第8話 番犬と黒犬
牢の外で、足音が止まった。
軽い音ではない。
だが、王都保安団のように靴音をわざと響かせる歩き方でもなかった。
一定の間隔。
無駄のない足運び。
剣を差した者の歩き方。
トルガは壁にもたれたまま、目だけを動かした。
「……番犬か」
鉄格子の向こうに立ったのは、ロゼ親衛隊長だった。
背筋は真っ直ぐに伸びている。
腰の剣に手は置いていない。
だが、抜くつもりになれば、瞬き一つの間に抜ける距離だった。
「言葉遣いはなんとかならないのですか、トルガ・ラグレイ」
「牢に入れておいて礼儀か」
トルガは低く言った。
「面倒な場所だな」
「あなたが無礼だから牢に入れられたのです」
「女王が倒れたからだろ」
トルガがそう言うと、ロゼの目が細くなった。
「……陛下はお目覚めになられました」
トルガは、ほんのわずかに動きを止めた。
だが、それ以上は見せなかった。
「そうか」
短い返事だった。
「息があるならいい」
「その言い方しかできないのですか」
「事実だ」
ロゼは答えなかった。
代わりに、腰の鍵束を取り出す。
鉄の鍵が、冷たい音を立てた。
トルガは片眉を上げた。
「処刑か」
「陛下のご命令です」
「命令?」
「あなたを解放せよ、と」
トルガは、初めて少しだけ黙った。
牢の中の空気が、妙に静かになる。
「……あの女が?」
「陛下です」
「女王が、俺を」
「そうです」
ロゼの声には、不満が滲んでいた。
命じられたから従う。
だが、納得はしていない。
そんな声だった。
鍵が回る。
錠が外れる。
鉄格子が軋んで開いた。
「出なさい」
トルガはすぐには動かなかった。
壁にもたれたまま、ロゼを見る。
「俺が何かしたと言ったんだろ」
「申し上げました」
「なら、なぜ解く」
「陛下が、あなたは危害を加えていないと仰せになりました」
トルガは小さく舌打ちした。
「律儀だな」
「誠実な方ですから」
トルガは立ち上がった。
鎖が外される。
手首に赤く跡が残っていたが、彼は気にする様子もない。
ロゼはその手首を一瞥し、すぐに視線を戻した。
「わたくしは、あなたを信用したわけではありません」
「だろうな」
「陛下のご命令ゆえ、拘束を解くだけです。次に陛下へ無断で触れれば、その場で斬ります」
トルガはロゼを見た。
「さっきも斬れた」
「斬るべきか迷いました」
「なぜ迷った」
「あなたに殺気がなかったからです」
トルガは、そこで少しだけ目を細めた。
「見てるな」
「陛下をお守りするためです」
「なら守れ」
その一言に、ロゼの表情が凍った。
牢の空気が、刃のように冷える。
「……何ですって」
「聞こえただろ」
「もう一度言えば、今度こそ斬ります」
ロゼの親指が、剣の鍔をわずかに押した。
小さな金属音が、地下牢に落ちる。
あと指一本分、力が入れば刃は抜けていた。
それでもトルガは、ロゼの殺気を真正面から受けながら、少しも退かなかった。
「斬れ。だが、あの女をあんな目にしたのは俺じゃねえ」
「黙りなさい」
「あの女の目は、もう助けを呼ぶことさえ諦めてた」
ロゼの指が、鍔の上で止まる。
「助けてほしいくせに、助けてくれとも言えねえ顔だ。スラムでもそう見ねえ」
「黙れと言っています」
「王宮は綺麗だな。床も壁も、牢まで掃除されてる」
トルガは鉄格子の外へ一歩出た。
「だが、そこに座ってる女王があの顔なら、どこかで腐ってる」
ロゼは、今度こそ剣を抜きかけた。
だが、抜かなかった。
抜けなかった。
その言葉が、あまりに無礼で、あまりに粗暴で、あまりに腹立たしいのに。
完全な嘘だとは、言い切れなかった。
「陛下はお強い方です」
ロゼはそう言った。
言い慣れた言葉だった。
忠誠としても、祈りとしても、何度も胸の中で繰り返してきた言葉だった。
けれど、トルガは鼻で笑った。
「強い?」
「何がおかしいのです」
「強い奴は、あんな目で座ってねえ」
ロゼの目が細くなる。
「あなたに、陛下の何が分かるのです」
「分からねえ」
トルガは、少しも迷わず言った。
「だが、泣いた時だけ生きてた」
ロゼは黙った。
反論はあった。
いくらでもあった。
陛下は日々務めを果たしている。
民の前では微笑まれる。
重臣たちの前でも折れない。
どれほど苦しくとも、女王として立っておられる。
けれど、その言葉を口にするほど、胸の奥が冷えていった。
それは本当に、生きている姿だったのか。
それとも、壊れないように固まっていただけなのか。
「……あのお姿は」
ロゼは、かすかに目を伏せた。
「わたくしも、初めて見ました」
それが、限界だった。
それ以上は言わなかった。
言えば、自分が守ってきたものまで、崩れてしまいそうだった。
トルガはしばらく何も言わなかった。
やがて、低く呟く。
「強いんじゃねえ」
ロゼが顔を上げる。
「死んでただけだろ」
「……無礼です」
「知ってる」
「本当に、あなたという人は」
ロゼは深く息を吐いた。
怒りを抑えるためというより、何かを飲み込むための息だった。
「陛下は、もう一度あなたと話すと仰せです」
「また倒れるぞ」
「そうならないよう、わたくしが同席します」
「隣室じゃなくてか」
「ええ。扉一枚では足りないと判断しました」
「最初からそうしろ」
「……返す言葉もございません」
ロゼがそう言うと、トルガはわずかに目を細めた。
少しだけ、意外そうな顔だった。
「女王は飲んだのか」
「最大限の譲歩として受け入れる、と」
トルガは一瞬、黙った。
それから、ほんのわずかに口の端を動かした。
「言いそうだ」
ロゼはその表情に、少しだけ怪訝な顔をした。
「……ずいぶん、陛下を軽く語るのですね」
「そうか?」
「ええ。不愉快です」
「なら斬るか」
「必要があれば」
「そうだな。金髪のちっこいガキなら覚えてる」
「その呼び方を陛下の前で言えば斬ります」
トルガは肩をすくめなかった。
ただ、ロゼを横目で見た。
「で、あの女はどこだ」
「お休みになっています」
「そうか」
短い返事だった。
それ以上、何も言わない。
けれど、ロゼは気づいた。
この男は今、確かに安堵した。
ほんのわずか。
目に出るか出ないかの程度だったが、確かに。
ロゼは、それを見なかったふりをした。
「あなたには、当面、王宮内の客室で待機していただきます」
「客室」
「牢ではありません。ただし、親衛隊の監視付きです」
「紅茶は出るのか」
「……出します」
「ならいい」
「あなたは本当に……」
ロゼは言いかけて、やめた。
怒るだけ無駄だと悟ったのだ。
「ついてきなさい。勝手な行動をすれば、即座に再拘束します」
「分かった」
トルガは歩き出した。
石造りの通路を抜ける。
牢の湿った空気が背後に遠ざかり、王宮の香の匂いが少しずつ濃くなる。
綺麗な場所だ。
気味が悪いほどに。
だが、その奥に、あの女がいる。
助けを呼ぶことさえ諦めた目をしていた女。
泣きながら怒った女。
テレサの名を守ろうとして、自分の声を取り戻した女。
トルガは、誰にも聞こえないほど低く呟いた。
「……人形に戻るなよ」
ロゼは振り返らなかった。
けれど、その言葉だけは聞こえていた。
そして少しだけ、剣の柄から手を離した。
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