第6話 守る理由
目を開けた時、最初に見えたのは白い天蓋だった。
見慣れた、自分の寝室の天井。
薄い絹の帳が、風もないのにわずかに揺れている。
クラルシアは、まどろみの中で、しばらく自分がどこにいるのか分からなかった。
白鐘の音は、もう聞こえない。
薔薇の香りもない。
テレサ様の手も、母の声も、父が呼んだ「シア」も、遠くへ沈んでしまっていた。
代わりに、王宮の香がした。
磨かれた床。
清潔な寝具。
薬草を煎じた、少し苦い匂い。
「……陛下」
そばで、安堵した声が届いた。
ロゼだった。
いつもの凛とした親衛隊長の顔ではない。
ほんのわずかだが、目元に疲労が滲んでいる。
「お気づきになられましたか」
「ロゼ……」
声を出すと、喉が少し痛んだ。
泣いたせいだ、と気づいて、クラルシアは遅れて恥ずかしくなった。
「わたくしは……」
「応接室にて意識を失われました。医師の診立てでは、極度の緊張と疲労による一時的な失神とのことです」
「そう……ですか」
クラルシアは目を伏せた。失神のためか少し足がしびれていた。
「迷惑を、かけました……」
その声は、女王のものではなかった。
弱く、細く、どこか幼い。
叱られる前に先に謝ってしまう子供のような声だった。
ロゼは胸の奥が少し痛んだ。
クラルシアは、時折こういう顔をする。
王冠を戴き、諸卿の前で静かに微笑む女王ではない。
誰かに迷惑をかけたのではないかと本気で気に病み、怒られることよりも、相手を傷つけたのではないかと怯える少女。
十八歳の女王。
だが、その内側には、守られないまま何度も置き去りにされた幼い少女がいる。
ロゼは、その顔を知っていた。
そして、知ってしまったからこそ、弱かった。
クラルシアがこのように小さく謝るたび、ロゼはいつも思うのだ。
この方を守らなければならない。
女王だからではない。
主君だからだけでもない。
この小さな人が、これ以上、自分の痛みまで『迷惑』と呼ばなくて済むように。
「迷惑などではございません」
ロゼは静かに言った。
「陛下がお目覚めになられて、本当に安堵いたしました」
「……怒っていませんか?」
クラルシアが、少しだけ不安げに尋ねる。
その目があまりに幼く見えて、ロゼは一瞬、言葉に詰まった。
「怒ってなどおりません」
「本当に?」
「本当でございます」
「よかった……」
クラルシアは、小さく息を吐いた。
その仕草は、玉座に座る女王ではなく、叱られなかったことに安心する少女そのものだった。
ロゼは深く頭を下げる。
陛下は、ご自身のこういうところを知らない。
どれほど人の心を揺らすのか。
どれほど守りたいと思わせるのか。
どれほど危うく、愛おしいものに見えるのか。
知らないまま、また謝ろうとする。
だからこそ、ロゼはこの方から目を離せない。
「ロゼ」
「はい」
「……トルガ・ラグレイは?」
その名を口にした瞬間、ロゼの表情が硬くなった。
「拘束しております」
「拘束……?」
クラルシアは思わず身を起こそうとした。
だが、身体に力が入らず、ロゼが慌てて支える。
「陛下、まだお休みください」
「ロゼ、拘束とはどういうことですか」
「当然の処置でございます」
ロゼの声は静かだった。
けれど、その奥にはまだ消えない怒りと警戒があった。
「あの男は、陛下のお身体に無断で触れました。その直後、陛下は意識を失われたのです。危害を加えた可能性を否定できぬ以上、拘束しないわけにはまいりません」
「でも……」
「陛下」
ロゼは、いつになく強い声で遮った。
「お忘れですか。あの男は下層区の中でも最も危険人物のうちの一人です。王都保安団でさえ手を焼く男。陛下に万が一のことがあれば、取り返しがつきません」
正しい。
ロゼは正しい。
親衛隊長として、彼女は何一つ間違っていない。
クラルシア自身、それは分かっていた。
けれど。
倒れた瞬間の記憶が、ぼんやりと蘇る。
剣が抜かれる音。
ロゼの怒声。
張り詰めた殺気。
その中で、トルガの声だけが低く響いた。
――倒れただけだ。息はある。先に寝かせろ。
あの声は、焦ってはいなかった。
媚びてもいなかった。
言い訳もしていなかった。
ただ、自分を寝かせることを優先していた。
クラルシアは、ゆっくりと息を吸った。
「彼は、わたくしに危害を加えてはいません」
「陛下」
「わたくしが、勝手に倒れたのです」
「ですが――」
「ロゼ」
クラルシアは、まっすぐにロゼを見た。
声はまだ弱かった。
身体も重い。
喉も痛む。
寝台の上にいる、青白い顔の少女にしか見えない。
けれど、その瞳だけは違っていた。
幼さの奥に、一本だけ、細い芯が通る。
「彼を解放してください」
ロゼが息を止めた。
「……陛下」
「命令です」
自分で言ってから、クラルシアは少し驚いた。
命令。
その言葉を、自分の意思で口にしたのは、いつ以来だろう。
王宮に戻されてから、クラルシアの言葉はいつも誰かに整えられ、誰かに利用されてきた。
命令の形をしていても、それは宰相や重臣たちの意志であることが多かった。
けれど、今の言葉は違う。
これは、クラルシア自身の意思だった。
誰かを罰するためではない。
誰かを従わせるためでもない。
危害を加えていない者を、罰しないための命令。
「彼を、罰しないでください」
ロゼは苦しげに眉を寄せた。
「なぜ、そこまであの男を庇われるのですか」
クラルシアは答えに詰まった。
庇う理由。
そんなもの、自分にも分からない。
彼は無礼だった。
乱暴だった。
テレサ様を悪く言った。
クラルシアを泣かせた。
それなのに。
「……彼は」
クラルシアは、布団の上で指を重ねた。
「わたくしを、女王として見ませんでした」
ロゼが目を見開く。
「それは、無礼ということでは」
「そうなのかもしれません」
クラルシアは小さく頷いた。
「腹も立ったと思います」
「でしたら」
「でも」
クラルシアは、胸の奥に残る白鐘の音を聞いた。
「彼は、わたくしを人形のようには見ませんでした」
王宮の者たちは、クラルシアを丁重に扱う。
美しい言葉を使う。
頭を下げる。
陛下と呼ぶ。
けれどその目は、いつも別のものを見ていた。
王家の血。
女王の名。
利用価値。
美しい身体。
トルガ・ラグレイは違った。
彼は粗野で、無礼で、口が悪くて、どうしようもない男だった。
けれど、あの男は確かに、白鐘の小教会にいた小さな自分を見ていた。
金髪のちっこいガキ。
ひどい言い方だ。
それなのに、胸の奥が少しだけ震えた。
そこにいた自分を覚えている人がいた。
「それに、彼はテレサ様を覚えていました」
クラルシアは言った。
「悪口のような言い方しかできない方のようですが……それでも、忘れてはいませんでした」
「陛下……」
「わたくしは、もう一度、彼と話します」
ロゼの顔に、明らかに反対の色が浮かんだ。
だが、クラルシアは目を逸らさなかった。
「今度は、倒れません」
「それは信用できません」
「ロゼ」
「陛下はご自分がどれほどお疲れか、分かっておられません」
その声には叱責よりも、痛みがあった。
クラルシアは、少しだけ表情を緩めた。
するとまた、先ほどまで命令を下した女王の顔が薄れ、どこか幼い少女の顔が戻ってくる。
「心配をかけました」
「……本当に、心臓が止まるかと思いました」
「ごめんなさい」
ロゼは、その謝罪に少しだけ目を伏せた。
まただ。
この方は、すぐに謝る。
悪くない時でも。
傷つけられた時でも。
倒れるほど苦しかった時でも。
まず、誰かに迷惑をかけたことを謝る。
その幼さは、単なる未熟ではない。
守られなかった時間の長さが残した、痛ましい癖だった。
そしてロゼは、その癖さえも愛おしいと思ってしまう。
愛おしいから、腹が立つ。
腹が立つから、守りたい。
この方に、もう謝らなくていいのだと教えたい。
「謝らないでください」
ロゼは静かに言った。
「陛下がご無事であれば、それでよいのです」
クラルシアは、少しだけ目を丸くした。
そして、小さく頷く。
「……ありがとう、ロゼ」
ロゼはしばらく黙った後、静かに膝をついた。
「承知いたしました。陛下のご命令であれば、トルガ・ラグレイの拘束は解きます」
「ありがとう」
「ただし」
ロゼは鋭く顔を上げた。
「今後、あの男とお会いになる際には、必ずわたくしが近くに控えます。扉一枚の距離では足りません。少なくとも、声だけでなく姿が確認できる位置に」
「それでは一対一ではありませんね」
「一対一など、二度と認めません」
きっぱりと言い切られて、クラルシアは小さく瞬いた。
「……分かりました。最大限の譲歩として受け入れます」
「こちらの台詞でございます」
ロゼはまだ不満そうだったが、少しだけ安心したようにも見えた。
そのまま立ち上がろうとしたロゼを、クラルシアが小さく呼び止めた。
「ロゼ」
「はい」
「……ずっと、聞いてみたいことがあったのですが」
ロゼはわずかに目を見開いた。
クラルシアが、自分のために何かを尋ねることは珍しい。
政務でもない。
儀礼でもない。
誰かへの気遣いでもない。
そんな声だった。
「なんなりと」
ロゼは静かに答えた。
クラルシアは布団の上で指を重ねる。
「恥ずかしいことです。笑いませんか?」
「笑いません」
ロゼは真面目な顔で即答した。
クラルシアは少しだけ目を伏せた。
「……わたしは」
声が細くなる。
「わたしくは、本当に美しいのでしょうか」
ロゼは、今度こそ言葉を失った。
「鏡を見るたびに、時々思うのです。皆が言うほどのものではないのではないかと」
「陛下……」
「正直、このような顔のどこがいいのか、わたしには分かりません。」
クラルシアの指が、布団の上で小さく握られる。
「この顔で、欲しがられることはあります。憎まれたことも。勝手な意味さえもつけられます。でも、わたしには……そんなに価値のあるものには思えないのです」
ロゼは胸の奥が痛んだ。
この方は、本当に知らない。
自分がどれほど人目を奪うのか。
どれほど危うく、儚く、美しく、可愛らしいのか。
そして、その美しさの奥にある幼い素顔が、どれほど人を守りたい気持ちにさせるのか。
知らない。
知る前に、その可愛さを呪いとして教えられてしまったのだ。
「陛下」
ロゼは静かに言った。
「恐れながら申し上げます」
「……はい」
「陛下の美しさは、聖画に描かれる天使にも劣りません」
クラルシアは、困ったように眉を下げた。
「それは、言い過ぎではありませんか」
「言い過ぎではございません」
ロゼはきっぱりと言った。
「即位式の日をお忘れですか。陛下がお姿を見せられた瞬間、広場のざわめきが止まりました。誰もが、陛下に目を奪われておりました」
「それは、わたしが女王だったからでは……」
「いいえ」
ロゼは首を振った。
「女王だからではありません。陛下が、あまりに美しかったからです。そして……あまりに可愛らしかったからです」
「可愛らしい……?身長がでしょうか?」
クラルシアは真顔でそうロゼに言った。
その反応があまりに年相応で、またどこか無防備であり的外れで、ロゼは一瞬だけ表情を和らげそうになった。
しかし、約束通り笑わなかった。
「身長ではありません。ご容姿がです。」
「……そうですか。やはり分かりません。」
クラルシアは可愛いという言葉も嫌というほど浴びせられてきた。しかし価値は見出だせなかった。
「分からなくても、事実でございます」
クラルシアは布団の上で指先を少し動かした。
迷っているようだった。
言ってよいのか分からない言葉を、口の中で何度も確かめているように。
「でも……」
「はい」
「先ほど、トルガ・ラグレイには、金髪のちっこいガキ、と言われました」
「……あの男」
ロゼの声が低くなる。
「いえ。怒らないでください。今でもちっこいのは事実ですし……」
「ちっこくありません。」
「え、でも」
「ちっこくありません。百五十前後というのは女性として平均といえます。」
ロゼはなんとも言えない怒りから小さな嘘をついた。忠義心か、それとも自分の娘を傷つけたくないような母親のようなもので複雑な面持ちだった。
クラルシアは続けて言う
「でも、酷い言い方でした。」
「当然でございます」
「でも……不思議なのです」
クラルシアは目を伏せた。
「陛下でも、白薔薇でも、王家の血でもなく……あの場所にいた小さなわたしを、覚えていたのだと思うと」
言葉がそこで止まる。
「嫌だったのか、少し嬉しかったのか、自分でも分かりません」
ロゼは返す言葉を探した。
許し難い。
そう言うのは簡単だった。
実際、許し難い。
女王であるクラルシアを、金髪のちっこいガキなどと呼ぶ男がどこにいる。
けれど。
クラルシアの声には、傷ついただけではない響きがあった。
忘れられていなかった。
誰も覚えていないと思っていた、白鐘の小教会にいた幼い自分を。
あの粗野な男は、覚えていた。
それがクラルシアの心を、ほんの少し揺らしている。
ロゼには、それが分かってしまった。
「陛下」
ロゼは静かに言った。
「あの男の言葉遣いは、許し難いものです」
「はい」
「ですが……陛下を、白鐘の小教会にいた幼いお姿として覚えていたこと。それ自体は、陛下にとって大切なことなのですね」
クラルシアは、すぐには答えなかった。
やがて、小さく頷く。
「たぶん……そうなのだと思います」
ロゼは胸の奥で、ひとつ息を吐いた。
危険な男だ。
無礼で、粗野で、陛下に近づけるべきではない。
そう思う気持ちは消えない。
だが同時に、認めざるを得なかった。
トルガ・ラグレイは、王宮の誰も見ていなかったクラルシアを見ている。
それがどれほど大きなことなのか、ロゼには分かってしまった。
「陛下」
「はい」
「陛下は、美しい方です。可愛らしい方です。そして、それ以上に、お優しい方です」
クラルシアの睫毛が震えた。
「……優しい、でしょうか」
「はい」
「わたしは、何もできないのに」
「何もできない方は、倒れて目覚めた直後に、他人の心配などなさいません」
ロゼの声は、少しだけ柔らかかった。
「陛下は、いつもご自分を低く見すぎです」
クラルシアは、答えられなかった。
けれど、その目元はほんの少しだけほどけていた。
笑みではない。
けれど、凍った湖の表面に、細いひびが入ったような変化だった。
「ロゼ」
「はい」
「……ありがとう」
「何度でも申し上げます」
ロゼは静かに頭を下げた。
「陛下が信じられるようになるまで、何度でも」
クラルシアは再び枕に身を預ける。
瞼を閉じると、またあの腕の感触が蘇った。
硬くて、泥と雨の匂いがして、王宮の何よりも不作法な腕。
それなのに、そこでは泣いてもよかった。
クラルシアは小さく息を吐いた。
トルガ・ラグレイは、危険な男だ。
けれど、あの男はクラルシアを殺さなかった。
奪わなかった。
そして、泣いている自分を人形のようには扱わなかった。
それだけで、もう一度会う理由には十分だった。




