第86話「女神の沈黙」
ヴァン戦の興奮が冷めやらぬ中、練武祭の最終種目が告げられた。
「最終種目——討伐戦」
イレーネの声が闘技場に響く。
「学院の地下訓練迷宮に封じられた魔獣を討伐する。参加は任意。パーティの制限なし。何人で挑んでも構わない」
地下訓練迷宮。学院の地下深くに存在する、魔獣を封印管理する空間。Cランク以上の冒険者育成に使われる。
「今回の対象は——呪蝕獣”グリードファング”。Dランク上位相当。呪詛の濃度が通常の魔獣より極めて高い。爪と牙に呪毒が宿る。掠っただけで呪いが浸入する。過去にこの魔獣の討伐戦で重傷者が出ている。——覚悟がない者は参加するな」
闘技場の空気が変わった。練武祭のトーナメントとは違う緊張。模擬戦ではなく、本物の魔獣との実戦。
「参加するか?」
アルトが聞いてきた。目が燃えている。
「する。四人で——」
「七人だ」
横から声がかかった。ヴァンだった。
決闘の直後だ。セレンに共鳴制御で燃焼加速を止められ、膝をつき、敗北を認めた直後。体にはまだ反動が残っているはずだ。頬に擦り傷があり、外套の袖が焦げている。
「お前、動けるのか」
「燃焼加速の反動は消えた。お前が”鎮めてくれた”おかげでな。通常の反動なら半日は動けないが、お前の共鳴制御で魔脈が正常に戻された。むしろ体調はいい」
ヴァンの目が光っている。退屈そうな目ではない。獲物を見つけた目。
「それに——さっきの戦いで、お前の手の内は全部見た。お前も俺の手の内を見た。互いの魔脈の速さも深さも知っている。これほど”噛み合う相手”は他にいない」
理論派同士。互いの能力を完全に把握した二人。敵として戦った直後に、味方として共闘する。
「……いいのか。お前、一人で戦う主義だろう」
「主義は主義。だが呪蝕獣相手に一人で突っ込む馬鹿はいない。——それに」
ヴァンが口の端を上げた。
「お前と”組んだら”どうなるか、試してみたい。理論上は——最強の組み合わせだ」
リオが歩いてきた。
「私も参加する。……面白そうだから」
リオの目に、さっきノーラに負けた時に灯った光がまだ残っていた。
ガルドも無言で前に出た。腕を組み、一つ頷いただけ。
七人。セレン、アルト、ノーラ、セラ、ヴァン、リオ、ガルド。
「行くぞ」
◇
地下訓練迷宮。
石の階段を降りた瞬間、空気が変わった。冷たく、重く——臭い。甘く腐ったような、鼻の奥にこびりつく不快な匂い。呪詛の匂いだ。
反響定位を展開する。迷宮は広い。天井が高く、柱が林立している。奥に——巨大な反応。
心臓の鼓動が聴こえる。低く、速く、怒りに満ちた拍動。
そして体内から漏れ出す呪詛の振動が——ヴァイパーロードの比ではなかった。
脚が竦んだ。
何人かの生徒が足を止めた。上級生ですら顔が青い。呪蝕獣の呪詛は「存在するだけで恐怖を撒く」レベルだ。
ヴァンだけが平然としていた。
「呪詛の濃度が高い。体内の魔脈が通常の魔獣とは質が違う——聴こえるか、セレン」
「聴こえる。脈が速い。だが火属性の”速さ”とは違う。もっと乱雑で、不規則で——壊れかけている」
「呪詛に蝕まれた魔脈か。元の魔獣の脈動が呪詛に上書きされている。面白い」
「面白がってる場合か」
「知的好奇心は戦場でも消えない。——で、作戦は」
ヴァンが聞いてきた。当然のように。さっきまで敵だった男が、当然のように「指揮を任せる」態度を取っている。
「お前が指揮を取れとは言わない。だが情報はお前が一番持っている。共鳴探知で弱点を読め。俺はお前の指示に従う」
一人で戦う主義のヴァンが、指示に従うと言っている。
「——わかった。全員に矢文で作戦を伝える」
七人に同時矢文。脳への負荷が跳ね上がるが、今の俺なら保つ。
——全員聞け。グリードファングの弱点は三箇所。
共鳴探知で読み取った情報を即座に共有する。
——一つ目。魔力の急所。首の付け根の内側。ここに魔力が集中している。潰せば魔力の巡りが止まる。止めは俺が震孔掌で入れる。
——二つ目。六つの目。視覚を奪えば空間把握能力が落ちる。リオ、水で目を塞いでくれ。
——三つ目。前脚の関節。ここの鱗が他より薄い。アルト、闘気斬で脚を狙え。動きを止める。
——ノーラ。二本の尾を雷鎖で拘束。呪毒の棘を封じる。
——ガルド。土壁で脚の動きを制限しろ。
——セラ。全員の体力管理。呪毒を受けた者がいたら即浄化。
——そしてヴァン。
ここで一拍置いた。
——お前には特別な仕事がある。
「何だ」
——グリードファングの鱗は呪詛で強化されている。通常の攻撃では傷が浅い。だがお前の火は「脈が速い」。呪詛の魔脈を上書きできる可能性がある。
「俺の火で、呪詛を”焼く”のか」
——そうだ。お前の焔槍を俺の共鳴強化で増幅する。お前の火の魔脈に、俺が同じ速さの脈動を重ねる。出力が1.5倍になる。呪詛の鱗を焼き切れるはずだ。
ヴァンの目が見開かれた。
「お前の共鳴強化を——俺に使うのか」
——ノーラの雷で実験済みだ。同じ脈動を重ねれば出力が上がる。お前の火の脈の速さは一呼吸に三百拍以上。俺はその速さを正確に聴いて、同じ速さの脈動を生成できる。
「……さっきの決闘で俺の魔脈を”聴いた”から、もう完全に把握しているというわけか」
——そういうことだ。
ヴァンが——笑った。純粋な喜びの笑み。知性が噛み合った時の快感。
「最高だな。敵の時にお前の脈を聴かれたのは不快だったが——味方になった途端に”最大の武器”に変わるとは」
——敵として戦った経験が、味方として戦う時の精度を上げる。お前の全てを聴いたから、お前の全てを活かせる。
「行こう。——これは楽しくなる」
◇
グリードファングが姿を現した。
狼に似た四足獣。だが体表は黒い鱗で覆われ、口から紫の蒸気が漏れている。六つの赤い目。二本に分かれた尾。先端に毒の棘。
体長は馬より一回り大きい。呪詛の咆哮が空間を揺らす。何人かの上級生が膝をついた。
だが七人は止まらない。
「ノーラ、尾から!」
ノーラの雷鎖が飛んだ。二本の尾を同時に拘束する。青白い鎖が尾に巻きつき、毒棘を封じる。
「ガルド!」
「土壁、四重!」
ガルドの土属性がグリードファングの四本の脚の周囲に石壁を立てる。動きが制限される。
「リオ、目を!」
リオが水を操った。六つの水球が六つの目にそれぞれ張りつく。グリードファングが頭を振って払おうとするが、リオの精密制御が水球を維持する。
「アルト、左前脚の関節!」
アルトが走った。土の感知で地面越しにグリードファングの脚の位置を「感じ」ながら、関節の薄い鱗を正確に狙う。闘気斬。金色の剣圧が関節を叩く。
鱗が砕けた——が、浅い。呪詛で強化された鱗は、闘気斬でも貫通しきれない。
「くそ、硬い!」
「セレン! 鱗が抜けない!」
ここだ。
「ヴァン——今だ。焔槍を左前脚に。俺が増幅する」
ヴァンが右手を上げた。掌に炎が凝縮する。焔槍。炎が槍状に絞られ、青白い光を帯びる。
俺は共鳴強化を起動した。
ヴァンの火の魔脈を聴く。一呼吸に三百二十拍。速い。鋭い。金属を叩いた時の残響に似た、高く澄んだ脈動。
その脈動に、俺の脈動を「重ねる」。同じ速さ、同じ深さ、同じ向き。完璧な同調。
ヴァンの焔槍が——輝きを増した。青白い炎がさらに白くなる。温度が跳ね上がる。出力1.5倍。いや——
「1.7倍だ。お前の同調精度が高すぎる」
ヴァンが驚いている。だが体は止まらない。
「放て!」
焔槍が飛んだ。白い光の槍がグリードファングの左前脚に突き刺さる。
呪詛の鱗が——焼けた。
黒い鱗の表面で呪詛と炎がせめぎ合い、炎が勝った。鱗が赤く焼け、ひび割れ、砕ける。アルトの闘気斬で傷ついていた関節が、焔槍の熱で完全に露出した。
「アルト、もう一度! 今度は通る!」
アルトが二撃目の闘気斬を叩き込んだ。今度は鱗がない。剣圧が関節を直撃し、グリードファングの左前脚が折れた。
絶叫。六重に反響する呪詛の咆哮。だが一本の脚が折れたことで体が傾き、バランスが崩れている。
「右前脚も同じ手順で! ヴァン!」
「言われなくてもわかっている」
ヴァンの二本目の焔槍。俺の共鳴強化。出力1.7倍の白い炎が右前脚の鱗を焼く。アルトの闘気斬が関節を砕く。
二本の前脚が折れた。グリードファングが前のめりに崩れる。頭が地面に叩きつけられる。
だがまだ生きている。後ろ脚で体を支え、尾を暴れさせる。ノーラの雷鎖が尾の振動に耐えきれず、片方が千切れた。毒棘が振り回される。
「セラ!」
セラがアルトの前に防壁を展開。毒棘が防壁に突き刺さる。ヒビが走る——が持ちこたえた。
「今のうちに!」
ヴァンがもう一つの提案を出した。
「セレン。お前の逆相障壁で、あいつの呪詛の咆哮を消せるか」
「消せる。だが俺が逆相障壁に集中したら、共鳴強化が止まる」
「構わない。一発だけでいい。咆哮を消した瞬間、あいつの意識が一瞬途切れるはずだ。自分の声が消えた驚愕で。——その隙に首を取れ」
理論派の提案。呪詛の咆哮を逆位相で打ち消す→グリードファングが「自分の声が消えた」衝撃で一瞬フリーズする→その隙に震孔掌で中枢魔孔を砕く。
「……なるほど。声を奪われた獣は、一瞬だけ死んだように止まる。低周波威圧の逆だ」
「だろう。お前の技の応用だが、この組み合わせは俺にしか思いつかない」
「自信家め」
「お互い様だ」
グリードファングが咆哮を放とうと口を開いた。六つの目が赤く光る。喉の奥から紫の蒸気が溢れ出す。
来る。
俺は逆相障壁を全力で起動した。
グリードファングの咆哮の魔脈を共鳴探知で瞬時に読む。乱雑で速い脈動。呪詛に蝕まれた不規則な脈。だがパターンはある。パターンがあるなら逆位相を作れる。
咆哮が放たれた——
同時に、俺の逆位相がぶつかった。
音が消えた。
六重の咆哮が空中で打ち消され、完全な静寂が闘技場に落ちた。
グリードファングの六つの目が——全て見開かれた。
驚愕。自分の声が消えた。生まれて初めて、吠えたのに音がしなかった。
全身の動きが一瞬だけ——止まった。
「今だ!!」
ヴァンの声。いや、ヴァンだけではない。アルトが叫び、ノーラが叫び、セラが祈り、リオが水を操り、ガルドが壁を固め——七人の声が重なった。
俺は走った。
グリードファングの首に向かって。前脚が折れて低くなった頭。鱗の隙間。首の付け根。中枢魔孔の位置は共鳴探知で完璧に把握している。
掌が触れた。
呪詛の冷たさが腕に流れ込む。禍々しい。だが負けない。
「震孔掌——!」
中枢魔孔に、固有の脈動を合わせた集束した力を送り込む。魔力の大動脈の交差点が、内側から崩壊する。
グリードファングの動きが止まった。
六つの目から光が消えていく。巨体がゆっくりと——崩れ落ちた。
地鳴り。埃が舞い上がる。
静寂。
そして——拍手が降ってきた。
闘技場の観客席から。魔導鏡で地下の戦闘を見ていた全員から。教官も、生徒も、来賓も。
七人が立っている。全員が荒い息をついている。傷だらけだ。だが全員が立っている。
ヴァンが外套の煤を払いながら言った。
「悪くなかった。——いや。率直に言おう。最高の連携だった」
「お前の焔槍あっての話だ」
「お前の増幅あっての焔槍だ。——対等だ、セレン。敵としても、味方としても」
ヴァンが拳を差し出した。俺は合わせた。
さっきまで殴り合った拳が、今は信頼を込めて触れている。
◇
その瞬間——光が降りてきた。
胸の奥から溢れる温かさ。骨が軋み、魔力の器が大きく広がっていく。呪蝕獣を祓った報酬。呪詛の濃度が高い魔獣ほど、女神の祝福は大きい。
Lv20。第三の祝福の門。
観客席がさらに沸いた。
「レベルが上がった! 光が——」
「Lv20だ! 第三の祝福が来るぞ!」
アルトが叫んだ。
「来たぞセレン! Lv20だ!」
ノーラが目を輝かせている。
「第三の祝福! 何が降りるの!?」
セラが手を合わせて祈っている。
エルデ教官が観客席から身を乗り出し、メモを取る準備をしている。
ヴァンが隣で、腕を組んで見つめている。
リオが無表情だった顔を初めてこちらに向けている。
ガルドが真剣な目で見守っている。
ミーシャが——笑顔の下で、何かを祈るような目をしている。
フィンが——最後列から、蒼い瞳で静かに見つめている。
光が俺を包む。いつもより強い。Lv20の門。
胸の奥に——紋章が浮かびかけた。
女神のシステムが「祝福を配布しようとする」挙動。俺の魔力の脈を読み取り、職業テーブルを参照し、対応する祝福技を探している。
探している。
探している。
——見つからない。
紋章が——消えた。
光が萎む。温かさが引いていく。体は強くなった。ステータスは上がった。だが、手の中に何も残っていない。
頭の中に「新しい形」は浮かんでこない。魂に刻まれるはずの祝福技が——降りなかった。
静寂。
闘技場が凍りついたように静まり返った。
さっきまでの歓声が嘘のように。
そして——囁きが始まった。
「何も……起きなかったぞ」
「祝福が降りない? Lv20なのに?」
「あれだけの連携で呪蝕獣を倒したのに?」
「ゴミ属性だから、女神も技を持ってないんだろ」
「可哀想に——」
「やっぱり音属性なんて——」
囁きが波のように広がっていく。
鑑定の儀の日と同じだ。八歳のあの日、柱が「ぽよん」と鳴り、広場中が笑った。あの日の構図が、ここで繰り返されている。
ヴァンが隣で黙っていた。退屈そうな目ではない。怒っていた。囁きに対してではなく——「こいつほどの人間に祝福を与えない女神のシステム」に対して。
だが——
今の俺は、あの日の俺ではない。
俺は立ち上がった。グリードファングの亡骸の横で。掌にはまだ呪詛の冷たさが残っている。
旅袋から研究ノートを取り出した。ペンを取った。
闘技場の全員が見ている中で、二十三頁目を開いた。
書く。
《Lv20到達。第三の祝福——該当なし。》
《テーブルに存在しない属性には、祝福は配布されない。予想通りの結果。》
《落胆はしない。》
《——自分で作る。今までと同じだ。》
《女神が与えてくれないなら、自分で見つける。それが俺の道だ。》
ペンを置いて、顔を上げた。
「……お待たせ。行くか」
アルトが柵を飛び越えて降りてきた。拳を突き出す。
「おう。——お前はお前だ。祝福なんかなくても、お前は最強だよ」
拳を合わせた。
ノーラが降りてきた。目が赤い。泣いていた。だが涙は拭い終わっている。
「ふん。女神なんか当てにならないってこと。最初からわかってたわ。——あんたの音の方がよっぽど頼りになる」
セラが降りてきた。穏やかな笑みの中に、今まで見たことのない怒りがあった。
「あなたが自分で作った技は、女神の祝福よりずっと美しいです」
ヴァンが横に立ったまま、静かに言った。
「さっき俺の焔槍を1.7倍に増幅した技。あれは女神が与えた力か?」
「いいや。俺が自分で作った」
「ああ。——“テーブルにない”から最強なんだ、お前は。女神が知らない技を使う人間は、女神のシステムで測れない。測れないということは——上限がないということだ」
エルデ教官がメモ帳に猛然と書き込んでいた。
「祝福不在……職業テーブルの空白……これは女神の祝福体系そのものを問い直す発見だ」
リオが呆然と呟いた。
「何も降りないのに……なぜあの目ができる」
◇
練武祭が終わった。夜。学院は祝祭ムードに包まれていた。
俺は男子学生棟の屋上で、一人で夜風に当たっていた。
中庭の向こうに女子棟が見える。窓にはまだ灯りが。さっき矢文で「練武祭お疲れ」と送ったら、ノーラが窓枠を三回叩いた。三回は「ありがとう」の暗号。セラからは光の明滅が返ってきた。防壁の光を一瞬だけ灯す——彼女なりの返事だ。
棟が離れていても、音は届く。光も届く。
悔しくないと言えば嘘だ。四度目の「何も来ない」。
でも。十一の技がある。逆相障壁も加えて。全部自分で作った。そしてさっき——ヴァンの火を1.7倍に増幅した。仲間の力を引き出す技。女神が作ったのではない、俺だけの技。
——大丈夫だ。
屋上の扉が開いた。ミーシャだった。
「セレン。ここにいたんだ」
「ミーシャ。祝祭は楽しんでるか?」
「うん。——あのね、セレン」
ミーシャの声が、いつもと違った。明るさが消えている。
「私ね、嘘つきなの。ノーラさんに言われた通り」
「……うん」
「でも一つだけ、本当のことを言う。——あなたたちと過ごした時間は、嘘じゃなかった。楽しかった。本当に」
ミーシャの心拍が聴こえた。速い。緊張している。だが嘘の時の心拍パターンではない。本音を言う時の振動。
「ミーシャ。お前に何か——」
「ごめんね。先にごめんって言っておく」
「何の話だ?」
ミーシャが笑った。泣きそうな笑顔。
「何でもない。——おやすみ、セレン」
ミーシャが去った。
胸騒ぎがする。ミーシャの「先にごめんって言っておく」が引っかかる。
その時——反響定位が捉えた。
学院の東棟。闇が広がっている。物理的な暗闇ではない。魔力を含んだ闇。音を吸い込む、重い闇。
フィンの闇属性。
闇が学院の一棟を覆い始めていた。
——来た。




