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第15話 選ぶための道

 薄い絹の帳が、朝の光を受けて淡く透けている。


 見慣れたはずの、自分の寝室の天井。


 まだ、夢の残り香があった。


 硬い黒パン。

 薄い豆のスープ。

 カレンの笑い声。


 雨上がりの庭。

 傷んだ小さな薔薇。

 テレサの温かい手。


 そして。


 黒い髪の男の子。


 咲こうが咲くまいが、薔薇は薔薇だろ。


 不機嫌そうな声が、まだ耳の奥に残っている。


 トルガ。


 見つけた。


 あんなところに、あなたはいた。


 けれど、次の瞬間には、夢の景色は白くほどけていった。


 カレンの声もない。

 テレサの手もない。


 雨上がりの冷えた空気を吸い込む。


「……陛下」


 そばで、かすれた声がした。


 ロゼだった。


 いつもの凛とした親衛隊長の顔ではない。


 一晩中そこにいたようだった。


「ロゼ……」


「お気づきになられましたか」


「わたくしは……」


「ご寝室にお戻りになられています。医師の診立てでは、冷えと疲労、それから足の傷による発熱とのことでした」


「足……」


 クラルシアは布団の下にある足へ意識を向けた。


 鈍く痛む。

 熱を持っている。


 雨に濡れた石畳。

 裸足で走った感触。

 泥。

 小石。

 潰れた血豆。


 記憶が、少しずつ戻ってくる。


 白鐘橋。

 動かなくなった足。

 地面に落ちた涙。


 黒い外套。


 自分を抱き上げた腕。


 そして、自分の声。


 ――助けて。


 クラルシアは、強くロザリオを握った。


「……トルガ」


 名が、唇からこぼれた。


 その瞬間、ロゼの表情がわずかに硬くなった。


 クラルシアは、布団の上で指を小さく握る。


「また迷惑を、かけました」


 先に出たのは、その言葉だった。


 ロゼの顔が、痛ましそうに歪む。


「迷惑などではございません」


「でも……」


「迷惑などではございません」


 二度目の声は、少しだけ強かった。


 クラルシアは口を閉じた。


 ロゼは寝台の脇に膝をつき、クラルシアの手にそっと触れた。


 指先の冷たさを確かめるように。

 まだ、そこに体温があることを確かめるように。


「本当に……ご無事で、よかった」


 その声は、あまりにも静かだった。


 けれど、静かすぎて、かえって胸に刺さった。


「ロゼ」


「はい」


「泣いたのですか」


「泣いておりません」


 ためらいのない返事だった。


 クラルシアは、ロゼの目元を見る。


「でも、目が少し赤いです」


「雨のせいでございます」


 あまりに硬い声で言われて、クラルシアはそれ以上何も言えなかった。


 ロゼは深く息を吸う。


「陛下」


「はい」


「なぜ、白鐘橋へ」


 責める声ではないがロゼは、震えていた。


 クラルシアは目を伏せる。


 言葉が、すぐには出てこなかった。


 どう説明すればいいのか分からない。


 死にたかった。

 消えたかった。

 終わりたかった。


 そのどれも、ロゼに言えば、この人を傷つける。


 だから、クラルシアは違う言葉を探した。


「聖ルミナ教会へ、行きたかったのです」


「……あの雨の中を、ですか」


「はい」


「裸足で」


「靴を……忘れてしまいました」


 自分でも、ひどく子供じみた答えだと思った。


 ロゼは怒らなかった。


 ただ、痛ましそうに唇を引き結ぶ。


「そこまでして、行きたかったのですか」


 クラルシアは答えずに天井を見上げた。


 清潔で、冷たい白色。


「一目だけで、よかったのです」


 ぽつりと、声が落ちた。


「焼け跡でも、瓦礫でも、何も残っていなくても……あの場所に、もう一度だけ帰れたら」


「陛下」


「あそこまで行けたら、それで……もう、いいと思っていました」


 ロゼの呼吸が止まった。


 もう、いい。


 その意味を、理解してしまった。


 けれど、ロゼは問わなかった。


 死ぬつもりだったのですか。


 戻らないつもりだったのですか。


 なぜ、わたくしに言ってくださらなかったのですか。


 言いたいことはいくらでもあった。


 でも、そのどれも、今のクラルシアを傷つけるだけだと分かっていた。


 ロゼは、クラルシアの手を両手で包んだ。


「陛下」


「はい」


「聖ルミナ教会の代わりには、なれません」


 クラルシアの睫毛が震える。


「シスター・テレサにもなれません。白鐘の音を戻すことも、わたくしにはできません」


「ロゼ……」


「ですが」


 ロゼの声が、わずかに震えた。


「陛下が帰ってこられる場所を、わたくしは作りたいのです」


 クラルシアは言葉を失った。


「王宮が苦しい場所であることは、分かっています。陛下を傷つけるものが、この場所に多すぎることも」


 ロゼは目を伏せた。


「それでも、わたくしは陛下に戻ってきてほしいのです」


 親衛隊長としての言葉ではない。


 ただ、ロゼという一人の女性の願いだった。


「だから、次にどこかへ行かれる時は」


 ロゼは、クラルシアの手を少しだけ強く握った。


「わたくしを置いていかないでください」


 クラルシアの胸が、きゅっと痛んだ。


「……ごめんなさい」


「謝らないでください」


「でも」


「謝る代わりに、約束してください」


 クラルシアは、しばらく黙っていた。


 そして、小さく頷く。


「……約束します」


 ロゼはようやく、ほんの少しだけ息を吐いた。


 部屋に、静かな沈黙が落ちる。


 雨はもう止んでいた。

 けれど、窓の外の庭木からは、まだ雫が落ちている。


 夜の名残のように。


 クラルシアは、ふと思い出した。


「ロゼ」


「はい」


「……トルガ・ラグレイは?」


 その名を口にした瞬間、ロゼの表情が再び硬くなった。


 だが、以前ほどの敵意ではない。


 認めたくないものを、認めざるを得ない、そんな面持ちだった。


「王宮を去りました」


「去った……?」


「下層区へ。八番通りにいる、とだけ言い残して」


「八番通り……」


 クラルシアは、かすれた声で繰り返した。


 行ったことのない場所だった。


 王宮の地図には載っていても、女王が足を踏み入れることなど決して想定されていない場所。


「昨夜、何があったのですか」


 クラルシアが尋ねると、ロゼは一瞬だけ視線をそらした。


「わたくしが城門で見つけた時、あの男は陛下を抱いて戻ってきました」


「わたくしは……」


「眠っておられました」


 ロゼの声が少しだけ低くなる。


「ひどくお疲れのご様子でした。雨と泥でお身体は冷えきり、足は傷ついていました。けれど、あの男は陛下を乱暴には扱っていませんでした」


 クラルシアは黙って聞いていた。


「濡れた外套で陛下を覆い、足に負担がかからないよう抱き方を変えていました」


「トルガが……」


「ええ」


 ロゼは、不本意そうに眉を寄せた。


「その点だけは、認めます。腹立たしいほど丁寧でした」


 クラルシアは、困ったように目を伏せた。


「彼は、何か言っていましたか」


「多くは語りませんでした」


 ロゼは静かに答えた。


「白鐘橋だ、と。橋の手前で倒れていた。足をやっている。医者を呼べ、と」


「足……」


 布団の下で、クラルシアの足が小さく痛んだ。


 雨の中、裸足で走った。

 自分ですら、途中から痛みを忘れていた。


 けれど、あの人は見ていた。


 王冠でも、血筋でも、女王という肩書きでもなく。


 冷えきった足を。

 傷ついた身体を。


「それから」


 ロゼは、少しだけ言いにくそうに続けた。


「あの男は、見合いは止めろ、と言い残しました」


「見合いを……」


「はい」


「トルガが?」


「はい」


 ロゼの声は苦かった。


「おそらく、陛下が白鐘橋へ向かわれた理由を察したのでしょう」


 クラルシアは黙った。


 見合い。


 並べられた条件。

 選ばなければならない相手。

 誰かの都合で決められていく自分の未来。


 それから逃げ出したことを、あの人は見抜いたのだろうか。


「……そうですか」


 クラルシアは、小さく呟いた。


 トルガ・ラグレイは、クラルシアを下層区へ連れて行かなかった。


 王宮から奪うこともできたはずだった。

 すべてを面倒だと放り出すこともできたはずだった。


 けれど、彼はそうしなかった。


 クラルシアを王宮へ戻した。

 ロゼに預けた。

 そして、自分の居場所だけを残して去った。


 逃げ道ではなく。


 選ぶための道を。


「ロゼ」


「はい」


「わたくしは、トルガ・ラグレイを候補から外しません」


 ロゼの瞳が揺れた。


「陛下。それは、あの男を王配に選ばれるという意味ですか」


「いいえ。まだ、そこまでは言えません」


 クラルシアは静かに首を振った。


「わたくしは、あの方の意思を聞いていません。助けられたからといって、あの方を王宮に縛ってよい理由にはなりません」


「では、なぜ」


「もう一度、話したいのです」


 クラルシアは、ゆっくりと言葉を選んだ。


「逃げ道としてではなく、条件としてでもなく。わたくし自身の意思で、トルガ・ラグレイという方を知りたい」


 ロゼは反対したかった。


 危険だと言いたかった。


 下層区の男など、女王の傍に置くべきではないと言いたかった。


 だが、言えなかった。


 あの夜、クラルシアは初めて助けを求めた。


 そして、あの男は応えた。


 その事実だけは、ロゼにも否定できなかった。


「……承知いたしました」


 ロゼは静かに頭を下げた。


「ですが、八番通りへ陛下が向かわれることは認められません」


 クラルシアは少しだけ顔を上げた。


「わたくしが行くと、まだ言っていません」


「お顔に書いてあります」


「……そうですか」


「そうでございます」


 ロゼの声は厳しかった。


 けれど、その厳しさの奥には、まだ消えない恐怖があった。


 クラルシアはそれに気づき、素直に目を伏せる。


「分かりました。今は、行きません」


「今は、ではございません」


「ロゼ」


「少なくとも、八番通りには行かせません。」


「……はい」


 クラルシアは小さく頷いた。


 そして、少しだけ間を置いてから言う。


「では、ロゼ」


「はい」


「トルガ・ラグレイに、伝えてください」


「何を、でございますか」


「わたくしが、もう一度話したいと思っていると」


 ロゼはクラルシアを見つめた。


「ただし、命令ではありません」


 クラルシアは静かに続ける。


「連れてくるのでも、呼び出すのでもなく……来るかどうかは、あの方に選んでほしいのです」


「陛下……」


「わたくしは、あの方をもう一度、王宮の都合に巻き込もうとしているのかもしれません。だからこそ、せめて選ばせてください」


 ロゼはしばらく黙っていた。


 やがて、深く息を吐く。


「承知いたしました」


「ありがとう、ロゼ」


「ただし、わたくしが直接参ります。」


「はい」


「そして、あの男が少しでも不審な動きを見せれば」


「ロゼ」


「分かっています。斬りません。……まだ」


 クラルシアは困ったように目を伏せた。


「まだ、なのですね」


「当然でございます」


 ロゼは立ち上がった。


 だが、すぐには部屋を出なかった。


 寝台の上のクラルシアを、もう一度だけ見つめる。


「陛下」


「はい」


「もう一度申し上げます」


 ロゼの声は静かだった。


「わたくしを、置いていかないでください」


 クラルシアは、ゆっくりとロゼを見た。


 そして、小さく頷いた。


「……はい」


 その返事を聞いてから、ロゼは深く頭を下げた。


「では、八番通りへ参ります」


「ロゼ」


「はい」


「無理はしないでください」


 ロゼは一瞬だけ目を伏せた。


 それから、ほんの少しだけ笑う。


「それは、わたくしの台詞でございます」


 扉が静かに閉じられる。


 部屋に、ひとり残されたクラルシアは、胸元のロザリオを握った。


 夢の中で聞いた声が、まだ残っている。


 咲こうが咲くまいが、薔薇は薔薇だろ。


 トルガは、薔薇の側にいたわたしを思い出して金髪のちっこいガキと言ったのだろうか。


 それとも、そこは忘れているのだろうか。


 クラルシアには分からない。


 けれど、それでもよかった。


 今度は、王宮が決めた条件としてではなく。

 誰かが用意した逃げ道としてでもなく。


 自分の意思で、もう一度会いたいと思った。


 白い寝室に、淡い朝の光が落ちる。


 それはまだ、救いと呼ぶには弱すぎる光だった。


 けれど、完全な夜ではない。

ここまで読んでくださりありがとうございます。


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