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『音魔法はゴミ? いいえ、研究したら文明を揺るがす最強魔法でした』  作者: 白月 鎖
魔法学院編

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第87話「声は届く——学園編」


 闇が学院を呑んでいく。


 俺は屋上から飛び降り、寮棟に向かって走った。仲間を起こさなければ。


 だが闇は速い。東棟から広がった黒い霧が、建物を一つまた一つと覆っていく。光が消える。松明が消える。魔導灯が消える。フィンの闇属性は「光を喰う」性質を持っている。


 そして——音も歪む。


 闇の中で反響定位を試す。反射が返ってこない。闇が音を吸収している。精度が半分以下に落ちた。


 ルーイの隠形術に似ている。だがフィンの方が格上だ。空間そのものを闇で塗り潰す。


 男子棟に辿り着いた時、廊下は既に闇に覆われていた。


 アルトの部屋の扉を叩く。中から剣を抜く音が聞こえた。さすがの反応速度。


「何だ!? 真っ暗だぞ!」


「暗殺者だ。闇属性の魔法で学院が覆われてる」


「ノーラとセラは!?」


「女子棟だ。——矢文を飛ばす」


 中庭を挟んで百歩以上離れた女子棟。闇が音を吸う中で、矢文が届くかわからない。だがやるしかない。


 出力を限界まで上げた指向性音波を、女子棟の方向に撃ち込んだ。脳がズキリと痛む。闇の中で音が減衰する。届け。届いてくれ。


 ——ノーラ、セラ、聞こえるか。学院が襲撃されてる。闇属性の魔法だ。今からそっちに向かう。外に出るな、部屋で待て。


 数秒の沈黙。


 そして——中庭の向こうから、青白い光が一瞬だけ灯った。ノーラの雷。「聞こえた」の合図。


 通じた。


 だが女子棟に行くには中庭を横切らなければならない。その中庭を——闇が覆っている。


「アルト、行くぞ。ノーラたちと合流する」


 二人で中庭に飛び出した。闇の中を走る。反響定位が効かない。足元すら見えない。


 中庭の半ばで——足音。三つ。暗殺者だ。


 矢文でアルトに送る。


 ——前方三人。プロだ。距離二十歩。武器は短剣。


「聞こえた! だが方向がわからねぇ!」


「俺が案内する。左側の壁に沿って走れ。俺は右から回る」


 暗殺者が動いた。


 闇の中で、刃が光った。月明かりすらない完全な暗闘で、刃金だけが鈍く光る。


「散開!」


 アルトと俺が左右に分かれる。暗殺者が俺を追う。アルトが別の一人と交差する。


 中庭で引き離された。合流できない。


 そして女子棟から——雷の光が走った。ノーラが外に出てきた。セラも一緒だ。「部屋で待て」と言ったのに。


 矢文を飛ばす。闇の中、出力を限界まで。


 ——ノーラ、中庭に暗殺者がいる! アルトと合流しろ! 俺はセラと動く!


 ノーラの雷が一閃。「聞こえた」の合図。


 結果として——アルトとノーラが中庭側で、俺とセラが女子棟寄りの本棟で、それぞれ別行動になった。分断された。だが通信は生きている。闇の中でも、矢文は届く。



 アルトとノーラが一緒に行動していた。中庭から訓練場側の廊下に出ていた。


 暗殺者が一人、二人の前に立ちはだかった。闇の中で姿は見えないが、殺気が重い。プロの暗殺者の殺気は、空気の密度そのものが変わる。


「見えねぇ——くそ、目が使えない!」


 アルトが剣を構えるが、暗闇では相手の位置がわからない。


 暗殺者の短剣が闇の中から走った。アルトが本能で横に跳ぶ。刃が頬を掠める。


「ノーラ、雷で照らせ!」


「待って——闇が雷を吸ってる! 出力が食われる!」


 フィンの闇は光だけでなく、電気エネルギーも吸収する。ノーラの雷が闇の中で減衰する。


 二人が追い詰められかけた時——


 アルトが地面に手をついた。


 土の感知。練武祭でガルドの壁の弱点を見つけた時の技。


 闇は目を奪う。闇は音を吸う。だが——闇は大地を変えない。


 地面の振動。石畳を通じて伝わる情報。暗殺者の足が地面を踏んでいる。二本の足。右足に体重がかかっている。距離は六歩。方向は——左斜め前。


「見えた——いや、“感じた”。左斜め前、六歩!」


 アルトが闘気斬を放った。闇の中を金色の剣圧が走る。光の斬撃が暗殺者を薙ぐ。


 暗殺者が吹き飛び、壁に叩きつけられる。


 ノーラが追撃した。雷鎖。闇に吸われて出力は落ちているが、倒れた相手を拘束するには十分。青白い鎖が暗殺者の体を巻き、床に縫い止める。


「やった——!」


「まだだ。あと二人いる」



 俺とセラは、本棟の三階に追い込まれていた。


 暗殺者が一人、廊下の闇の中から迫ってくる。手に持っているのは——呪毒の短剣。共鳴探知で刃の振動を読む。通常の鉄ではない。呪いの魔力が刃に宿っている。斬られたら呪毒が体を蝕む。


「セラ、あの刃に触れるな。呪毒だ」


「呪毒……!」


 暗殺者が飛びかかってきた。闇の中で姿は見えないが、共鳴探知で筋肉の動きを聴く。右手の短剣が俺の胸を狙っている。


 回避。左に跳ぶ。だが闇の中で壁の位置を見誤り、肩を壁にぶつけた。体勢が崩れる。


 暗殺者の二撃目。


 短剣が俺の左腕を掠めた。


 焼けるような痛み。そして——冷たさ。呪毒が傷口から体に浸入していく。


「セレンさん!」


 セラが走り寄り、浄化を飛ばした。白い光が俺の腕を包む。


 だが——光が弾かれた。


「効かない——! 呪いが私の浄化を拒絶してる——!」


 呪毒は通常の毒とは違う。呪いの魔力が浄化の魔力を打ち消している。セラの浄化では出力が足りない。


 腕が痺れ始めた。呪毒が広がっている。時間がない。


 暗殺者が三撃目を放つ。今度は俺ではなく——セラを狙った。回復役を先に潰す。暗殺の定石だ。


 セラの体が動いた。


 考えるより先に。祈るより先に。


 セレンの前に立ち、両手を広げた。


「防壁!」


 光の膜が展開される。暗殺者の呪毒短剣が防壁に突き刺さる。


 貫通しかけている。防壁にヒビが走る。出力が足りない。Lv18のセラでは、プロの暗殺者の一撃を完全には止められない。


 砕ける。このまま砕ける。そうしたらセレンが死ぬ。


 セラの頭の中で、二つの声が聞こえた。


 ヴィルマ教官の声。「回復術者は前線に出るな」


 セレンの声。「聖典が追いついてないだけかもしれない」


 セラは目を閉じた。


 ——女神よ。あなたが私に力を与えてくださったのは、何のためですか。


 ——祈るためですか。癒すためですか。


 ——それとも——守るためですか。


 防壁に、新しい力が流れ込んだ。


 浄化の光。


 防壁の表面に、浄化の魔力が走った。「不浄を消す力」が防壁に溶け込み、呪毒短剣の「呪い」を触れた瞬間に消す。


 呪毒が消えた。短剣がただの鉄に戻った。防壁が短剣を弾き返す。


 暗殺者が驚いて後退する。


 セラが目を開けた。


 防壁が形を変えていた。薄い膜ではなく——セレンを包む、光の鎧。


 聖盾セイクリッド・シールド


「癒す者は戦わず、と聖典には書いてあります」


 セラが杖を構えた。目の奥に、炎がある。


「でも私は——守る者です。聖典にはまだ、そのページがないだけ」


 聖盾の光がセレンの腕の呪毒を浄化していく。防壁と浄化の融合——触れたものの呪いを消し、同時に物理衝撃を防ぐ。


 俺の腕の感覚が戻ってきた。呪毒が消えている。


「セラ——」


「動けますか、セレンさん」


「ああ。——ありがとう」


「お礼は後で。まず——あの人を止めます」



 暗殺者は撤退しようとしていた。聖盾の光に怯んでいる。


 だが俺はもう動ける。


 全ての出力を切った。


 反響定位を切る。矢文を切る。ノイズキャンセリングを切る。幻惑音響を切る。全ての「出力」を止めて——ただ聴く。


 グレンの教え。「沈黙の中で耳を澄ませろ」


 闇の中に残る音。


 暗殺者の足音。呼吸。心拍。衣擦れ。


 そして——もっと遠く。この闇を維持している発信源。フィンの心臓の鼓動。四十五回。あの異様に静かな心拍。


 位置を特定した。本棟の一階、中庭に面した回廊。


「セラ。聖盾を俺に巻いたまま、あの方向に——投げてくれ」


「投げる?」


「防壁を弾丸にする。俺ごと」


 セラが一瞬目を見開いて——頷いた。


 聖盾がセレンを包んだまま、セラが防壁に「反発力」を込めた。物を弾く力。いつもは敵の攻撃を弾くために使う力を、味方を「射出する」ために使う。


 光の弾丸。


 セレンが聖盾に包まれて、廊下を一直線にフィンの方向へ飛んだ。闇を切り裂いて。聖盾の浄化が闇属性の「不浄」を触れた端から消していく。


 闇が裂けた。


 月明かりが差し込む。中庭に面した回廊。


 フィンが立っていた。漆黒の髪。蒼い瞳。穏やかな顔。だが両手から闇が溢れ出している。


 セレンの掌がフィンの胸に触れた。


 共鳴制御。フィンの闇属性の魔力振動を読み、逆位相を当てて「鎮める」。


 フィンの闇が——消えた。


 月明かりが中庭に戻ってくる。学院に光が差す。


 フィンの蒼い瞳が、月光の中でセレンを見つめた。


「僕の闇を……消したのか」


「消してない。鎮めただけだ。手を離せば戻る」


「……なぜ殺さない」


「お前がまだ答えを出してないからだ。——お前は自分で選んだことがあるか、フィン」


 フィンの表情が——初めて崩れた。穏やかな仮面の下にあったもの。空虚。恐怖。そして——微かな渇望。


「選ぶ……? 僕に、選ぶことなんて——」


 その時。


 風が吹いた。


 ミーシャが回廊の端に立っていた。栗色の髪が夜風に揺れている。笑顔はない。初めて見る、素顔。泣きそうな、怯えた、子供の顔。


「ミーシャ……? あんた、なんでフィンのそばに——」


 ノーラの声。アルトと暗殺者を拘束して駆けつけたノーラとアルトが、回廊に到着していた。


 ミーシャがフィンの手を掴んだ。


「ごめんなさい」


 一言。それだけ。


 風属性の魔力がミーシャの体から溢れ出し、二人の体を浮かせた。風が渦を巻く。


「ミーシャ、待て!」


 セレンが手を伸ばす。だが聖盾の反動と共鳴制御の消耗で体が動かない。


 ミーシャとフィンが、窓から夜空に飛び立った。


 ノーラが叫んだ。


「ミーシャ!!」


 返事はなかった。


 二つの影が月に向かって小さくなっていく。風の音だけが残った。


 ノーラが窓枠に手をかけたまま、動かなくなった。金色の瞳に涙が浮かんでいた。だが流れなかった。


「……あの子の”ごめんなさい”は、嘘じゃなかった。心拍が嘘のパターンじゃなかった。——セレン、あんたにもわかったでしょ」


「ああ。あれは本音だった」


「なら——取り戻す。絶対に」



 翌朝。


 学院は大騒ぎだった。暗殺者の侵入。生徒の負傷。闇属性のフィン=ロスヴァインと風属性のミーシャ=トルネが行方不明。


 王国騎士団が学院に到着し、事件の調査が始まった。


 エルデ教官がセレンを呼んだ。


「セレン君。君の音魔法が暗殺者を撃退したこと、そして闇属性の魔法を”消した”こと。この二つの事実は、必ず王宮に報告される」


「報告されたくないんですけど」


「もう遅いよ。——王都は、君を放っておかない。良い意味でも悪い意味でも」


 ヴァンの言葉が甦る。「権力者は放っておかない」。


 中庭の噴水の傍。四人が集まった。


 アルトが拳を握っていた。


「ミーシャは——敵だったのか」


「わからない」


 ノーラが言った。目は前を向いている。もう泣いていない。


「わからないわよ。あの子が泣いてたのは嘘じゃなかった。“ごめんなさい”も嘘じゃなかった。——でも、結果として裏切った。理由があるはず。その理由を聞くまで、私は判断しない」


 セラが静かに言った。


「ミーシャさんは”選べなかった”のだと思います。選ぶ力がなかったのではなく、選ぶことを許されなかった。フィンさんも同じ。——誰かに”選ばされた”んです」


 俺は立ち上がった。


「ミーシャを取り戻す。フィンの事情も聞く。そして——暗殺ギルドの正体を突き止める」


「どうやって?」


「音石通信を使えば、ギルドの通信を傍受できるかもしれない。共鳴核があれば距離の問題も解決できる。あの工作員の魔力パターンは記録してある。追跡できる」


「それって——」


「王都の裏側に踏み込む。学院を出て」


 アルトが立ち上がった。


「やるぞ。全員で」


 ノーラが立ち上がった。


「ミーシャは私が取り戻す。あの子の嘘の裏にある本音を、私が聴く」


 セラが立ち上がった。


「私も行きます。守るべき人が——増えましたから」


 俺は音石通信の石を取り出した。共鳴核を組み込んだプロトタイプ2号。通信距離は推定十里。


 石に向かって話しかけた。


「ミロ。聞こえるか」


 数秒の沈黙。


 そして——遠くモルヴァから、少年の声が返ってきた。


「セレン……? セレンなの!? 聞こえる! 聞こえるよ! すげぇ、モルヴァから聞こえるよ!」


 ミロの声。変わらない、元気な声。


「ミロ。聞いてくれ。俺たちはこれから——王都の裏側に踏み込む。危険な相手だ。でも行かなきゃいけない。仲間が連れ去られた」


「わかった。僕にできることは?」


「情報だ。モルヴァのギルドに出入りする人間の中に、不審な動きをする者がいないか。リディアと一緒に見張ってくれ」


「任せて。僕はギルドの情報管理者だからね。——セレン。約束覚えてる?」


「覚えてる。帰ってきたら笑って報告する」


「うん。待ってるから」


 通信を切った。



 三日後。エルデ教官の研究室。


「セレン君。ちょっと来てくれ」


 研究室の机の上に、四つの小さなものが並んでいた。翡翠の粒を銀の耳掛けに嵌めたもの。イヤリングのような形。


「音石通信の改良版だ。君の石を分析して、共鳴核を翡翠の粒に刻み直した。学院の工房と鍛冶師に協力してもらった」


「これは——」


「手に持たなければ使えない通信機では、戦闘中に使えないだろう。——これなら耳に掛けるだけだ。両手が空く」


 手に取った。小さい。軽い。掌サイズの石が、小指の先ほどの翡翠の粒になっている。見た目は普通のイヤリング。通信機だとは誰も気づかない。


「通信距離は?」


「元の石と同等。約十里。ただし音質はやや向上している。翡翠の結晶構造が共鳴核と相性が良いらしく、ノイズが減った」


「四つ。——四人分」


「君たちのパーティの人数分だ。音響魔法学の最初の”製品”だよ。——君と私の研究が形になった」


 エルデが満足そうに笑った。学者が自分の理論の実用化を見届けた時の顔。



 中庭で四人に配った。


 アルトが耳に着けて首を捻った。


「なんか妙な感じだな。耳がくすぐったい」


「慣れる。——これで両手が空いたまま通信できる。戦闘中でも走りながらでも」


 ノーラが手鏡を取り出して耳元を確認した。銀の耳掛けに翡翠の粒。日差しを受けて微かに緑色に光っている。


「……悪くないわね。飾りとしても」


「飾りじゃないぞ。通信機だ」


「わかってるわよ。でも見た目も大事でしょ。——女子棟でこれ着けてたら”かわいいイヤリングだね”って言われるわ。誰にも通信機だと気づかれない」


 セラが大切そうに耳に掛けた。


「エルデ教官、ありがとうございます。これで——離れていても声が届きますね」


「ああ。男子棟と女子棟の間でもな」


 その言葉に、ノーラの手が一瞬止まった。手鏡を持つ指が微かに強ばる。


 ——男子棟と女子棟の間で。夜でも。ベッドからでも。セレンの声が耳元に届く。


 ノーラの心拍が微かに速くなったのを、俺の共鳴探知が捉えた。だが理由がわからない。「通信ができて嬉しい」のパターンとは微妙に違う。名前をつけにくい感情。


 「何か嫌なのか?」と聞きかけて、やめた。ノーラが手鏡を仕舞いながら「ふうん」と言ったから。あの「ふうん」は追及するなの合図だと、最近学んだ。



 その夜。消灯後。男子棟の自室。


 アルトは隣のベッドで寝ている。今日の事件の疲れで、夕食後すぐに落ちた。


 耳掛けを着けたまま、横になる。


 初めて使う。夜に。ベッドの中で。


 小声で起動した。ノーラの石に向けて。


「——ノーラ。聞こえるか」


 一秒の沈黙。


 そして——耳のすぐそばで、ノーラの声が返ってきた。


『……聞こえる。——すごい。本当に声が聞こえる。あんたの声が』


 近い。窓枠越しの暗号とは全く違う。まるで隣に寝ているかのように、ノーラの声が耳元で響いている。声の振動が、翡翠の粒を通じてダイレクトに鼓膜に届く。


「小声で話せ。セラが起きる」


『セラはもう寝てる。寝付き良いのよ、あの子。……私だけ起きてた。あんたが通信してくるかなって思って』


 待っていた。ノーラが。通信を。


「……今まで窓枠を叩くしかなかったのに。声が聴こえると、なんか——」


『なんか?』


「近い」


 沈黙。ノーラの呼吸が石越しに聴こえる。穏やかな呼吸。だが少し速い。


『……うん。近い。変な感じ。隣にいるみたい。でも隣にいない。中庭を挟んで、別の棟にいるのに』


「いつでも話せるぞ。もう暗号じゃなくて、言葉で」


『……じゃあ、おやすみって言って。声で。窓枠の二回叩きじゃなくて』


「おやすみ、ノーラ」


 沈黙。長い。三秒。五秒。


『……おやすみ。セレン。——声で聴くと、全然違う』


 通信が切れた。


 天井を見つめる。心拍が——自分の心拍が、少し速くなっていることに気づいた。共鳴探知で自分の体内を聴いてしまった。七十八拍。普段の安静時は六十八。十拍速い。


 なぜだ。通信のテストをしただけだ。技術的な確認。問題なく動作した。報告すべき異常はない。


 なのに十拍速い。


 ……研究ノートに書くべきだろうか。「音石通信3号のテスト。通信品質良好。なお、テスト中に心拍が十拍上昇。原因不明。要調査」。


 ——書かなかった。研究ノートに書くことではない気がした。理由はわからない。



 翌朝。食堂で朝食を取っている時、ノーラが一つ席を空けて座った。いつもは隣に座るのに。


「ノーラ。なんで離れてるんだ」


「別に。——昨日の通信、セラにバレてないわよね」


「バレてない。セラは寝てた」


「……ならいいわ」


 ノーラがパンを齧った。耳の翡翠のイヤリングが、朝日で微かに光っている。


 セラが向かいの席から穏やかに微笑んでいた。何も言わない。ただ微笑んでいる。


 セラは寝ていたはずだ。通信の声は聞こえていないはずだ。


 ——なのになぜ、あんなに穏やかに笑っているのか。


 考えないことにした。



 四人で顔を見合わせた。


 学園で得たもの。理論の体系。新しい技。新しい仲間。新しい敵。そして——失ったもの。ミーシャの笑顔。フィンの穏やかな仮面の下の空虚。


 そして——新しい道具。耳元で声が届く、翡翠の通信機。


 全部を抱えて、次に進む。


 足音が石畳に響いた。四人分。それぞれ違うリズム。でも同じ方向に向かっている。


 ——声は届く。どこまでも。


 **学園編・完。王都編へ続く。**

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