第5話 白鐘の場所
「陛下!」
ロゼの声がした。
ひどく遠い気がした。
「その手を離しなさい、トルガ・ラグレイ!」
剣が抜かれる音。
複数の足音。
張り詰めた殺気。
けれど、クラルシアを抱いていた腕は、乱暴にはほどけなかった。
「倒れただけだ」
低い声が、すぐ近くで聞こえた。
「息はある。先に寝かせろ」
「黙りなさい。陛下に何をしたのです」
「何もしてねえ」
「ならば、なぜ陛下は意識を失われたのですか」
「俺に聞くな」
短い沈黙が落ちた。
それから、トルガは低く言った。
「泣いて倒れた。それだけだ」
ロゼが息を呑む気配がした。
「医者を呼べ。話はその後だ」
クラルシアは、もう目を開けられなかった。
けれど、トルガの腕が自分をそっと長椅子へ横たえる感覚だけは分かった。
粗野な男の手なのに、壊れ物でも扱うように慎重だった。
雨と泥の匂いが鼻先をかすめる。
シスター・テレサの細い腕とは、何もかも違う。
それなのに。
不思議と、痛くなかった。
「拘束します」
「勝手にしろ」
トルガの声が、少し遠ざかる。
「寝かせるのが先だ」
そこで、現実の音が白く滲んだ。
ロゼの声も。
親衛隊の足音も。
剣の鞘鳴りも。
すべてが水の膜の向こうへ沈んでいく。
クラルシアの意識は、深い水底へ落ちていった。
そして、その奥で。
記憶が、静かに開いた。
薔薇の花は嫌いだった。
永遠の美の象徴だと、人は言う。
けれどわたしにとって、それは祝福の花ではなかった。
咲き誇れ。
枯れるな。
美しいままであれ。
棘に血が滲んでも、花弁が裂けても、見る者のために微笑み続けろ。
薔薇を見るたび、そんな声が聞こえる気がした。
だから嫌いだった。
どれほど鮮やかに咲いていても。
どれほど甘い香りを放っていても。
その美しさが、まるで自分の苦痛まで永遠に続くものだと告げているようで、息苦しかった。
いつぶりに、泣いたのだろう。
人形のように椅子に座り、人形のように微笑み、人形のように頷くことだけを覚えたこの身体から、まだ涙がこぼれるとは思わなかった。
母が死んだ時。
父から離された時。
聖ルミナ教会が炎に包まれた時。
北壁の教会で金の髪を掴まれ、冷たい水に沈められた時。
自分の分のパンだけが隠されていた時。
あの頃のわたしは、涙でできていたのかもしれない。
泣いて、泣いて、泣いて。
それでも誰かに届くことはなく、やがて涙は涸れてしまった。
今では、何を言われても、何を奪われても、胸の奥に冷たい石が沈むだけだった。
痛みさえ、遠かった。
けれど。
あの男の腕の中でだけ、なぜか久しぶりに息ができた。
責められなかった。
命じられなかった。
奪われなかった。
泣いているわたしを、泣いているまま、ただそこに置いてくれた。
その感覚だけが、ひどく懐かしかった。
――クラルシア様。
遠い声が聞こえる。
違う。
これは今の声ではない。
白い壁。
古びた木の床。
薄いスープの匂い。
朝の鐘。
聖ルミナ教会。
白鐘の小教会。
記憶の中の幼いわたしは、冷たい寝台の上で膝を抱えていた。
まだ三つだった。
母がいなくなった理由も、父が自分を遠ざけた理由も分からなかった。
ただ、捨てられたのだと思っていた。
泣くと迷惑になる。
食べると、誰かの分が減る。
ここにいていい理由が、自分にはない。
だから、差し出されたパンにも手を伸ばせなかった。
「食べないのですか」
シスター・テレサが、寝台のそばに腰を下ろした。
細い手だった。
けれど、ひどく温かい手だった。
「……お腹は、すいていません」
幼いわたしは、そう嘘をついた。
テレサ様は少し困ったように笑った。
「そうですか。では、これはわたくしが困りますね」
「困る?」
「ええ。せっかく焼いたパンが、ひとつ余ってしまいます」
わたしは、小さく顔を上げた。
「……わたしが食べても、いいの?」
「もちろんです。あなたのために焼いたのですから」
「でも、わたしは……」
いらない子なのに。
そう言いかけた唇を、テレサ様の指がそっと止めた。
「ここでは、その言葉を言わなくてよいのです」
「……どうして?」
「わたくしが、聞きたくないからです」
テレサ様は真面目な顔でそう言った。
それが少しおかしくて、わたしは泣きそうなまま目を瞬かせた。
「変な、テレサ様」
「ええ。よく言われます」
そう言って、テレサ様はわたしの小さな手にパンを持たせた。
温かかった。
その温かさに触れた瞬間、母の手を思い出した。
もう戻らないものを思い出して、胸が苦しくなった。
そんな顔をしていたのだろう。
テレサ様は、わたしの背をそっと撫でた。
「クラルシア様」
「……はい」
「今がつらければ、今度はきっと良いことがやって来ます」
「本当に? 神様が決めたの?」
「いいえ」
テレサ様は、少しだけ悪戯っぽく笑った。
「わたくしの経験からですよ」
「経験?」
「そうです。だから、自分の心だけは守らなければなりません」
「心……」
「ええ。誰かに奪われそうになっても、踏みにじられそうになっても。最後にそこだけは、自分のものにしておくのです」
幼いわたしには、その意味がよく分からなかった。
「そうしておけば、良いことが起きた時に、きっと素直に受け止められるはずです」
分からなかった。
けれど、テレサ様の腕が背中に回った時、少しだけ受けとめられた気がした。
ここにいていい。
食べてもいい。
泣いてもいい。
生きていていい。
朝の白鐘が鳴った。
かすれた、不器用な音だった。
けれど、その音を聞きながら、わたしはパンを噛んだ。
あたたかい。
そう思った瞬間、白い壁の向こうに別の記憶が広がった。
母の顔だった。
母シーラは、美しい人だった。
奴隷としてこの国に売られてきたのだと、わたしは十五歳の時にレオポルド法務卿から聞いた。
淡々とした説明だった。
けれど、あの人はその時、ほんの一度だけ言葉を切った。
まるで、母の名を口にすることを、少しだけ恐れているように。
わたしには、その理由が分からなかった。
母は、光を溶かしたような金の髪をしていた。
透き通った海の色をした青い瞳。
春の日差しのような声。
抱き寄せられるたびに香った、やわらかな甘い匂い。
周囲の者たちは言った。
姫様は、お母君によう似ておいでです。
母が生きていたころ、その言葉が嬉しくて、わたしは無邪気に喜んでいた。
母に似ているのなら、自分の心もきっと綺麗なのだと思っていた。
けれど今は、それが怖い。
美しいから、愛され憎まれる。
ならば、この顔もまた、母から受け継いだ祝福ではなく、呪いなのではないか。
遠くで、また鐘が鳴った。
王宮の聖堂に響く銀の鐘とは違う。
澄みきってもいなければ、荘厳でもない。
けれどわたしは、その音を、今でも世界で一番優しい音だと思っている。
聖ルミナ教会の庭にも、薔薇が咲いていた。
王宮の薔薇ほど大輪ではない。
花弁の端は風に傷み、枝はところどころ折れ、香りも淡かった。
それでもテレサ様は、その薔薇をいつも大切そうに見ていた。
「花は、少し傷んでいても咲くのですよ」
ある朝、テレサ様はそう言った。
わたしには、やはりその意味がよく分からなかった。
察しのよい子供ではなかったのだと思う。
けれど、傷んだ花を見つめるテレサ様の横顔があまりに優しくて、胸の奥が少しだけ温かくなった。
誕生日の日には、テレサ様がこっそり小さなケーキをくれた。
「みんなには秘密ですよ」
そう言って、布に包んだ小皿を差し出す。
そこには、小さな丸いケーキがあった。
少し硬い生地。
薄く塗られたクリーム。
そして真ん中には、赤いイチゴが一粒だけ乗っていた。
「こんなの、いいの? イチゴが乗ってる……食べていいの?」
イチゴが大好きだったわたしは、自分でそう聞きながらも、今すぐ食べたくて仕方がなかった。
「もちろんです。今日は、クラルシア様が生まれた日ですから」
生まれた日。
その言葉を聞いた瞬間、胸がいっぱいになった。
王宮の菓子とは比べものにならないほど質素なものだった。
けれど、あの小さなケーキより嬉しいものを、わたしは今でも知らない。
自分が生まれた日を、誰かが覚えていてくれる。
それだけで、世界からまだ完全には捨てられていないような気がしたから。
テレサ様は、きっと他の子の誕生日にも同じようにケーキを用意していたのだろう。
それでもよかった。
あの人は、誰か一人だけを特別に愛する人ではなかった。
誰のことも、見捨てない人だった。
だから好きだった。
だから、失った時、世界が終わったのだと思った。
生きていれば、必ず良いことがやってきます。
テレサ様はそう言った。
今がつらければ、今度はきっと良いことがやって来るのですよ。
だけど、テレサ様。
わたしはまだ、それを信じきることができません。
王宮に戻されて三年。
笑っていればいいと言われた。
立っていればいいと言われた。
誰も、わたしの心を必要とはしなかった。
まるで、おまえの中身など必要ないと言われているようだった。
彼らが欲しがったのは、王家の血と、女王の名だけ。
父が残したという手紙を読んだ時でさえ、心は動かなかった。
その手紙を渡したのも、レオポルド法務卿だった。
守るために手放したのだという、遅すぎる真実がそこには書かれていた。
けれど、涙は出なかった。
もう遅い。
そう思ったのかもしれない。
あるいは、そう思う力さえ残っていなかったのかもしれない。
そんな自分が、なぜ今さら泣いたのだろう。
なぜ、あの男の腕の中で、少しだけ息ができたのだろう。
泥と雨と、かすかな血の匂いがした。
腕は硬く、胸は広く、声は乱暴だった。
テレサ様とは、何もかも違っていた。
好きだとか、恋だとか、そんな言葉にはまだ遠い。
ただ、怖くなかった。
男性に抱き締められたのは、初めてだった。
けれど、守られている感覚だけが、テレサ様とひどく似ていた。
わたしは夢の中で、白鐘の音を聞いた。
かすれて、遠くて、けれど確かに朝を告げる音。
その向こうで、母の声がした。
シア。
次に、父の声が重なる。
シア。
それは、もう誰も呼ばないはずの名だった。
母が笑いながら呼んだ名。
父が腕に抱き上げながら呼んだ名。
まだ王冠も、毒も、炎も、孤独も知らなかった頃の名。
薔薇の香りがした。
王宮の庭に咲く、息苦しいほど美しい薔薇ではない。
聖ルミナ教会の庭に咲いていた、少し傷んだ小さな薔薇の香りだった。
花は、少し傷んでいても咲くのですよ。
テレサ様の声が、白鐘の音に溶けていく。
わたしは、その音を追いかけようとした。
けれど身体は重く、瞼は開かない。
遠くで、また生きた声がする。
ロゼの声。
親衛隊の足音。
剣の音。
そして、泥と雨の匂いがする、黒い腕の記憶。
最後に聞こえたのは、低く不器用な男の声だった。
「寝かせるのが先だ」
ああ。
わたしは、意識の底でぼんやりと思った。
この人は、本当に口が悪い。
けれど、なぜだろう。
その声を聞いていると、まだ少しだけ、生きていてもいいような気がした。




