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第7話 罪人とパン 

 トルガ・ラグレイは、王宮の地下牢に繋がれていた。


 地下牢、と呼ぶには、ずいぶんと清潔な場所だった。


 石床は掃かれている。


 壁には湿気こそあるが、糞尿の臭いはしない。


 鉄格子も錆びきってはいなかった。


 罪人を置く場所でさえ、人の手を入れる余裕がある。


 それだけで、この国の上澄みがどれほど満ち足りているかが分かる。


「……紅茶くらい出せ」


 トルガは壁にもたれ、片膝を立てたまま呟いた。


「王宮だろうが」


 見張りの兵は答えなかった。


 当然だ。


 牢に繋いだ男に茶を出す馬鹿はいない。


 それでも悪態をつかずにはいられなかった。


 黙っていると、余計なものばかり思い出す。


「あの女」


 トルガは低く吐いた。


「つまらねえことを思い出させやがって」


 クラルシア・ヴァイスヴェール。


 女王陛下。


 白い肌。


 金の髪。


 小さな身体。


 整いすぎた顔。


 王宮に飾られるために作られた人形のような女。


 最初はそう思った。


 だが、違った。


 あの目だ。


「死んだ目をしてたな」


 トルガは呟いた。


 助けてほしい人間の目。


 それでいて、もう助からなくてもいいと思っている人間の目。


 スラムの路地裏で、何度も見た。


 人買いに連れていかれる前の子供。


 殴られすぎて抵抗する気力を失った女。


 明日を諦めた者の目。


 それが、女王の顔に浮かんでいた。


「笑えねえ」


 トルガは舌打ちした。


 王宮という場所は、ずいぶん綺麗だった。


 磨かれた床。


 香の匂い。


 音もなく歩く使用人。


 丁寧な言葉。


 揃った礼。


 だが、あの女王の目は、スラムの底にいる連中と同じだった。


 あんな目をした女を、絹と宝石で飾っている。


 白い部屋に座らせて、陛下と呼んでいる。


「趣味が悪い」


 スラムは汚い。


 腐った水の臭いもする。


 殴られれば痛い。


 奪われれば腹が減る。


 だが、汚いものは汚い顔をしている。


 王宮は違う。


 綺麗な顔で人を削る。


 丁寧な言葉で首を絞める。


 白い手袋で、血の出ない傷をつける。


 あの女がどうしてあんな目になったのか、トルガは知らない。


 知る義理もない。


 それでも、気に入らなかった。


「気に入らねえ」


 声に出すと、余計に腹が立った。


 クラルシアは怒った。


 泣きながら、声を震わせた。


 ――そんな言い方、しないで。


 あれは女王の声ではなかった。


 王宮の椅子に座り、澄ました顔で他人の言葉を受け流す声ではない。


 陛下と呼ばれる者の声でもない。


 もっと幼い声だった。


 喉の奥からこぼれた、剥き出しの声。


 ――テレサ様は、そんなふうに言われていい人じゃない。


 小さな身体で、真正面から見上げてきた。


 震えていた。


 泣いていた。


 それでも退かなかった。


 あんな目をした女が、まだ怒れるとは思わなかった。


 人形のように座っていた女が、テレサの名を守るためだけに、女王の顔を捨てた。


 それが、妙に腹立たしかった。


 いや。


 腹が立ったのは、そこではない。


 あの声を出させたのが、自分だということだ。


「……言ったな」


 トルガは低く呟いた。


 ――パンだけ渡しておいて、勝手にくたばりやがった。


 ――哀れなばばあだ。


 言った。


 確かに言った。


 言いすぎた。


 そう思ったから、撤回した。


 だが、撤回したところで消えるわけではない。


 口から出たものは戻らない。


 刃物と同じだ。


 一度刺されば、傷は残る。


 トルガは舌打ちした。


 シスター・テレサ。


 その名を、久しぶりに聞いた。


 聞きたくなかった。


 思い出したくもなかった。


 あの白いボロ教会。


 朝になると鳴る、かすれた鐘。


 薄いスープ。


 硬いパン。


 何を考えているのか分からない、細い腕のばばあ。


 盗んで食うしか知らなかったガキに、当たり前みたいにパンを差し出した女。


 ――食べないのですか、トルガ。


 あの時の自分は、確か十歳くらいだった。


 正確な歳など知らない。


 誰も数えていなかった。


 自分でも興味がなかった。


 ただ、血の匂いと泥の匂いだけはよく知っていた。


 トルガは、差し出されたパンを睨んだ。


 腹は減っていた。


 減っていないはずがない。


 腹の中は空っぽで、喉も渇いていて、指先は冷えていた。


 けれど、手を伸ばせなかった。


 ただで差し出される食べ物など、知らなかったからだ。


 奪ったものには、まだ理屈があった。


 盗んだものには、まだ意味があった。


 勝って取ったものなら、自分が生き残った証になる。


 けれど、差し出されたものは分からない。


 なぜ自分にくれるのか。


 何を返せというのか。


 いつ殴られるのか。


 いつ奪い返されるのか。


 分からなかった。


 だから、十歳のトルガは睨んだ。


 パンを。


 それを持つ女を。


 そして、それを欲しがっている自分自身を。


 ――俺、人を殺したことあるんだぞ。


 子供の声だった。


 低くしようとしても、まだどこか高い。


 凄ませようとしても、喉の奥に震えが残る。


 ――そんなやつに、パンなんかやるなよ。


 テレサは黙っていた。


 トルガは続けた。


 ――パンは……取るもんだろ。取らなきゃ食えねえだろ。


 それは、今のトルガのように整った声ではない。


 もっと幼く、もっと必死だった。


 世界がそうだと信じ込むことでしか、自分を保てない子供の言葉だった。


 奪わなければ食えない。


 奪えなければ死ぬ。


 それが、当時のトルガが知るすべてだった。


 テレサは、しばらく黙っていた。


 軽蔑されると思った。


 追い出されると思った。


 あるいは、神の名でも出して説教されるのだと思った。


 だが、あのばばあは違った。


 ――では、罪人は一生許されないのですか?


 トルガは答えられなかった。


 テレサは静かに続けた。


 ――大切なもののために、誰かを傷つけてしまう人もいるでしょう。大切なものを守るために、罪を背負ってしまう人もいるでしょう。


 あの声は、今でも耳に残っている。


 ――貴方は、無闇に人を殺す人ではありません。


 嘘だ、と思った。


 無闇に殺したことなど、いくらでもある。


 憎かったから。


 邪魔だったから。


 先にやらなければ自分がやられると思ったから。


 理由など、後からいくらでもつけられる。


 けれど、必要な殺しばかりだったとは言えなかった。


 それでもテレサは、トルガを見て言った。


 ――わたくしが、貴方を信じましょう。トルガ。


 馬鹿な女だと思った。


 スラムのガキを信じて、何になる。


 人を殺したガキにパンを与えて、何が返ってくる。


 祈ったところで、死んだ人間は戻らない。


 そう思った。


 それでも、あの日から。


 トルガは、いたずらに人の命を奪うことをやめた。


 理由は分からない。


 テレサに信じられたからか。


 あのパンが温かかったからか。


 殴らずに名前を呼ばれたからか。


 答えはいまだに出ていない。


「……死んだあとまで人使いが荒い」


 トルガは天井を見上げた。


「ばばあが」


 聖ルミナ教会。


 白鐘の小教会。


 たった三ヶ月だ。


 たった三ヶ月しかいなかった。


 なのに、忘れられない。


 あの鐘の音も。


 あのパンの味も。


 あの金髪のちっこいガキも。


 クラルシア。


 女王の名前は、たしかに知っていた。


 ただ、名前は知っていても、聖ルミナ教会とは結びつかなかった。


 だが、顔を見れば分かった。


 ばばあの後ろに隠れていた。


 パンを握って、今にも泣きそうな顔をしていた。


 あの白い教会の中で、一人だけ妙に場違いだった子供。


 場違い。


 あれは、悪口のつもりではなかった。


 あの教会には、行き場のない子供が何人もいた。


 痩せて、汚れて、眠る場所があるだけで十分だという顔をした連中ばかりだった。


 その中で、あいつだけは浮いていた。


 ボロい服を着ていても。


 薄いスープを両手で抱えていても。


 床の隅で膝を抱えていても。


 妙に目についた。


 汚れた場所に置かれるべきものではないように見えた。


 綺麗だった、などとは言いたくない。


 そんな言葉は嫌いだ。


 王宮の連中が吐く、あの綺麗な言葉と同じ匂いがする。


 だが、あれは確かに場違いだった。


 そして今も、場違いだった。


 王宮の中で。


 女王の椅子に座って。


 陛下と呼ばれて。


 それでも、あの女はやはり、どこかに置き間違えられたもののように見えた。


「……あんなちっこい身体で女王かよ」


 トルガは目を閉じた。


 抱きしめた感触が、まだ腕に残っている。


 小さかった。


 軽かった。


 少し力を入れれば、折れてしまいそうだった。


 それなのに、確かに女の身体だった。


 トルガは女を知らない男ではない。


 だが、あれは違った。


 柔らかい、などという言葉では足りない。


 触れた瞬間、自分の手がひどく荒れていて、汚れていて、粗野なものなのだと思い知らされるような感触だった。


 抱いたというより、触れてはいけないものを一瞬だけ腕の中に入れてしまった。


 そんな後ろめたさだけが、まだ消えずに残っている。


 王宮の香なのか。


 石鹸の匂いなのか。


 それとも、あの女自身の匂いなのか。


 雨と泥と血に慣れた鼻には、うまく分からなかった。


 ただ、今まで抱いたどの女にもなかった。


 薄く、清潔で、少し甘い。


 強く主張するわけではないのに、一度吸い込むと、妙に胸の奥に残る。


「……違う」


 トルガは低く吐いた。


「そういう目じゃねえ」


 そういう目で見ていい女ではなかった。


 あれは、泣いていた。


 怒っていた。


 テレサの名を守ろうとしていた。


 自分の唯一の居場所を、必死で抱え込んでいた。


 その肩を抱いた時に覚えたものを、欲だけの名前で呼びたくはなかった。


 なのに。


 思い出してしまう。


 あの軽さを。


 あの温度を。


 自分の腕の中で、わずかに震えていた小さな身体を。


「畜生……」


 トルガは奥歯を噛んだ。


 抱きしめたことを後悔した。


 もう二度と、自分には届かない女。


 これから先、一生触れることもない女。


 スラム上がりのトルガが、触れていい女ではなかった。


 それなのに、腕が覚えている。


 だから腹が立つ。


 クラルシアは、泣きながらテレサの名を守ろうとしていた。


 自分の唯一の居場所を、必死で守ろうとしていた。


 その姿が、どうにも気に入らなかった。


 気に入らなかったのは、クラルシアではない。


 あの女を、あんな目にしたものすべてだ。


 王宮。


 綺麗な服。


 陛下という呼び名。


 丁寧な言葉で人を縛る連中。


 そして、泣いている女を抱きしめることしかできなかった自分自身。


「くそ」


 トルガは鎖を鳴らした。


 鉄は太い。


 鍵も悪くない。


 見張りもいる。


 だが、逃げるだけなら不可能ではない。


 それでもトルガは動かなかった。


 あの女王が目を覚ました時、何を言うのか。


 泣いて怒ったあの目が、まだ残っているのか。


 それともまた、王宮の人形に戻るのか。


 それだけは、見てみたかった。


 トルガは目を閉じた。


 白い部屋。


 金の髪。


 震える声。


 涙に濡れた目。


 思い出すと、また腹が立った。


 牢の中に、舌打ちだけが小さく響いた。

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