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第18話 取引の余熱

 トルガ・ラグレイが部屋を出ていったあとも、クラルシアはしばらくその場から動けなかった。


 ロゼに支えられ、ようやく寝台へ戻される。


 足の包帯がずきずきと痛んだ。

 熱の名残で身体は重い。

 それなのに、痛みも熱も、今はどこか遠かった。


 一番近くにあるのは、唇だった。


 触れられた場所が、まだ熱い。


 クラルシアは寝台の上で、そっと口元に指を触れた。


 その瞬間、さきほどの感触が蘇る。


 硬い指。

 顎を持ち上げられた感覚。

 低い声。


 ――大丈夫か。


 そして、一瞬だけ落ちた熱。


「……取引」


 クラルシアは小さく呟いた。


 トルガはそう言った。


 取引成立だ、と。


 まさか、自分の初めての口づけが取引になるとは思わなかった。


 もっと違うものだと思っていた。

 物語の中では、口づけとはもっと綺麗で、静かで、胸を締めつけるようなものだった。


 けれど実際は違った。


 黒い男が、低い声で条件を告げた。

 嫌なら断れと言った。

 それでもよいと答えたら、ほんの一瞬だけ唇を触れさせて、取引成立だと言って出ていった。


 不敬だ。


 とても、不敬だ。


 そう思うのに。


 心臓が、まだうるさい。


 トルガの顔が離れない。

 近づいてきた時の目。

 顎に触れた指。

 王宮の香とは違う気配。

 それから、すぐに離れていった唇。


「……どうして」


 クラルシアは布団を小さく握った。


 分からない。


 そもそも、自分は男の人とまともに近づいて話したことがほとんどなかった。


 北壁の教会では、目立たないようにしていた。

 ミリアムでは、苛められないように、誰とも深く関わらないようにしていた。

 王宮に戻ってからは、男たちの視線が怖かった。


 見られることはあった。

 褒められることもあった。

 欲しがられることもあった。


 けれど、自分から近づきたいと思ったことなど、一度もなかった。


 誰かの指に触れられて、嫌ではないと思ったことも。

 誰かの顔を思い出して、胸が苦しくなったことも。


 なかった。


 だから、分からない。


 これは、何なのだろう。


 しばらくして、扉が静かに開いた。


「陛下」


 ロゼだった。


 クラルシアは慌てて口元から手を離す。


「ロゼ」


「トルガ・ラグレイは廊下の先に控えさせております。……いえ、正確には、外の空気を吸っております」


「咎めてきたのですか?」


「少しだけ」


「そう、ですか」


「陛下のお身体に障るような真似をした自覚は、持たせました」


 ロゼの声は静かだったが、どこか納得していない響きがあった。


 実際、納得などしていなかった。


 廊下へ出たトルガに、ロゼは短く問いただした。


 なぜ、あのような真似をしたのか。

 なぜ、陛下の初めてを取引などと呼んだのか。

 なぜ、あれほど平然としていられるのか。


 トルガは、ほとんど表情を変えなかった。


 ただ、低く言った。


 ――大丈夫かと言った。

 ――あいつははいと言った。

 ――それだけだ。


 そして最後に、


 ――倒れる前に寝かせろ。


 そう言った。


 腹立たしいほど、筋は通っていた。


 だからロゼは、それ以上強く咎められなかった。


 クラルシアは、そんなロゼの内心には気づかないまま、布団の上で指を重ねている。


「ロゼ」


「はい」


「口づけとは……」


 言いかけて、顔が熱くなった。


 けれど、一度気になり始めると、どうしても聞かずにはいられなかった。


「口づけとは、こんなにも心臓に悪いものなのでしょうか」


 ロゼは言葉を失うことしかできなかった。


 寝台の上で頬を赤くし、真剣にそんなことを尋ねてくるクラルシアは、あまりにも年相応だった。


 可愛らしい。


 そう思った。


 同時に、強烈に納得がいかなかった。


 なぜ、あの男なのか。


 なぜ、あの粗野で無礼で、取引成立などと言い放つ男が、陛下をこのような顔にさせているのか。


 だが、ここでそれが何であるかを教える気にはなれなかった。


 まだ早い。


 クラルシアは、まだ傷だらけだ。

 ようやく息をし始めたばかりなのだ。


 ここで恋などという言葉を与えてしまえば、きっとこの方はまた悩む。

 自分の感情さえ、誰かの迷惑になるのではないかと考えてしまう。


 ロゼは静かに咳払いをした。


「急なことでしたので、お身体が驚かれたのでしょう」


「身体が……」


「はい。陛下はお疲れでもあります。発熱もございます。心臓が落ち着かないのは、そのためかと」


「そういうものですか」


「そういうものでございます」


 ロゼは真面目な顔で言い切った。


 クラルシアは、まだ赤い顔のまま、胸元に手を当てる。


「では、少し休めば落ち着くのでしょうか」


「おそらくは」


「……ですが」


「はい」


「目を閉じると、また思い出してしまいます」


 ロゼは黙った。


 クラルシアは布団を握ったまま、小さく呟く。


「取引成立だなんて、ひどいです」


「はい」


「わたくしは、まだ何も分からないのに」


「はい」


「初めてだったのに」


 小さな声だった。


 ロゼが、何とも言えない顔をする。


 クラルシアはさらに赤くなり、布団を少しだけ握った。


「あとで、どういうつもりだったのか、ちゃんと聞きます」


「はい」


「でも……」


 言葉が止まる。


 嫌ではなかった。


 それが一番困った。


 嫌ではなかった。

 怖くもなかった。


 ただ、胸が苦しい。


 そして、もう一度思い出してしまう。


 低い声。

 顎に触れた指。

 唇に落ちた、短い熱。


 クラルシアは、もう一度そっと唇に触れた。


 すると、また心臓が跳ねる。


「……やっぱり、心臓に悪いです」


 ほとんど泣きそうな声だった。


 ロゼは胸の奥で、深く息を吐いた。


 これは、思ったより危険かもしれない。


 トルガ・ラグレイ。


 あの男は、陛下を傷つけるかもしれない。

 王宮を荒らすかもしれない。

 陛下の心を、今までとは違う形で乱すかもしれない。


 だが同時に、あの男は陛下の止まっていた時間を動かしてしまった。


 その事実だけは、もう否定できなかった。


「陛下」


「はい」


「少し、お休みください」


「眠れるでしょうか」


「眠れなくとも、横になっているだけで違います」


「……はい」


 クラルシアは素直に頷いた。


 けれど、横になる前に、ふとロゼを見上げる。


「ロゼ」


「はい」


「トルガは、まだ近くにいるのですか」


「おります。廊下の先です」


「そうですか」


 クラルシアは目を伏せた。


 その声に、かすかな安堵が滲んでいた。


 まだ近くにいる。


 それだけで、胸の奥が少しだけ落ち着いた。


 取引成立だと言って出ていったくせに。

 まるで何もなかったような顔をしていたくせに。


 それでも、彼は去っていない。


 呼べば、きっと来る距離にいる。


 それがどうしてこんなに心を落ち着かせるのか、クラルシアにはまだ分からなかった。


「陛下」


「はい」


「本当に、トルガ・ラグレイを婚約者として宰相閣下に告げるおつもりですか」


 部屋の空気が、少しだけ変わった。


 口づけの熱に揺れていた少女の顔が、ゆっくりと静まっていく。


 頬はまだ赤い。

 唇にも、戸惑いが残っている。


 けれど、その瞳の奥に細い芯が戻った。


「はい」


 クラルシアは言った。


「告げます」


「後戻りは難しくなります」


「分かっています」


「王宮は荒れます」


「それも、分かっています」


「宰相閣下は、必ず反対されるでしょう」


「でしょうね」


 クラルシアは、少しだけ布団を握った。


「それでも、わたくしは選びました」


 ロゼは、何も言えなかった。


 昨夜、白鐘橋で倒れていた少女。

 戻らなくてもいいと思っていた女王。

 今も初めての口づけに顔を赤くしている、十八歳の少女。


 その少女が、自分で選ぶと言っている。


 ならば、親衛隊長である自分が、その最初の選択を奪うことはできない。


「……承知いたしました」


 ロゼは静かに頭を下げた。


「では、医師の許可が出次第、宰相閣下へお伝えする準備をいたします」


「今の状態で、会うのは難しいでしょうか」


「難しい以前に、認めません」


「ロゼ」


「絶対に認めません」


 きっぱりと言われて、クラルシアは少しだけ目を伏せた。


「分かりました」


「今はお休みください。陛下が倒れては、トルガ・ラグレイを選んだ意味がありません」


「あの方は……」


 クラルシアはそこで言葉を止めた。


 あの男、と言いかけたのか。

 トルガ、と呼びたかったのか。

 自分でも分からなかった。


 ただ、口にしたい名だけは胸の奥にはっきり残っていた。


「……トルガは、宰相に告げることを知っているのでしょうか」


「おそらく、理解しているかと」


「そうですか」


「陛下が選ばれたことも、王宮が荒れることも、承知の上で来ているのでしょう」


 クラルシアは、静かに目を伏せた。


 トルガ・ラグレイ。


 王宮に似合わない黒い男。

 低い声で、短く答える男。

 取引完了だと言って、あっさり部屋を出ていった男。


 けれど、嫌なら言えと言った。

 奪わなかった。

 そして今も、近くにいる。


 クラルシアはようやく枕に身を預けた。


 目を閉じる。


 すると、また唇の熱が蘇った。


 取引。


 そう、これは取引だった。


 けれど。


 嫌ではなかった。


 その事実だけが、胸の奥でいつまでも静かに鳴っていた。

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