルシアの足を見た。
裸足。
泥。
潰れた血豆。
雨に流されてもなお滲む、細い赤色。
トルガの眉間に、深い皺が寄った。
怒りはあった。
けれど、それを向ける相手は、目の前のクラルシアではなかった。
トルガは何も言わず、外套を脱いだ。
濡れきったクラルシアの身体を包む。
その手つきは荒くない。
大きく、硬く、不器用で。
それでも、雨から隠すように、できるだけ丁寧だった。
そのまま、彼女の膝の裏と背中に腕を回した。
軽すぎる身体だった。
クラルシアは抵抗しなかった。
両手でトルガの服を掴み、彼の胸に顔を埋めたまま、ただ泣いていた。
二つの影が、白鐘橋を離れていく。
聖ルミナ教会へ向かう道ではなく、王宮へ戻る道へ。
けれどクラルシアは、もう何も言わなかった。
トルガの胸に顔を埋めたまま、小さく泣いていた。
降り続いていた雨が、少しだけ弱まった。
石橋を叩く音が遠のき、夜の底に沈んでいた街の輪郭が、かすかに戻り始める。
遠くで、白鐘の音が聞こえた気がした。
かすれて、不器用で、それでも確かに朝を告げる音。
その夜、クラルシアは初めて、自分から助けを求めた。
そしてトルガ・ラグレイは、初めてその願いに答えた。




