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第4話 女王と黒犬

第四話 女王と黒犬


 トルガ・ラグレイが通されたのは、王宮の奥にある小さな応接室だった。


 広すぎる謁見の間ではない。


 玉座もない。


 ただ、磨かれた床と、重厚な机と、壁際に置かれた数脚の椅子があるだけの部屋。


 クラルシアは、そこで彼を待っていた。


 ロゼと親衛隊は、隣室に控えている。


 扉一枚を隔てた向こう。声を上げれば、すぐに踏み込める距離だった。


 それでも、部屋の中にいるのはクラルシアとトルガだけだった。


 扉が開く。


 その瞬間、クラルシアは思わず息を止めた。


 高い。


 まず、そう思った。


 クラルシアの身長は百五十ほどしかない。女としても小柄な方だ。


 対して、目の前の男は百八十を優に越えているように見えた。


 しかも、ただ大きいだけではない。


 細身で、無駄な肉がない。


 骨と筋だけで立っているような身体つきのせいで、余計に背が高く見えた。


 黒い外套は泥を被っていた。


 そして荒く整えられた黒髪。


 鋭すぎる目。


 そして、引き込まれるほど整った顔立ち。


 だが、その美しさは王宮の男たちのように磨かれたものではなかった。


 刃物のようだった。


 路地裏の暗がりで何度も死線を潜り抜けた者だけが持つ、冷えた威圧感があった。


 この人が。


 聖ルミナ教会に所縁のある人。


 クラルシアは、どうしてもそう思えなかった。


 あの白鐘の小教会。


 シスター・テレサの声。


 薄いスープ。


 朝の祈り。


 古びた木の床に落ちる、柔らかな光。


 それらと、目の前の男が結びつかない。


 けれど、クラルシアは女王として姿勢を正した。


「はじめまして」


 声は、思っていたよりも静かに出た。


「わたくしは、ヴァイスヴェール王国女王、クラルシア・ヴァイスヴェールと申します。貴方が、トルガ・ラグレイ様ご本人でお間違いないでしょうか」


 トルガは、答えなかった。


 代わりに、部屋の中を一瞥した。


 壁。


 窓。


 扉。


 隣室へ続く気配。


 逃げ道と、隠れた護衛の位置を、目だけで測っているようだった。


 そして、クラルシアへ視線を戻す。


「俺と一対一か」


 低い声だった。


「舐めてんのか」


 クラルシアは息を呑む。


 トルガは続けた。


「死にてえのか」


 その瞬間、隣室の空気が変わった。


 扉の向こうで、微かな金属音がした。


 ロゼと親衛隊が、いつでも踏み込めるように身構えたのだろう。


 けれど、クラルシアは不思議と怖くなかった。


 トルガの言葉は乱暴だった。


 ひどく無礼だった。


 この男は、本気で自分を殺そうとしているわけではない。


 不思議だが、本当にそう思ったのだ。


 女王が、下層区の危険人物と二人きりで会おうとするなど、正気ではない、と。まるで注意をされているような感さえあった。


 クラルシアは、まっすぐ彼を見上げた。


「鐘の音を、覚えていますか?」


 トルガの眉が、わずかに動いた。


「おまえのことは覚えてる」


「……わたくしを?」


「ああ」


 トルガは、淡々と言った。


「ばばあの後ろに隠れてた、金髪のちっこいガキだ」


 クラルシアは目を瞬かせた。


「まさか王宮の人間だったとはな」


 トルガは薄く目を細める。


「納得した」


「納得、とは?」


「あの教会に、似合ってなかった」


 その言葉は、クラルシアの胸を小さく刺した。


 似合っていなかった。


 聖ルミナ教会は、クラルシアにとって初めて人として育てられた場所だった。


 母を失い、父に捨てられた幼い自分が、ようやく息をしてもいいと思えた場所だった。


 その場所が、自分にはふさわしくない。分不相応だ。


 そう言われたような気がして怒りなのか悲しみなのか込み上げてくる感情に揺れがありクラルシアは戸惑った。


 クラルシアの指先に、わずかに力が入る。


「わたくしは、鐘の音を覚えているかと聞いています」


 声に、少しだけ怒気が混じっていた。わたしは今、怒っている?クラルシアは自分の声に感情が乗っていることに戸惑いを隠せなかったがそれをどうにか押し込めた。


 この男が本当に聖ルミナ教会にいたのか。


 本当に白鐘の小教会を知っているのか。


 シスター・テレサを知っているのか。


 それを確かめたかった。


 ただ、それだけだった。


 トルガは、面倒くさそうに息を吐いた。


「駆け引きに向いてねえな」


「……駆け引きなどしていません」


「なら、余計に向いてねえ」


 クラルシアは、むっとした。


 このような男は初めてだった、といいたいところだが、教会にいたときも救貧院にいたときもなるべく男性を避けてきたクラルシアは、ただその言葉に素直に翻弄されてしまう子供のような態で、でもそのやり取りはどこか懐かしいような思いを想起させていた。


 王宮の者たちは、もっと陰湿な言葉で心を削ってくる。


 褒め言葉の形をした命令。


 敬意の形をした侮蔑。


 優しさの形をした支配。


 だが、目の前の男は違う。


 無礼で、粗野で、言葉に棘がある。


 しかし、まっすぐだった。


 そのまっすぐさに、逆に調子が狂う。


「……では、質問を変えます」


 クラルシアは、少しだけ頬を膨らませるようにして言った。


「鐘の音は、いつ聞いていましたか?」


 トルガは片眉を上げた。


「毎朝だ」


「毎朝……」


「夜明け前から鳴らしやがった。寝てるガキも、寝たふりのガキも、まとめて起こす鐘だ」


 クラルシアの胸が、どくりと鳴った。


「忘れるわけねえ」


 朝。


 白鐘は、朝にしか鳴らなかった。


 クラルシアは認めざるを得なかった。


 この男は、本当に聖ルミナ教会を知っている。


 あの鐘を知っている。


 あの朝を知っている。


 なのに、なぜだろう。


 素直に喜べなかった。


 目の前の男は、やはり完全に自分をからかっているようにしか見えなかったからかもしれない。


 それか、聖ルミナ教会の記憶を、乱暴な言葉で踏み荒らされているように感じたからかもしれない。


 トルガは、ふと視線を窓の方へ逸らした。


「最後まで鳴ってたらしいな」


 低く、吐き捨てるように言う。


「パンだけ渡しておいて、勝手にくたばりやがった」


 クラルシアの呼吸が止まった。


 トルガは続けた。


「哀れなばばあだ」


 その瞬間、クラルシアの中で何かが切れた。


「……やめて」


 声が震えた。


 けれど、自分でも驚くほどはっきり響いた。


「そんな言い方、しないで」


 トルガが目を戻す。


 クラルシアはトルガをまっすぐにらみつけた。でもそれは子供が親にすがるような儚いものだった。


 女王として整えた表情も、静かな声も、すべて剥がれ落ちていた。


 胸元で小さな手を握りしめ、涙を堪えながら、真正面からトルガを見上げている。


「テレサ様は、そんなふうに言われていい人じゃない」


 声が震える。


「わたしに、パンをくれたの。食べていいって言ってくれたの。ここにいていいって、生きていていいって、価値があるって……そう言ってくれた人なの」


 涙が滲む。


 止めたいのに、止められない。


「あなたが本当に聖ルミナ教会にいたなら、分かるはずでしょう? テレサ様が、どんな人だったか」


 もう女王の声ではない。


 王宮で求められる、静かで、澄んで、傷ついていないふりをする声ではない。


 白鐘の小教会で泣いていた、幼い少女の声だった。


「テレサ様は……わたしが何も持っていなかった時に……それでも、ここにいていいって……」


 息が切れた。


 涙が落ちた。


「だから……そんな言い方、しないでよ……」


 最後の言葉は、ほとんど嗚咽に近かった。


 トルガは黙っていた。


 先ほどまでの冷えた表情が、ほんの少しだけ変わる。


 苛立ちではない。


 戸惑いでもない。


 ただ、目の前の少女を泣かせたのだと理解した顔だった。


 しばらくして、トルガは低く言った。


「……さっきのは撤回する」


 クラルシアは涙に濡れた目で彼を見上げた。


「撤回、ですか」


「ああ」


「言えば、なかったことになるのですか」


「ならねえ」


 トルガは短く答えた。


「悪かった」


 謝罪というには、あまりにも短かった。


 けれど、その声に嘘はなかった。


 クラルシアは唇を噛んだ。


「酷いです」


「知ってる」


「最低です」


「そうだな」


「テレサ様を……哀れなんて、言わないで」


「分かった」


 やり取りは短い。


 優しさも、慰めも、ほとんどない。


 それなのに、クラルシアの胸の奥で、固く凍っていたものが少しだけ揺れた。


 トルガは、一歩だけ近づいた。


 隣室の気配が膨れ上がる。


「動くな!」


 ロゼの声が、扉越しに響いた。


 トルガは足を止めた。


 だが、振り返らなかった。


 ただ、泣いているクラルシアを見下ろす。


「泣くな」


「あなたが泣かせたんです」


「そうだな」


 トルガは、少しだけ目を伏せた。


「だから撤回した」


「それで済むと思っているのですか」


「思ってねえ」


 トルガは言った。


「殴りたきゃ殴れ」


「……え?」


「泣かせた分だ」


 言葉の意味が分からず、クラルシアは固まった。


 その隙に、トルガの腕が伸びた。


 乱暴ではなかった。


 けれど、慣れてもいなかった。


 まるで、泣いている子供をどう扱えばいいのか分からない男が、遠い記憶の中で誰かがしていたことを真似るように。


 クラルシアの小さな身体は、トルガの腕の中にすっぽりと収まった。


 黒い外套の匂い。


 雨と泥と、わずかな血の匂い。


 王宮の香ではない。


 花でも、香油でもない。


 それなのに、不思議と息ができた。


 クラルシアは何が起こったのか分からず、固まっていた。


 隣室のロゼと親衛隊も、同じだった。


 踏み込むべきか。


 止めるべきか。


 剣を向けるべきか。


 けれど、トルガには殺気がなかった。


 ただ、ひどく不器用に、泣いている女王を抱きしめていた。


「……あのばばあは」


 クラルシアの頭上で、トルガが低く言った。


「スラムのガキにも、同じパンを寄越した」


 その声は、先ほどよりずっと静かだった。


「盗人にも、嘘つきにも、同じだ」


 クラルシアの涙が、また落ちた。


「殴らずに名前を呼ぶ大人なんざ」


 トルガは短く息を吐いた。


「俺は、あいつしか知らねえ」


 クラルシアは、トルガの外套を掴んだ。


「だったら……」


 震える声で言う。


「だったら、どうしてあんな言い方をするの」


「知らねえ」


 トルガは、少しだけ腕に力を込めた。


「綺麗な言い方を知らねえ」


 それは、言い訳にもならない言葉だった。


 けれど、クラルシアには分かった。


 この男は、テレサ様を忘れていない。


 聖ルミナ教会を、忘れていない。


 あの朝のパンを、忘れていない。


 ただ、失ったものを綺麗に惜しむ方法を知らないだけなのだ。


 クラルシアは、トルガの胸元に額を寄せたまま、小さく息を吸った。


 まだ怖い。


 まだ腹立たしい。


 無礼で、乱暴で、どうしようもなく口が悪い。


 けれど。


 この男は、本当に聖ルミナ教会を知っている。


 その事実だけが、胸の奥で白鐘のように震えていた。


 そして、もう一つ。


 クラルシアは、認めたくないまま気づいてしまった。


 この腕の中は、怖くない。


 それどころか。


 ほんの少しだけ、息ができる。


 その事実に驚いた瞬間、張り詰めていた糸が、ふつりと切れた。


「……あ」


 視界が白く滲む。


 膝から力が抜けた。


 トルガの腕が、反射的にクラルシアの身体を支える。


 隣室の扉が、勢いよく開いた。


「陛下!」


 ロゼの叫びが、遠く聞こえた。


 クラルシアは、もう目を開けていられなかった。


 最後に感じたのは、硬い腕の温度だった。


 雨と泥と血の匂いがする、黒い腕。


 シスター・テレサとは何もかも違う。


 それなのに、なぜかひどく懐かしかった。


 そこで、クラルシアの意識は白く途切れた。


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