第16話 八番通りの黒犬
八番通りは、王宮とは別の国だった。
朝だというのに、空はまだ低く曇っていた。
夜の雨は止んでいたが、石畳には泥水が残り、路地の端からは湿った木材と腐った酒の匂いが漂っている。
高い塔もない。
磨かれた床もない。
香を焚いた廊下もない。
あるのは、傾いた看板。
割れた窓。
壁に染みついた煤。
早朝から酒瓶を抱えて眠る男。
戸口で煙草を吸う女。
そして、濁った目でこちらを見つめる子供たちだった。
ロゼが親衛隊の制服で足を踏み入れた瞬間、通りの空気が変わった。
ざわめきが引く。
王都保安団――銀靴とは違う。
けれど、王宮の人間であることは誰の目にも明らかだった。
そして同時に、ロゼ自身もまた、この街では異物だった。
長い桃色の髪。
すらりと高い背。
凛とした横顔。
王宮であっても人目を引く姿が、下層区の濁った朝の中では、なおさら浮いて見えた。
軒下にいた男が、思わず口笛を吹きかけた。
だが、ロゼの視線がそちらへ向いた瞬間、その音は喉の奥で止まる。
女ではない。
獲物でもない。
近づけば斬られるものだ。
男はそれを本能で悟り、目を逸らした。
「王宮の女か。綺麗な顔してやがる」
「やめとけ」
隣の男が低く言った。
「あれは飾りじゃねえ。剣の目だ」
ロゼは聞こえていた。
だが、反応しなかった。
ここでいちいち視線を返していてはきりがない。
王宮とは違う種類の視線。
けれど、それが下層区の日常なのだろう。
そのことが、ロゼには不快だった。
陛下を、この場所へ来させるわけにはいかない。
改めてそう思った。
ロゼは最低限の部下だけを連れていた。
騒ぎにするつもりはない。
だが、一人で来るほどトルガ・ラグレイを信用してもいない。
「黒犬を探している」
ロゼが言うと、路地の空気がわずかに沈んだ。
誰もすぐには答えない。
王宮の人間が、黒犬を訪ねてきた。
それだけで、周囲の目が鋭くなる。
やがて、軒下に座っていた痩せた少年が顔を上げた。
裸足で、濡れた髪が頬に貼りついている。
「奥だよ」
ロゼは少年を見る。
「案内できますか」
「金は」
部下の一人が眉をひそめた。
ロゼは黙って、小さな銀貨を一枚投げる。
少年は素早くそれを拾い、懐に隠した。
「こっち」
少年は駆け出した。
狭い路地を抜ける。
雨水が樋から落ちる。
壁には古い血のような染みがあり、窓の奥からは眠たげな視線がこちらを覗いていた。
やがて、少年が足を止めた。
古びた建物の前だった。
看板は半分落ち、扉には雑に板が打ちつけられている。
その軒下に、黒い外套の男がいた。
壁にもたれ、腕を組んでいる。
黒い髪。
高い背。
鋭い目。
黒い簡素なチュニックに、紐留めのシャツ。
王宮に入るために飾った姿ではない。
だが、泥だけは払われていた。
昨夜のまま逃げ込んで、眠り崩れた男の姿ではなかった。
待っていた。
ロゼは、そう判断した。
トルガ・ラグレイは、こちらに気づいても表情を変えなかった。
「来たか」
低い声だった。
驚きもない。
焦りもない。
言い訳もない。
ただ、来ると分かっていた者の声だった。
「待っていたのですか」
「八番通りにいると言った」
トルガは短く答えた。
「逃げる気なら言わねえ」
ロゼはわずかに目を細めた。
その言葉は無礼ではある。
けれど、嘘ではなかった。
「陛下は、お目覚めになられました」
トルガの目が、ごくわずかに動いた。
「そうか」
「足の傷と冷えによる発熱がございます。ですが、命に別状はありません」
「ならいい」
それだけだった。
安堵しているのかどうか、表情からは読めない。
だが、ロゼには分かった。
この男は、聞くべきことだけを聞いた。
命がある。
今は、それ以上を求めていない。
「トルガ・ラグレイ」
「ああ」
「陛下より、伝言がございます」
トルガは黙ってロゼを見た。
「陛下は、もう一度あなたと話したいと仰せです」
「命令か」
「いいえ」
ロゼはすぐに答えた。
「来るかどうかは、あなたに選んでほしいと」
トルガは少しだけ視線を伏せた。
「あいつらしいな」
短い一言だった。
ロゼは静かに問い返す。
「陛下を知っているような口ぶりですね」
「知らねえ」
トルガはすぐに答えた。
「だが、そういう女だろ」
「どういう意味ですか」
「助けろと言った相手を、次に縛るような真似はしねえ」
ロゼは言葉を止めた。
乱暴で、低い言葉だった。
けれど、的を外してはいなかった。
クラルシアは、自分が救われたからといって、その相手の自由を奪いたがる人ではない。
ロゼ自身、それを知っている。
「行く」
トルガが言った。
迷いのない声だった。
「王宮へ、ですか」
「ああ」
「危険だとは思わないのですか」
「思う」
「それでも?」
「あいつが呼んだ」
トルガはロゼを見る。
「それで十分だ」
ロゼはその目を見返した。
この男は、王宮に何があるか分かっている。
歓迎されないことも、貴族たちに侮られることも、宰相に目をつけられることも。
それでも来る。
少なくとも、昨日の一夜だけの衝動ではない。
「あなたは」
ロゼは慎重に言葉を選んだ。
「陛下の王配候補という立場が、何を意味するか理解しているのですか」
「ああ」
「軽いものではありません。王宮に呼ばれ、利用され、監視される。陛下に近づく者として、敵も増えます」
「だろうな」
温度の低い返事だった。
だが、投げやりではない。
「それでも、来るのですね」
「ああ」
「なぜ」
トルガはしばらく答えなかった。
八番通りの朝の音が、二人の間に落ちる。
遠くで誰かが咳をし、瓶が転がる音がした。
やがて、トルガは低く言った。
「ばばあのためじゃねえ」
「シスター・テレサのことですか」
「ああ」
トルガの目は動かない。
「王宮が気に入らねえからでもねえ。それもある。だが、それだけじゃねえ」
「では、何です」
「あいつが言った」
短い言葉だった。
「助けて、と」
ロゼの胸が、かすかに痛んだ。
「あいつが自分でそう言った。なら答える」
「それだけ、ですか」
「それだけだ」
迷いのない声だった。
飾りがない。
理屈もない。
忠誠でも、信仰でも、利益でもない。
ただ、クラルシアが助けを求めた。
だから助ける。
その単純さが、ロゼには恐ろしくもあった。
そして、少しだけ眩しくもあった。
王宮では、誰もそのようには動かない。
国益。
血筋。
立場。
均衡。
責任。
いくつもの言葉を並べて、ようやく一つの行動が決まる。
だがこの男は違う。
クラルシアが助けてと言った。
だから動く。
「トルガ・ラグレイ」
ロゼは静かに言った。
「陛下を傷つけることは許しません」
「分かってる」
「分かっているだけでは足りません」
「なら見てろ」
トルガは低く言った。
「俺はあいつを奪わねえ。嫌だと言えば止まる。助けろと言えば助ける」
ロゼの目が、わずかに揺れた。
「……その言葉、忘れないでください」
「ああ」
「もし、陛下の意思を踏みにじるなら」
「斬れ」
トルガは遮るように言った。
その声に迷いはなかった。
「その時は斬ればいい」
ロゼは息を呑みかけ、すぐに抑えた。
この男は、自分の命を軽く見ているのではない。
ただ、言ったことの責任を分かっている。
そういう声だった。
「……承知しました」
ロゼは言った。
「あなたを王宮へ案内します」
「ああ」
トルガは歩き出した。
その動きに、八番通りの者たちが反応した。
軒下の男たち。
戸口の女たち。
裸足の子供たち。
黒犬が、王宮の女に連れられていく。
その光景に、誰も声を上げなかった。
ただ、視線だけがついてくる。
ロゼはトルガの横に並んだ。
歩くたびに、泥水が靴裏で鈍く跳ねる。
王宮の石畳とは違う。
この街の道は、歩く者の足を常に汚す。
だが、トルガは気にしない。
ここが彼の場所なのだ。
ロゼは、その事実を改めて理解した。
トルガ・ラグレイは、王宮の外から来た男だ。
白い部屋に似合うはずがない。
丁寧な言葉も、礼法も、何一つ持っていない。
けれど、クラルシアが助けを求めた時、そこへ来た。
王宮の誰よりも早く。
その事実だけは、消せなかった。
八番通りを抜ける手前で、先ほどの少年が壁にもたれてこちらを見ていた。
「黒犬」
少年が言った。
「王宮に飼われるのか」
トルガは足を止めなかった。
「違う」
「じゃあ何しに行くんだよ」
「用がある」
それだけだった。
少年はつまらなそうに鼻を鳴らした。
ロゼは横目でトルガを見る。
何を背負うのかも、誰を守るのかも、この男は簡単には口にしない。
だが、行動だけは決まっている。
王宮へ行く。
クラルシアに会う。
そして話す。
その先に何があるかを、トルガはおそらく理解している。
八番通りを抜けると、王宮へ続く道が見えた。
朝の光は弱く、雲の隙間から細く落ちている。
ロゼは前を向いたまま言った。
「王宮では、言葉を選んでください」
「無理だ」
「即座に諦めないでください」
「事実だ」
ロゼは一瞬、眉を寄せた。
だが、すぐに息を吐く。
「では、せめて陛下のお身体に障るような言葉だけは控えてください」
「分かってる」
それだけは、トルガはすぐに答えた。
ロゼは、その一言だけで十分だと思った。
王宮は荒れる。
宰相も、諸卿も、王都保安団も黙ってはいない。
けれど。
クラルシアの白い寝室に差した、あの弱い朝の光を思い出す。
ロゼは歩き続けた。
隣には、下層区の黒犬がいる。
その男を、王宮へ連れていく。
陛下が、自分の意思で呼んだから。
ただ、それだけの理由で。




