第17話 取引
ロゼがトルガ・ラグレイを連れて戻った時、クラルシアはすでに寝台から起き上がっていた。
白い寝衣の上に、淡い青の肩掛けを羽織っている。
髪は簡単にまとめられていたが、まだ少し乱れていた。
熱の名残で頬は薄く赤く、足元には包帯が巻かれている。
それでも、彼女は椅子に座っていた。
逃げるためではない。
眠るためでもない。
トルガ・ラグレイと、もう一度話すために。
「陛下」
ロゼが扉の前で膝をつく。
「トルガ・ラグレイを、お連れしました」
その後ろに、黒い男が立っていた。
黒い簡素なチュニック。
紐留めのシャツ。
革のベルト。
泥は払われている。
だが、王宮の空気にはやはり馴染まない。
まるで、白い部屋に落ちた黒い影のようだった。
クラルシアは、ゆっくりと顔を上げる。
「トルガ」
「ああ」
トルガは短く答えた。
礼はしない。
頭も下げない。
ただ、まっすぐにクラルシアを見る。
ロゼの眉がわずかに動いたが、何も言わなかった。
クラルシアは、その視線を受け止めた。
昨夜、白鐘橋で見た時と同じ目だった。
冷たく、鋭く、飾り気がない。
けれど、その目は自分を品定めしていなかった。
女王としてでもない。
王家の血としてでもない。
美しい人形としてでもない。
ただ、クラルシアを見ていた。
「来てくれて、嬉しいです」
「おまえが呼んだ」
それだけだった。
クラルシアの胸が、小さく震えた。
そうだ。
自分が呼んだ。
命じたのではない。
連れてこさせたのでもない。
来るかどうかを、トルガ自身に選んでもらった。
そして、この男は来た。
「ロゼ」
「はい」
「少しだけ、下がっていてください」
ロゼの表情が硬くなる。
「陛下」
「見える場所で構いません。ですが、少しだけ……二人で話させてください」
「……扉の前に控えます」
「ありがとう」
「ただし、異変があれば即座に入ります」
「はい」
ロゼはトルガを見る。
「陛下に少しでも無礼があれば」
「斬るんだろ」
トルガは低く言った。
「分かってる」
ロゼは不快そうに目を細めたが、それ以上は言わなかった。
扉の前まで下がる。
完全に退出はしない。
だが、二人の会話を邪魔しない距離だった。
クラルシアは、胸元のロザリオにそっと触れた。
「トルガ」
「ああ」
「昨夜は、ありがとうございました」
「礼はいらねえ」
「それでも、言わせてください」
クラルシアは静かに頭を下げた。
「あなたが来てくださらなければ、わたくしは戻れませんでした」
トルガは黙っていた。
クラルシアは顔を上げる。
「わたくしは、あなたに助けを求めました」
「ああ」
「そして、あなたは答えてくださいました」
「ああ」
「だから、今度はわたくしが、自分の意思で話します」
クラルシアの指が、膝の上で少しだけ震えた。
怖くないわけではない。
この言葉を口にしたら、もう逃げ道ではなくなる。
時間稼ぎでもなくなる。
聖ルミナ教会の名を使った、苦し紛れの条件でもなくなる。
これは、クラルシア・ヴァイスヴェール自身の選択になる。
「その前に、ひとつだけ聞かせてください」
「ああ」
「薔薇の話を、覚えていますか」
「覚えてねえ」
返事は、あまりにも早かった。
クラルシアは瞬きをする。
「……まだ、何の薔薇か言っていません」
トルガは、わずかに目を細めた。
「薔薇なんざ、どこにでもあるだろ」
「聖ルミナ教会の庭です」
クラルシアは胸元のロザリオに触れた。
「傷んだ小さな薔薇を見て、あなたは言いました。咲こうが咲くまいが、薔薇は薔薇だろ、と」
トルガは黙った。
ほんの少しだけ、視線が横へ逸れる。
「……覚えてねえ」
「そうですか」
クラルシアは小さく頷いた。
けれど、不思議と寂しくはなかった。
忘れている人の声ではなかったから。
「わたくしは、思い出しました」
「何を」
「あなたが、あの時から、咲いているかどうかではなく、折れるかどうかを見ていたことを」
トルガは答えなかった。
ただ、まっすぐにクラルシアを見る。
「だから、もう一度話したいと思ったのです」
部屋に、短い沈黙が落ちた。
クラルシアは息を吸う。
そして、まっすぐに言った。
「トルガ・ラグレイ」
「ああ」
「わたくしの仮の婚約者に、なっていただけませんか」
部屋の空気が止まった。
扉の前で、ロゼが息を呑む気配がした。
トルガは、驚かなかった。
ただ、クラルシアを見ていた。
「王宮の連中を黙らせるためか」
「それも、あります」
クラルシアは正直に答えた。
「わたくし一人では、また押し切られます。あなたが候補であり続けなければ、わたくしは誰かに選ばれるだけになります」
「ああ」
「でも、それだけではありません」
クラルシアは、声を少しだけ強くした。
「わたくしは、あなたを知りたいのです」
トルガの目がわずかに細くなる。
「知ってどうする」
「分かりません」
クラルシアは小さく首を振った。
「ですが、分からないまま誰かの妻になるより、知りたいと思った方と向き合いたいのです」
それは、あまりに小さな願いだった。
けれどクラルシアにとっては、初めて自分で掴んだ言葉だった。
トルガはしばらく黙っていた。
やがて、低く言う。
「仮の婚約者にはなる」
ロゼがわずかに動いた。
クラルシアは、息を止めた。
「本当、ですか」
「ああ」
トルガは続けた。
「ただし、取引だ」
「取引……」
「俺は王宮に入る。おまえの仮の婚約者になる。面倒も敵も増える」
「……はい」
「なら、おまえも何か差し出せ」
ロゼの気配が鋭くなった。
「トルガ殿」
「黙ってろ」
トルガはロゼを見なかった。
視線は、クラルシアにだけ向いている。
「嫌なら断れ。別の条件でもいい。決めるのはおまえだ」
その言葉で、クラルシアは少しだけ息を吸えた。
この男は、差し出せと言った。
けれど、奪うとは言わなかった。
「わたくしは……何を差し出せばよいのでしょうか」
トルガは静かに言った。
「おまえの唇をもらう」
意味が、すぐには分からなかった。
クラルシアは一度、瞬きをする。
「唇……」
繰り返した瞬間、ようやく理解した。
顔が熱くなる。
首まで。
耳まで。
熱が上っていく。
「く、口づけ、ということですか」
「ああ」
「本当に、それでよいのですか」
「嫌なら別の条件を出せ」
低い声だった。
からかいはない。
甘い言葉もない。
ただ、取引の条件を告げているだけの声。
それなのに、クラルシアの心臓はうるさかった。
ロゼの視線が痛い。
きっと今にも剣に手をかけそうな顔をしている。
けれど、クラルシアは目を逸らさなかった。
「……嫌では、ないです」
自分で口にしてさらに熱が上がる。
声が震えた。
自分でも驚くほど、小さな声だった。
トルガは少しだけ黙った。
「来られるか」
クラルシアは椅子から立とうとした。
足に痛みが走る。
トルガが一歩動いた。
だが、手は出さなかった。
クラルシアは自分で立ち上がる。
包帯の巻かれた足で、ゆっくりと近づいた。
一歩。
また一歩。
白い床の上を、黒い男の前まで。
近い。
近づくと、トルガの背の高さがよく分かった。
見上げなければ、目が合わない。
雨と泥の匂いは、もう薄い。
けれど、王宮の香とは違う匂いがした。
クラルシアは、両手を胸元で重ねた。
「……すみません」
「あ?」
「したことが、ないので」
言った瞬間、顔がさらに熱くなる。
「やり方が、分かりません」
ロゼが扉の前で完全に固まった。
トルガは、表情を変えなかった。
ただ一言、
「そうか」
と呟いた。
それだけだった。
彼はゆっくりと手を上げる。
ロゼの手が剣の柄にかかり、けれどクラルシアが目を逸らしていないのを見て、動きを止めた。
トルガの指が、クラルシアの顎に触れる。
乱暴ではなかった。
冷たくもない。
硬い指だった。
剣を握り、泥の中で生きてきた男の指。
けれど、思ったよりずっと優しかった。
顎を少しだけ持ち上げられる。
クラルシアは息を止めた。
「大丈夫か」
低い声が落ちる。
「はい」
自分の声が、遠く聞こえた。
次の瞬間、トルガの顔が近づいた。
唇が触れた。
ほんの短い時間だった。
けれどクラルシアには、一瞬にも、永遠にも思えた。
白い部屋も。
扉の前のロゼも。
王宮も。
昨日の雨も。
全部、遠くなった。
残ったのは、唇に触れた熱だけだった。
トルガはすぐに離れた。
クラルシアは、息の仕方を忘れていた。
トルガは彼女を見下ろし、低く言った。
「取引成立だ」
それだけ告げると、彼は背を向けた。
「少し外に出る」
「え」
クラルシアが声を出すより先に、トルガは扉へ向かう。
ロゼがその前に立ちはだかった。
「どこへ」
「外の空気を吸う」
「逃げる気ですか」
「ここにいるとこいつが倒れる」
トルガは低く言った。
クラルシアは何も言えなかった。
倒れない、と言いたかった。
けれど、足元がもう怪しかった。
ロゼがこちらを見る。
クラルシアは真っ赤な顔のまま、耐えきれずその場にしゃがみ込んだ。
「陛下!」
ロゼが駆け寄る。
トルガは一度だけ振り返った。
表情はいつもと変わらない。
けれど、耳がわずかに赤いように見えた。
気のせいかもしれない。
「寝かせろ」
それだけ言って、トルガは部屋を出ていった。
扉が閉まる。
その音を聞いた途端、クラルシアは両手で口元を押さえた。
心臓がうるさい。
痛いほど鳴っている。
息が熱い。
頬も熱い。
唇だけが、まだ触れられた感触を覚えている。
「陛下、大丈夫ですか」
ロゼの声が近い。
「……大丈夫では、ありません」
「どこか痛みますか」
「心臓が……破裂しそうです」
ロゼは一瞬、言葉を失った。
クラルシアは赤い顔のまま、ぶつぶつと呟く。
「不敬です」
「陛下?」
「不敬です。とても、不敬です」
クラルシアは唇を押さえたまま、床を見つめる。
「初めてだったのに」
小さな声だった。
「後で絶対、文句言ってやります。」
ぶつぶつと、少女のように呟く。
ロゼが、何とも言えない顔をする。
クラルシアはさらに赤くなった。
「取引成立だなんて、ひどいです」
「はい」
「わたしは、まだ何も分からないのに」
「はい」
「それなのに……」
言葉が止まる。
嫌ではなかった。
それが一番困った。
嫌ではなかった。
怖くもなかった。
ただ、胸が苦しい。
そして、もう一度思い出してしまう。
低い声。
顎に触れた指。
唇に落ちた、短い熱。
「……不敬だよ」
クラルシアは、もう一度小さく呟いた。
けれどその声は、怒っているというより、どうしようもなく戸惑っている少女の声だった。
ロゼはクラルシアを支えながら、閉じられた扉を見た。
トルガ・ラグレイ。
無礼で、粗野で、あまりに危険な男。
だが、あの男は最後に確認した。
大丈夫か、と。
そして陛下は、はい、と答えた。
ロゼは深く、長く息を吐いた。
王宮は、これから荒れる。
だが今、ロゼの腕の中にいるクラルシアは、昨夜のような空っぽの人形ではなかった。
顔を真っ赤にし、唇を押さえ、心臓の音に戸惑いながら、初めての口づけに文句を言っている。
十八歳の少女だった。
ロゼはそのことに、少しだけ救われた気がした。
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