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『音魔法はゴミ? いいえ、研究したら文明を揺るがす最強魔法でした』  作者: 白月 鎖
王都編

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第98話「見えない壁」

三日目の猶予が切れた。


 ディルクからの返事はない。枕元に置いた通信石は沈黙したまま。ミーシャを返す気はない、ということだ。


 代わりに——新しい敵が来た。



 十七日目の夜。リッカの廃屋でミーシャの風の暗号を待っていた時、異変に気づいた。


 音紋標識のネットワーク。六十三個。王都全域をほぼ網羅している。その六十三個の標識が——一つも反応しない区画がある。


 スラム街の北端。リッカの廃屋の周囲三十歩の範囲。さっきまで標識が拾っていた野良犬の足音も、風に揺れる洗濯物の音も、下水路を流れる水の音も——消えている。


 音が消えた。


 自然現象ではない。六十三個の標識が同時に沈黙するのは、標識自体が壊されたのではなく——標識の周囲の「音そのもの」が消されたのだ。


 ノイズキャンセリングと同じ原理。誰かが、この区画全体の音を打ち消している。


 いや——違う。ノイズキャンセリングは「特定の音に逆位相をぶつけて消す」技だ。区画全体の全ての音を同時に消すのは、ノイズキャンセリングでは不可能。


 これは——「音を吸い込んでいる」。


 隠形術の究極形。自分の音を消すだけでなく、周囲の音そのものを「吸収」して無音空間を作る。その無音空間の中にいれば、反響定位も共鳴探知も届かない。音が存在しない空間では、音魔法は無力だ。


 ——俺の天敵が来た。



 リッカが隣で寝ている。起こすべきか。いや、起こさない方がいい。リッカが動けば振動が増える。今は——静かに聴く。


 完全消音を起動した。俺自身の音を全て消す。


 そして——反響定位を止めた。音を出す技は全て止める。


 聴くだけ。受動的に。環境に存在する音だけを拾う。


 無音空間の「境界」が聴こえた。


 普通の空間と無音空間の境目には、微かな「段差」がある。音がある世界と音がない世界の境界線。その境界を音が通過する瞬間に、微弱な歪みが生じる。波が壁にぶつかった時の反射と同じだ。


 境界の位置を聴き取る。俺の周囲三十歩に、円形の無音領域が広がっている。そして——その無音領域が、ゆっくりと狭まっている。


 近づいてきている。


 無音空間の中心にいるのは——一人。心拍は聴こえない。呼吸も聴こえない。音が存在しない空間の中では、心拍も呼吸も音としては存在しない。


 完全なる不可視。音で「見る」俺にとって、この相手は——透明人間だ。


「……すごいな」


 思わず声が漏れた。小さな呟き。だが完全消音で俺の声は外に出ない。


 この相手をどうするか。


 音が使えないなら——音以外を使う。


 窓から外を見た。月明かり。目で見る。俺の視力は普通だ。暗闇では音に頼る。だが月明かりがあれば、目で見える。


 路地の向こうに——何も見えない。当然だ。隠形の達人だ。目でも見えない。


 だが一つ、見えるものがある。


 月明かりが石畳に落ちている。石畳の上を何かが横切れば、影ができるか、あるいは月光が遮られる。


 ——見えた。


 路地の端。石畳の上の月光が——ほんの一瞬だけ、揺れた。何かが光を遮った。人間の体が。


 一瞬。だが十分だ。方向がわかった。北東。距離は——無音空間の境界の縮小速度から計算して——約十五歩。


 音が使えないなら、音以外で戦う。


 だが——待て。本当に音は使えないのか。


 無音空間の原理を考える。この空間は「音を吸収する」。音が吸い込まれ、消える。反響が返ってこない。だから反響定位が無力。


 だが「吸収」には限界があるはずだ。


 コップ一杯の水は、水滴を何滴でも吸い込める。だがコップが一杯になれば溢れる。無音空間も同じだ。吸収できる音の量に限界がある。


 もし——限界を超える量の音を叩き込んだら?


 震破。俺の最も基本的な攻撃技。圧縮した振動を一気に解放する衝撃波。


 出力を最大にして、無音空間の中に叩き込む。吸収しきれない量の音を一度に。


 コップに蛇口から水を全開で注ぎ込むようなもの。溢れるか、コップが壊れるか。


 ——だがリッカが隣にいる。震破を最大出力で撃てば、リッカも巻き込む。


 リッカを起こした。小さく肩を揺する。


「……ん。なに」


「静かに。敵が来てる。窓から出ろ。三十歩離れたら安全だ。走れ」


 リッカの目が一瞬で覚めた。スラムの子供は危険に対する反応が速い。質問せずに窓から飛び出し、屋根の上を猫のように走っていった。


 一人になった。



 廃屋の二階に立つ。窓は開けたまま。月明かりが入っている。


 無音空間がさらに狭まった。十歩。五歩。


 相手が廃屋の中に入ってきた——はずだ。音は聴こえない。だが月光の揺れが、窓から差し込む光の中に見えた。一階の入口。階段を上がってくる。


 階段を上がる足音が——聴こえない。当然だ。無音空間の中では足音も存在しない。


 だが階段の「板」は物理的に存在する。踏めば、板が撓む。撓みは振動だ。振動は——


 いや。無音空間の中では振動そのものが「吸収」されるのか?


 実験。階段の板の振動を聴く——聴こえない。やはり吸収されている。


 相手が二階に上がってきた。目の前に——何も見えない。月光が窓から差しているのに、人影が見えない。闇に溶け込んでいる。


 だが「月光の遮り」は見える。窓からの光の筋が、部屋の中央で一箇所だけ途切れている。人間の体が光を遮っているのだ。


 距離四歩。正面。


 俺は口を開いた。完全消音を解除して。


「三歩前。正面。右手に短剣。左手は空。心拍は聴こえないが——呼吸はしている。月光の揺れでわかる。お前の体が空気を動かすたびに、光の筋が微かに揺れるからだ」


 無音空間の中から——声が返ってきた。


 低い女の声。驚愕を押し殺した声。


「……見えているのか。この『静寂の帳』の中で」


「音では見えない。お前の術は見事だ。音を完全に吸収する無音空間——俺の反響定位を完全に封じた。初めてだ。音魔法を使って以来、音で”見えない”相手は初めてだ」


「だが——見えているのか」


「目で見ている。月光の遮りと空気の揺れで。音が使えないなら、目を使えばいい。——だが正直に言う。お前の術は、俺が今まで遭遇した中で最も厄介だ」


 沈黙。無音空間の中の沈黙は、通常の沈黙とは質が違う。一切の音がない。虫の羽音も、風の音も、自分の心臓の音も。完全な「無」。


「……お前が”音の狩人”か」


「そう呼ばれているらしいな」


「“蝕”のカイラ様から直接命じられた。“音の狩人”を止めろと。——私は”蝕”の隠形の達人だ。音を消すのではない。音を”喰う”。この『静寂の帳』の中では、お前の音魔法は一切機能しない」


「その通りだ。俺の音魔法は今、機能していない」


「なら——」


 短剣が動いた。月光の遮りが変形する。突進。


 俺は横に跳んだ。目で見て避ける。音魔法なしの、純粋な体術。アルトとの組手で鍛えた反射神経。


 短剣が壁に突き刺さる。外れた。


 だが——相手も速い。即座に体勢を立て直し、二撃目が来る。


 避ける。三撃目。避ける。四撃目——かすった。左腕の外套が裂ける。


 音魔法なしでは、俺の戦闘力は平凡だ。筋弛緩波も、指向性衝撃波も、逆相障壁も——全て「音」を媒介にしている。音が存在しない空間では何も使えない。


 隠形の達人は知っている。だからこの空間を作った。俺の唯一の弱点を突いている。


 ——だが。


 弱点を突かれた時、新しい強さが生まれる。いつもそうだった。


 Cランク試験でヴァンの熱の領域に反響定位を歪められた時、高温補正モードを作った。学院でフィンの闇に音を吸われた時、沈黙の中で聴く術を学んだ。


 今回は——「音がない空間」で何ができるか。


 音がない。だが振動はある。


 音は「空気の振動」だ。無音空間は「空気の振動」を吸収する。だが——「固体の振動」は?


 床板に手を触れた。


 床板を通じて、振動を送る。空気ではなく、木の板を媒質にした振動。無音空間は空気中の音を吸収するが、固体を通る振動までは吸収できないかもしれない。


 振動が——通った。


 床板を通じて、相手の足の位置が「感じられた」。木の板の上に立つ人間の体重が、板を撓ませている。その撓みの位置と大きさが振動として伝わってくる。


 アルトの土の感知と同じ原理だ。アルトは地面を通じて敵の足の位置を感じ取った。俺は床板を通じて感じ取っている。


 相手の位置。正面やや右。距離三歩。右足に重心。次の動きは——右足を軸にした右からの斬撃。


「——見えた」


 五撃目が来た。右からの斬撃。予測通り。


 左に半歩ずれる。短剣が空を切る。


 俺の右手が相手の手首を掴んだ。


 接触。固体を通じた振動なら——使える。


 掌から直接、相手の体に震孔掌の弱い版を流し込む。空気を介さず、直接接触で。


 相手の手首の魔力の出口が「揺れた」。握力が消え、短剣が手から落ちた。


 同時に——左手で相手の胸を押した。もう一発。胸の浅い位置の魔力の出口を振動で押す。全身の力が抜ける。


 相手が崩れ落ちた。


 無音空間が——消えた。


 術者が意識を保てなくなったことで、『静寂の帳』が解除された。音が戻ってきた。風の音、虫の羽音、遠くの酒場の笑い声。世界に音が満ちる。


 反響定位が復活する。部屋全体が「見える」。


 床に倒れている人間。女。三十代。黒い装束。顔を覆っていた布がずれ、素顔が見えた。鋭い目。だが今は焦点が合っていない。意識が朦朧としている。


 共鳴探知で体内を読む。心拍四十八。訓練された低心拍。だが今は——衝撃で乱れている。


「お前の『静寂の帳』は見事だった。俺の音魔法を完全に封じた。——初めてだ」


 女の唇が動いた。声がかすれている。


「……なぜだ。音を封じたのに……なぜ勝てる」


「音が消えても、振動は消えない。お前は空気中の音を吸収した。だが床板の振動は吸収できなかった。——俺は音の使い手だが、音だけの使い手じゃない。振動の使い手だ。空気がなくても、固体があれば戦える」


 女が目を閉じた。


「……暗殺にこれほど向いている人間を、見たことがない。音を封じてなお勝つ。——恐ろしい子供だ」


「お前の”静寂の帳”。あの技、もう少し聴かせてくれないか」


「……何?」


「お前の術の原理を知りたい。音を吸収する仕組みを。——戦いは終わった。教えてくれとは言わない。だが、さっきの術をもう一度展開してくれたら、俺の共鳴探知で原理を”聴ける”」


 女が呆れた顔をした。


「……倒した相手に、技を教えてくれと頼む暗殺者がいるか」


「俺は暗殺者じゃない。研究者だ。——たまたま暗殺者を狩っているだけで」


 女が——笑った。小さく、だが確かに。


「……狂っている」



 女は技を見せてくれなかった。当然だ。だが俺の共鳴探知は、戦闘中に「静寂の帳」の境界面の振動特性を聴き取っている。


 原理はわかった。空気中の振動を「逆位相」ではなく「位相拡散」で無効化している。逆位相は特定の音に対して特定の逆音をぶつける。位相拡散は、空間全体の振動の「位相」をランダムに乱す。乱された振動は互いに干渉し合い、打ち消し合う。結果として空間全体が無音になる。


 俺のノイズキャンセリングは「逆位相」だから一つの音しか消せない。だが「位相拡散」なら——空間全体の音を消せる。


 完全消音の進化版。自分の周囲に「静寂の帳」に似た無音領域を作れるかもしれない。


 研究ノートに記録する。


 《十七日目》

 隠形の達人が来た。「静寂の帳」——空気中の音を位相拡散で完全吸収する無音空間。

 俺の音魔法を初めて完全に封じた相手。反響定位も共鳴探知も使えなかった。

 → だが「固体を通じた振動」は吸収されない。床板を通じた感知で対応。接触からの震孔掌で制圧。

 → 「音がなくても振動がある」。媒質が空気でなくても戦える。新しい次元の発見。

 

 「静寂の帳」の原理を解析。位相拡散による空間全体の無音化。

 → これを音魔法に取り込めば、「完全消音」のさらなる進化が可能。自分だけでなく、空間全体の音を消せる。

 → 戦術利用:味方が戦闘中に、特定の区画の音を消して暗殺者の連携を断つ。

 → だがこの技は自分の音魔法も封じる。使用中は俺も「音なし」で戦う必要がある。諸刃の剣。

 

 女は「蝕」の隠形の達人。カイラの直接命令で来た。

 → カイラが本腰を入れ始めた。末端ではなく精鋭を送ってきた。次はさらに強い相手が来る。


 ペンを置いて、窓の外を見た。月が沈みかけている。


 耳掛けに囁く。女子棟へ。


 ——戻る。今夜は厄介な相手が来た。でも勝った。


 窓枠。二回。ノーラ。


 三回。


 一回。


 光。セラ。


 学院の男子棟に戻り、ベッドに倒れ込んだ。左腕の外套の裂け目から、微かに血が滲んでいる。浅い傷。明日、セラに治してもらおう。


 アルトが寝息を立てている——ふりをしている。心拍が起きているパターンだ。


「……寝ろ、アルト」


「お前が先に寝ろ」


「……おう」


 目を閉じた。


 暗闇。音のない空間の記憶が甦る。あの「完全な無」の感覚。音魔法が使えない恐怖。


 だが——音がなくても、振動がある。空気がなくても、大地がある。


 俺の力は「音」だけじゃない。「振動」だ。この世界のあらゆるものが振動している。空気も。水も。大地も。人の体も。


 振動がある限り、俺は戦える。


 ——眠ろう。明日も忙しい。

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