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『音魔法はゴミ? いいえ、研究したら文明を揺るがす最強魔法でした』  作者: 白月 鎖
魔法学院編

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第82話「沈黙の狩人」



 動く日を決めた。


 一週間の追跡で、東棟地下の工作員の行動パターンは完全に把握した。毎晩午前二時に地下に降り、五分間の暗号打鍵を行い、地下の石の窪みに伝言物を置き、午前二時十分に使用人棟に戻る。通路は決まっている。東棟の裏口から地下への階段。


 そしてこの一週間で、打鍵パターンの一部を解読できた。


 全てではない。だが繰り返し使われる「単語」がいくつか読めた。


 名前だ。暗号の中に、複数の名前が登場する。


 一つ目。オルドリッジ。——学院長の姓だ。


 二つ目。読みにくい。だが文脈から推測すると——「宮廷」を意味する古い暗号。宮廷魔法局か。王宮の誰かか。


 三つ目。これが最も頻繁に出てくる。だが人名ではない。「封」と「門」を組み合わせた暗号。封門? 何かの施設か? 封印に関する何か——?


 背筋が冷えた。


 工作員一人が追っている情報の規模ではない。学院長、宮廷、そして「封印」に関わる何か。この男は——厨房の雑用係に化けた下っ端だ。下っ端がこれだけの大物の名前を扱っているということは、組織全体はもっと上を見ている。


 俺がエルデ教官との研究で騒いでいるレベルの話ではなかった。


 もっと大きな——もっと深い闇がある。


 だが今夜の目的は変わらない。この工作員を放置すれば、情報が流れ続ける。止める。


 今夜。


 アルトは隣で眠っている。仲間には何も言っていない。確証がなかったからだ。だが今夜で決着をつける。


 午前一時四十五分。ベッドを抜け出し、窓から外に出た。男子学生棟の三階だが、壁の凹凸に足をかければ降りられる。足音は当然、ノイズキャンセリングで消す。


 出る前に、中庭越しに女子棟の方角を見た。ノーラとセラの部屋の窓は暗い。寝ている。いい。今夜のことは知らせない。


 夜の学院。月明かりが石畳を白く照らしている。夜警は反響定位で位置を把握済み。巡回ルートの隙間を縫って移動する。


 東棟の裏口に到着。音紋標識がここに仕掛けてある。反応——まだ来ていない。


 壁に背をつけ、待つ。全ての出力を切る。反響定位も切る。音を出さない。呼吸を極限まで浅くし、心拍を意識的に落ち着かせる。


 そして——松明を消した。裏口の壁に掛かっていた松明の火を、息で吹き消す。通路が完全な暗闇に落ちる。


 暗闇の中で、俺は「見える」。反響定位がなくても、足音と呼吸と衣擦れで空間を把握できる。だが相手は見えない。


 これで条件が揃った。俺は見えるが、相手は何も見えない。


 グレンに教わったことを思い出す。「沈黙の中で聴け」。


 闇の中で、耳だけが冴えている。


 午前一時五十八分。


 足音が聴こえた。


 規則正しい。等間隔。訓練された歩行。石畳を踏む音が、一歩ごとに完璧に同じ強さ。


 足音が近づく。東棟の裏口に。


 男が扉を開けた——そして気づいた。松明が消えている。


 足音が一瞬止まった。警戒。だが数秒後、再び動き始めた。「風で消えたか」と判断したのだろう。男は懐から火打ち石を取り出す気配がした。


 出させない。


 男が火打ち石を打つ前に——筋弛緩波。


 闇の中から、音だけが走った。男の全身に向けて、超低周波を放射する。


 男の手から火打ち石が落ちた。指が動かない。腕が垂れる。膝が折れる。体が崩れ落ちる——俺は倒れる体を片手で支えて、音を立てずに横たえた。


 完全な暗闇。男には何も見えない。何が起きたかもわからない。ただ突然、体が動かなくなった。暗闇の中で倒れている。恐怖で心拍が跳ね上がるが、声が出ない。喉の筋肉も弛緩している。


 俺は男の手首に触れた。


 共鳴探知で体内を読む。心拍、呼吸、魔力の脈動パターン。暗闇の中で、音だけで男の全てを「聴く」。


 声は出さない。矢文も使わない。質問すらしない。


 代わりに——知りたいことを、別の方法で読む。


 共鳴探知で男の魔力パターンを深く読み込む。魔力の脈動には「記憶」がある。繰り返し行った行動は、魔力の流れに癖として残る。打鍵の指の動きも、壁を叩く振動パターンも、男の体に染みついている。


 ——読めた。


 打鍵の暗号パターン。男の指の筋肉に刻まれた「癖」として。何度も繰り返した暗号の「型」が、指の腱の振動パターンに残っている。全てではないが——よく使う暗号の断片が読み取れた。


 エルデの名前。「監視継続」。「先生」への報告済みの合図。「学院内に他の目あり」。


 十分だ。


 声を出す必要はなかった。質問する必要もなかった。男の体が全てを教えてくれた。


 ——この男をどうするか。


 男は俺を見ていない。暗闇だ。顔も知らない。声も聞いていない。誰に襲われたか、まったくわからない。


 だが逃がせば、ギルドに「学院内の工作が何者かに妨害された」と伝わる。警戒が上がる。次はもっと慎重な手段で来る。


 完全に無力化する必要がある。


 男の首筋に掌を当てた。


 震孔掌——の弱い版。首の浅い位置にある魔力の出口を、微弱な振動で押す。脳への血流が一瞬途切れる。


 男の意識が落ちた。深い昏睡。


 男がこの地下に持ち込んでいた物を調べる。


 共鳴探知で男の衣服の内側を聴く。胸元の内ポケットに——小さな短剣が一本。暗殺者の護身用。それと、暗号表を記した薄い革片。間諜の命綱だ。


 全て抜き取った。短剣、暗号表、そして地下の石の窪みに置いたばかりの伝言物。


 次に、男の体を地下倉庫の奥の木箱の隙間に運んだ。音を立てずに。呼吸は安定している。命に別状はない。


 ここからが「警告」だ。


 男の胸の上に、抜き取った短剣を置いた。刃を首の方に向けて。「殺せたが、殺さなかった」という意味だ。間諜の世界でこの置き方をされたら——次はない、という警告になる。グレンが話してくれたことがある。「本当に怖い相手は、殺す奴じゃない。殺せるのに殺さなかった奴だ」と。


 短剣の横に、暗号表の革片を広げて置いた。「お前の暗号は全て把握した」という意味。


 その上に、伝言物の紙片を重ねた。「お前の連絡先も把握した」という意味。


 最後に。男が壁を叩いていた暗号の「型」——繰り返し使われていた打鍵パターンを、俺は指の腱の癖から読み取っている。その中で最も頻出していたパターンを、地下の石壁に小さく刻んだ。震破の精密版で、石に爪痕ほどの溝を彫る。


 男がこの暗号パターンを見れば——「自分の暗号が解読されている」と即座に理解する。全ての暗号が無効化された。もうこの系統の暗号は使えない。使えば、その先にいる全員が危険に晒される。


 間諜にとって、これは「死刑宣告」よりも恐ろしい。暗号を破られた工作員は、味方からも「汚染された駒」として切り捨てられる。ギルドに帰っても居場所がない。


 痕跡を確認する。足音はノイズキャンセリングで消してあった。触れた場所に血はない。引きずった跡は木箱をずらして消した。松明は——風で消えたことにしておく。


 男は俺の顔を見ていない。声を聞いていない。暗闇の中で突然体が動かなくなり、気を失った——それだけの記憶しか残らない。目覚めた時に自分の胸の上にあるものを見て、初めて「何が起きたか」を悟るだろう。


 悟った時、この男は逃げる。学院からも、ギルドからも。暗号を破られた間諜に「戻る場所」はないからだ。


 闇の中で、俺は通路を戻った。足音はない。呼吸は浅い。


 ——この男が目覚めた時、何を思うか。


 おそらく、こうだ。


 男は木箱の隙間で目を覚ます。体は動く。筋弛緩波の効果は既に切れている。痛みもない。怪我もない。


 だが胸の上に——自分の短剣が、刃を首に向けて置かれている。


 その横に、自分の暗号表が広げられている。


 その上に、さっき自分が置いたばかりの伝言物が重ねられている。


 そして壁に、自分しか知らないはずの暗号パターンが刻まれている。


 男は全てを理解する。


 (殺せたのに、殺さなかった。暗号を読まれた。連絡先も把握された。全てが筒抜けだ。……誰だ。何者だ。見えなかった。声もなかった。気配もなかった。何も知覚できなかった。ただ——暗闇の中で、全てを奪われた)


 (暗殺にこれほど向いている手口もない。音もなく、光もなく、痕もなく。殺さずに「終わらせる」。……恐ろしい。こんな相手がこの学院にいるのか。いや——いるのかどうかすら、わからない。何もわからない。ただ——もうここにはいられない)


 男は逃げるだろう。学院からも、ギルドからも。暗号を破られた駒に、居場所はない。



 翌朝。食堂。


 何事もなかったかのように朝食を取った。


「セレン、昨日よく寝れたか?」


「ああ、ぐっすり」


 アルトに嘘をついた。仲間を不安にさせたくない。


 厨房に目をやる。雑用係の男の姿が——ない。昼近くになって、使用人頭が「あの男が無断欠勤した」とぼやいているのが聞こえた。地下倉庫で目を覚まし、そのまま荷物もまとめず学院を出たらしい。「夜逃げだな」と使用人たちが首をかしげている。


 誰も本当の理由を知らない。厨房の雑用係が一人逃げた。それだけの出来事。


 研究ノートに記録する。


 《暗殺ギルド・学院内工作員》

 暗号から読み取れた名前:「オルドリッジ」(学院長)、「宮廷」関連の暗号、「封門」(封印? 意味不明)

 → 標的が単独の人物ではなく、国家規模の何かに関わっている可能性。下っ端の工作員がこの規模の情報を扱っている=組織全体はさらに上を見ている

 確認済み工作員:厨房雑用係の男(排除済み。完全暗闇で制圧。間諜の作法に則った警告を残す。暗号解読済みを通知。翌朝、男は学院から逃走。痕跡なし。本人は誰にやられたか一切不明)

 本棟三階からの暗号打鍵:フィン=ロスヴァインの部屋の方向。工作員の指の癖から「学院内に他の目あり」の暗号を読み取り済み

 「先生」という指揮者の存在:確認。工作員は「先生」を極度に恐れていた

 学院内の他のギルド要員:存在する。人数不明

 → ミーシャ=トルネは? 不明。保留。

 → 「封門」とは何か。調べる必要がある——が、深入りすべきか?

 → 回収した伝言物と暗号表は保管。今後の解読に使える


 ペンを置く。


 一人の工作員を、誰にも気づかれず追い出した。男は俺の顔を見ていない。声を聞いていない。何属性の誰にやられたかも知らない。知りようがない。


 だが——俺自身は知っている。


 今夜、俺がやったこと。足音を消し、気配を消し、闇の中で体を止め、間諜の居場所を奪い、痕跡を消した。


 暗殺だ。


 音魔法は暗殺に向いている。俺自身がそれを証明してしまった。


 ——使い方を、間違えるな。


 今夜の力は、学院にいる誰かを守るために使った。それだけは確かだ。


 だが——力を持つことと、力を正しく使うことは、別の問題だ。


 低周波威圧を手に入れた時にも同じことを思った。ノーラが「怖い」と言った時にも。


 次も正しく使えるか。その次も。そのまた次も。


 研究ノートを閉じた。


 窓の外では、何も知らない学院の朝が始まっている。

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