第85話「炎と音」
闘技場が静まり返った。
砂地の中央に二人が立っている。ヴァンの赤い髪が風に揺れる。セレンの白い襟が西日に光る。
三層の観客席が満員。教官席ではエルデが身を乗り出し、ヴィルマが腕を組んでいる。生徒席ではアルトが拳を握り、ノーラが金色の瞳を細め、セラが手を合わせている。リオが無表情の下に期待を滲ませ、ガルドが真剣な目で見つめている。
ミーシャが——笑顔で応援している。だが心拍が速い。いつもより。
フィンが——最後列で、蒼い瞳を閉じている。
「決勝戦——始め」
ヴィルマの声が響いた。
◇
ヴァンが先手を取った。
踏み込みと同時に、「熱の領域」を展開する。ヴァンの周囲十歩の空気の温度が跳ね上がり、砂が乾燥し、陽炎が立ち昇る。
反響定位が歪む。空気の温度が変わると音の速さが変わる。音の速さが変わると反響の戻りが狂い、距離の計算が合わなくなる。
だが——補正する。
半年前のリベンジマッチでは、この領域に手も足も出なかった。だが今の俺は、高温での音速の変化を共鳴探知で聴き取り、リアルタイムで補正できる。エルデの魔脈理論を学んだ成果だ。温度が上がれば脈動が速くなり、音の速さも変わる。その変化量を聴けば、補正値が出る。
「相変わらず、領域内でも平然としてるな」
「半年分の研究をなめるなよ」
先制。魔力撹乱。
ヴァンの体に向けて、不規則な脈動のノイズを送り込む。魔力の流れを乱す妨害技。
ヴァンが火球を放った——が、軌道が微妙にズレた。俺の頭上五寸を通り過ぎ、壁に当たって爆ぜる。
「……撹乱か。学院で覚えた新技か?」
「ああ。お前の魔力にノイズを送り込んだ。火球の精度が落ちるはずだ」
「面白い小技だ。——だが」
ヴァンの魔力出力が跳ね上がった。ノイズを「力で押し切る」。出力を上げれば、撹乱のノイズが相対的に小さくなり、精度が戻る。
二発目の火球。今度は正確に俺を狙っている。横に跳んで回避。共鳴探知でヴァンの腕の筋肉の動きを聴き、火球が放たれる瞬間の「予兆」を読む。腕の筋繊維が収縮し始めてから火球が飛ぶまでのタイムラグは約コンマ三秒。その間に体を動かせば避けられる。
三発目。四発目。全て予兆を読んで回避。
「音で俺の体を読んでいるな。腕が動く前に避けている。——Cランク試験と同じ手か」
「同じだが精度は上がってる」
「なら、こうすれば読めないだろう」
ヴァンが新技を出した。
焔槍。
炎を槍状に極限まで凝縮し、投擲する。火球とは次元の違う速度。発射から着弾までの時間が、火球の三分の一以下。
予兆を読んでも——避けきれない速さだ。
頬を熱が掠めた。髪の先が焦げる匂い。
「速い——!」
「これが半年の成果だ。お前だけが進歩したと思うなよ」
二本目の焔槍が来る。
——逆相障壁。
共鳴探知で焔槍の魔脈を聴く。速い。一瞬で解析しなければならない。火の脈動、一呼吸に約三百二十拍、振幅は——大きい。出力が高い。だがパターンはある。
逆向きの脈動を生成。ぶつける。
焔槍が——空中で消滅した。炎が散り、熱が霧のように消える。何も残らない。
闘技場がどよめいた。
「消した……? 魔法を消した……?」
「炎が空中で消えた——!」
ヴァンの赤い瞳が細くなった。驚きではない。理解だ。
「魔法無効化か。——逆向きの脈動で打ち消したな。お前のノイズキャンセリングの応用だ」
「ご名答。さすが理論派」
「褒めるな。——だが一つ聞く。一度に何発消せる?」
「一発」
「正直だな。——なら」
ヴァンが両手を上げた。
焔槍が——三本同時に生成された。三本が三方向から同時に飛んでくる。
逆相障壁で一本目を消す。二本目を横に跳んで回避。三本目が——左腕を掠めた。
焼ける痛み。外套の袖が燃え上がる。手で叩いて消す。火傷。浅いが、痛い。
「一発しか消せないなら、二発以上を同時に撃てばいい。——単純な話だ」
「……確かに」
逆相障壁の限界。一度に一つしか消せない。複数同時攻撃には対処できない。ヴァンは三発同時射を自然に繰り出した。半年前にはなかった技だ。
「もう一つ行くぞ」
ヴァンの体から放出される魔力が——急激に増大した。
空気が震えた。陽炎ではない。ヴァンの体そのものが赤く発光している。血管が浮き上がり、瞳が赤から白金色に変わる。
「燃焼加速」
体温の限界突破。自分の体内の火の脈動を極限まで速め、全身の温度を跳ね上げる。筋肉の反応速度が爆発的に上昇し、魔力の出力が倍以上になる。
三十秒の時限強化。それ以上続けたら——体が壊れる。
ヴァンが消えた。
いや——消えたのではない。速すぎて目で追えないのだ。
共鳴探知で足音を聴く。砂を蹴る音。右に——いや左。回り込んでいる。速い。速すぎる。
幻惑音響で偽の足音を右方向に生成——だがヴァンが動く方が速い。偽音の生成が間に合わない。
焔槍が連射される。一本。二本。三本。逆相障壁で一本目を消す。二本目を避ける。三本目が脇腹を掠める。また焼ける。
ヴァンが接近してきた。燃焼加速の速度で。手にはいつの間にか杖剣——細身の剣を持っている。白金色に発光する刃が振り下ろされる。
隕鉄の短剣で受けた。超音波斬を起動。刃と刃が噛み合う——だがヴァンの速度と出力に押される。腕が痺れる。
弾かれた。短剣が手から離れ、砂の上に転がった。
素手。
ヴァンの二撃目が来る。白金色の杖剣が喉を狙う。
避けた。だが三撃目。四撃目。全て燃焼加速の速度。反響定位も追いつかない。五撃目が胸を掠め、外套が焼ける。
——このままでは負ける。
ヴァンの速度に、俺の技は追いつけない。逆相障壁も幻惑音響も、速度で上回られたら意味がない。
だが——俺の耳は聴いている。
ヴァンの体の中で鳴っている音を。
共鳴探知が、燃焼加速の「内側」を聴き取っている。
心臓が限界を超えた拍動を刻んでいる。一分間に二百四十拍。常人の三倍。筋繊維が高温で焼け始めている。血管が膨張し、破裂しかけている。体の全ての組織が「もう無理だ」と悲鳴を上げている。
燃焼加速は——体を壊しながら動く技だ。三十秒という制限は「制限」ではない。「それ以上やったら死ぬ」という生命のリミッターだ。
ヴァンの拳が迫る。白金色の炎を纏った拳。当たれば——意識が飛ぶ。
俺は避けなかった。
拳の軌道の内側に、一歩踏み込んだ。拳が俺の頬を掠め——俺の掌がヴァンの胸に触れた。
「ヴァン。お前の体が悲鳴を上げてる」
「知っている。三十秒で決める。あと十五秒だ」
「十五秒後にお前が壊れるのを見てるわけにはいかない。——止める」
「何を——」
共鳴制御。
掌から、ヴァンの体内に振動を流し込む。
ノーラの雷を鎮めた時と同じ原理。だがノーラの雷は「外に放出される力」だった。ヴァンの燃焼加速は「体内で燃えている力」だ。外ではなく、内側を鎮めなければならない。
ヴァンの体内の火の脈動を聴く。一呼吸に三百二十拍——いや、燃焼加速中はさらに速い。四百拍を超えている。暴走寸前の速さ。
逆向きの脈動を生成する。四百拍の逆。体内の燃焼を「冷ます」振動。
だが——出力が足りない。ヴァンの火力は俺の魔力を遥かに上回っている。正面からぶつけても打ち消せない。
なら——共振を使う。
ヴァンの脈動のリズムに「ほんの少しだけズレた」脈動を重ねる。完全な逆向きではなく、微妙にズレた脈動。これが干渉を起こし、ヴァンの脈動のリズムを「崩す」。リズムが崩れれば、燃焼加速の「回転」が維持できなくなる。
水の入った椀を揺らす時、椀の揺れと少しだけズレたタイミングで揺らし返すと、水が暴れて椀から溢れる。同じ原理。大きな力を正面からぶつけなくても、リズムを崩せば——止まる。
ヴァンの体温が——下がり始めた。
白金色の光が揺らぐ。速度が落ちる。赤い瞳が戻ってくる。
「なっ——燃焼加速が……途切れ……?」
「お前の脈動のリズムを崩した。正面から消すんじゃなく、リズムを乱して”回転”を止めた。——お前の体を壊す前に」
ヴァンの膝が折れた。燃焼加速が途切れた反動で、全身の筋肉が弛緩する。杖剣が砂の上に落ちた。
「俺の……技を、止めた、のか」
「止めただけだ。消したんじゃない。手を離せばまた燃えるだろう。だがもう一度燃焼加速を使ったら、今度は本当に体が壊れる。——やめておけ」
俺も限界だ。共鳴制御を他属性の、しかも体内に使うのは初めてで、負荷が脳に直撃していた。鼻血が出ている。右腕の感覚がない。視界が揺れている。
二人とも砂の上に座り込んだ。
闘技場が——静まり返った。何が起きたのか、観客の大半が理解できていない。ヴァンが突然弱くなったように見えただろう。だが事実は逆だ。ヴァンは全力で、俺も全力で——俺の方が、一手だけ先に届いた。
「……引き分けか?」
ヴァンが息も絶え絶えに言った。
「いや。お前が先に膝をついた。俺の勝ちだ」
「屁理屈を言うな。お前も鼻血出てるだろう」
「鼻血は負けじゃない」
「……くだらない」
ヴァンが——笑った。
生まれて初めて見る、心からの笑い。退屈そうな仮面が剥がれ、その下にあったのは——十一歳の少年の、純粋な喜びだった。
「認める。お前の勝ちだ、セレン」
闘技場が——爆発した。歓声。拍手。足踏み。三層の観客席から降り注ぐ音の洪水。
俺はその音を聴きながら、ヴァンの手を握って立ち上がった。二人とも足が震えている。
「いい試合だった」
「ああ。——だがな、セレン」
ヴァンの目が真剣になった。歓声の中で、俺にだけ聞こえる声。
「お前が今使った力。“敵の技を止める”力。あれは対人戦において最強だ。俺の燃焼加速だけじゃない。理論上は、あらゆる魔法を止められる。——だがそれは同時に、最も危険な力でもある」
「危険?」
「権力者は、自分の力を”止められる人間”を放っておかない。軍の将が魔法を止められたら、軍は機能しなくなる。貴族の属性魔法を止められたら、権威が崩壊する。お前の力は——既存の秩序を”止める”力だ」
ヴァンの声が低くなった。
「軍も。貴族も。暗殺ギルドも。王宮も。全てがお前を欲しがるか、排除しようとするだろう。——覚えておけ、セレン。お前は今日、世界に”存在”してしまった」
その言葉の重さを、俺はまだ完全には理解していなかった。
だが——耳は覚えている。ヴァンの心拍が、警告の言葉を発した時だけ、いつもより速かったことを。
あれは——心配の音だ。




