第96話「覚醒」
二日目の夜に来た。三日待たなかった。
◇
その日の午後は穏やかだった。
エルデ教官の講義を受け、訓練場でアルトと軽く組手をし、セラと振動治療の精度を確認した。ノーラは女子棟で雷の自律制御の訓練を続けている。
夕方。四人で学院の食堂で夕食を取った。
「ヴァンに連絡は取れたの?」
「ああ。学院の伝言板に手紙を残した。ヴァンは休暇中、実家に帰ってるはずだが——あいつなら、面白い話には乗ってくる」
「リオとガルドは?」
「リオは学院にいる。講義に出てる。ガルドも。——明日、二人に話す」
普通の会話。普通の夕食。
食堂を出て、中庭を歩いている時だった。
日が沈みかけている。空が橙から紫に変わる時間。中庭の噴水が夕日を反射してきらめいている。
俺はノーラとセラの女子棟を見送るために、中庭を横切っていた。アルトは先に男子棟に戻っている。
ノーラが女子棟の入口で手を振った。セラが「おやすみなさい」と小さく頭を下げた。二人が女子棟の扉を開けた。
その時——
俺の耳が捉えた。
中庭の植え込みの裏。心拍が三つ。いや四つ。五つ。
全て安静時心拍五十台。訓練された人間。
いつからいた? 反響定位は切っていた。音紋標識は中庭に仕掛けていない——学院の中は安全だと思っていたから。
——油断した。
五つの心拍が、同時に「加速」した。五十から百へ。安静から戦闘態勢への切り替え。筋肉が動き始める振動。武器を抜く金属音——五つ同時に。
「伏せろ!!」
叫んだ。
だが遅い。
植え込みの影から、暗器が飛んだ。五方向から。俺、ノーラ、セラに向かって。
反射的に逆相障壁を展開——一本の暗器の軌道を逸らす。だが同時に五本来ている。一本しか消せない。
ノーラが雷を纏って横に跳んだ。暗器が一本、ノーラの髪を掠めて壁に刺さる。
セラが——
防壁を展開しようとした。杖を構えた。だが間に合わない。暗器が二本、セラに向かっている。一本は杖で弾いた。もう一本が——
セラの右肩に刺さった。
短い悲鳴。杖が手から落ちた。膝が折れる。
「セラ!!」
走った。セラの横に滑り込む。暗器を抜く——刃先が紫色に変色している。呪毒。
「呪毒だ! セラ、自分に浄化を——」
「やって……います……っ」
セラの右手が光っている。浄化の光が傷口を包んでいる。だが呪毒の浸入が速い。傷口の周囲の皮膚が黒ずんでいく。
振動治療。俺の振動でセラの浄化を底上げする。左手をセラの肩に当て、振動を流し込む。浄化の光が強くなる。黒ずみの拡大が止まった。
だが——敵はまだいる。
五つの心拍。植え込みから飛び出してきた。黒い装束。顔を布で覆っている。短剣を手にしている。
暗殺者。五人。学院の中庭に。
一人が俺に向かって走ってくる。二人がノーラに。二人がセラに。——回復役を先に潰す。暗殺の定石。
「ノーラ! 右と左から二人来る!」
「見えてる!」
ノーラの雷鎖が走る。右の暗殺者に巻きつく。だが左の暗殺者が雷鎖をくぐり抜けて接近する。短剣が閃く。ノーラが後退する。
セラに向かう二人。セラは右肩を押さえて膝をついている。防壁を張る余裕がない。
——俺しかいない。
◇
体の中で、何かが切り替わった。
カチ、と。回路が閉じるように。
今まで「研究」だった。「調査」だった。「情報収集」だった。敵を追い、情報を集め、糸を辿り、作戦を立てる。頭脳の仕事。
だが今——セラの肩から血が出ている。呪毒が浸入している。ノーラが短剣をかわしながら後退している。
仲間が傷ついている。
——もう待たない。探さない。
**狩る。**
全技術を同時に起動した。
反響定位——中庭全体を完全把握。五人の暗殺者の位置、速度、武器、心拍。そして学院の建物から出てくる人間がいないことも確認。この中庭に、味方はノーラとセラと俺だけ。
音の結界——俺とセラの周囲五歩に展開。この中の音は外に漏れない。外の音は聴こえる。
耳掛け通信でノーラに。
——ノーラ、右の一人は雷鎖で拘束済み。左の一人は任せた。殺すな、止めろ。
「わかってるわよ!」
ノーラの落雷が左の暗殺者の足元を打つ。地面が弾け、暗殺者が体勢を崩す。
残り三人。セラに向かう二人と、俺に向かう一人。
俺に向かう一人——無視する。
先にセラを守る。
セラに迫る二人に向けて、筋弛緩波を放った。喉の魔孔から超低周波を生成、二人の全身に向けて放射——
一人目の体が崩れた。膝が折れ、短剣が手から落ちる。声が出ない。
だが二人目が——筋弛緩波の範囲の外にいた。走る角度が違う。セラに対して挟み撃ちの位置に展開している。プロの配置だ。
二人目がセラに迫る。短剣が振り下ろされる。
——指向性衝撃波。
右手の指先から、目に見えない音の針を射出した。空気を裂く振動。暗殺者の短剣を持つ右手の手首に命中。
手首の腱が衝撃で痺れ、短剣がすっぽ抜けた。
「なっ——!」
暗殺者が驚愕する。何が起きたかわからない。手首に外傷はない。だが短剣が握れない。
二発目。指向性衝撃波。今度は暗殺者の右膝に。膝の腱が痺れ、脚が折れる。地面に崩れ落ちた。
残り一人。俺に向かっていた暗殺者。
振り返る。暗殺者が三歩先にいる。短剣が俺の喉を狙って突き出されている。速い。プロの突き。
だが——「見えている」。
共鳴探知で暗殺者の腕の筋肉の動きを聴いている。短剣を突き出す瞬間の、筋繊維の収縮パターン。軌道が「聴こえる」。
半歩横にずれた。短剣が俺の首の横を通過する。風圧が頬を撫でる。
暗殺者の驚愕の心拍——百七十。
俺の掌が暗殺者の胸に触れた。
震孔掌——の、弱い版。胸の浅い位置にある魔力の出口を振動で押す。全身の力が抜ける。膝が折れ、地面に崩れ落ちる。意識はある。だが体が動かない。
三人、倒した。
ノーラが左の暗殺者を雷鎖で拘束し終えた。右の暗殺者は最初の雷鎖で既に拘束済み。
五人。全員倒した。
最初の暗器が飛んでから——約三十秒。
◇
セラの治療を急いだ。
呪毒の暗器を抜いた傷口に、振動治療を施す。セラの浄化と俺の振動を重ねて、呪毒を内側から押し出す。
「セラ、痛みは」
「大丈夫……です。浄化が間に合っています。呪毒は……深くまでは入っていない」
黒ずみが薄れていく。浄化が勝っている。間に合った。
だが——間に合わなかった可能性が、頭の中を走り抜けた。暗器があと三寸ずれていたら、首に刺さっていた。セラは死んでいたかもしれない。
右肩の傷口を布で押さえながら、セラが俺を見上げた。
「セレンさん。——あなたの目が、変わっています」
「……何が」
「さっきまでの目と違います。研究者の目じゃない。——でも、怖い目でもありません。ただ——」
セラが言葉を探した。
「覚悟を決めた人の目です」
◇
暗殺者五人を拘束した。ノーラの雷鎖で全員を縛り、中庭の隅に並べた。学院の教官に引き渡す前に——情報を取る。
五人の暗殺者の喉に、振動読みを向けた。
声は出させない。筋弛緩波で喉の筋肉を弛緩させてある。だが喉の声帯は——「話そうとする」だけで動く。
一人目の喉の振動。
(任務失敗だ。五人で同時に仕掛けて、一人も仕留められなかった。あの少年——何が起きた? 暗器が逸れた。筋肉が動かなくなった。目に見えない何かで手首を打たれた。——音だ。音で全てをやった。報告しなければ。だがどうやって。体が動かない)
二人目。
(“先生”に報告できない。失敗した。“蝕”では失敗は——死を意味する。殺してくれ。この子供に殺される方がまだいい。“先生”に始末されるよりは)
三人目。
(噂は本当だった。“音の狩人”。闇の中でも見える。隠れても聴こえる。暗器を消し、筋肉を止め、一秒で制圧する。——人間じゃない。こんな相手と戦えるわけがない)
四人目。
(指示は”先生”から直接来た。「学院の中庭で仕掛けろ。拠点の外なら油断している」。——油断していなかった。五人同時攻撃を三十秒で返された)
五人目。
(……あの子供の目を見た。短剣をかわした瞬間の目。怒っていなかった。冷静だった。冷静に——俺たちを「処理」していた。暗殺者を、暗殺者より冷静に処理する子供。……恐ろしい)
十分だ。
五人全員の思考を読み取った。得られた情報——ディルクが直接指示を出した。「学院の中庭で仕掛けろ」と。三日の猶予を待たず、二日目で報復を仕掛けてきた。
そして暗殺者たちの心に残ったもの。恐怖。「音の狩人」への恐怖。
——この恐怖が、「蝕」の中に広がる。この五人がギルドに「帰れた」として(帰れないかもしれないが)、彼らが語る恐怖が、末端から中間層に伝染する。
音の狩人。五人の暗殺者を三十秒で制圧した子供。
◇
ヴィルマ教官が駆けつけた。
中庭の騒ぎを聴きつけたのか、それとも——最初から見ていたのか。元Aランク冒険者の表情は読めない。
「暗殺者か」
「五人。全員拘束しました」
「セラの怪我は」
「右肩に呪毒の暗器。浄化で対処済みです。深くは入っていません」
ヴィルマがセラの傷を確認した。浄化の光が傷口を覆っている。出血は止まっている。
「……よく対処した。——だがセラ。お前、前に出ただろう」
「はい。防壁を張ろうとしましたが、間に合いませんでした」
「前に出なければ、暗器は届かなかった。後方にいれば」
「後方にいたら——セレンさんに暗器が当たっていました」
セラの声が静かだった。
ヴィルマが黙った。長い沈黙。
「……お前の判断は正しい。前に出て味方を庇う判断は、回復術者としては間違いだ。だが——人間としては正しい」
ヴィルマの声に、かすかな温かさがあった。
「聖盾を完成させろ、セラ。お前の”守る”は、もう聖典の枠に収まらない。枠を超えた”守り”を——お前自身の手で定義しろ」
◇
夜。男子棟の自室で、研究ノートを開いた。
手が震えている。
三十秒の戦闘で五人を倒した。指向性衝撃波を実戦で初使用した。振動読みで敵の思考を読んだ。全て冷静にやった。
だが——今になって震えている。
セラが刺された。右肩に暗器が刺さった。血が出た。セラが膝をついた。
あと三寸で首だった。
俺がもう少し早く心拍の変化に気づいていれば。中庭に音紋標識を仕掛けていれば。油断しなければ。
——もう二度と、仲間を傷つけさせない。
研究ノートに書く。手が震えている。だが字は書ける。
《十二日目。ディルクの報復。学院の中庭に暗殺者五名。
セラが右肩に呪毒の暗器を受けた。浄化で対処。命に別状なし。
五名を三十秒で制圧。新技「指向性衝撃波」を実戦使用。
振動読みで暗殺者の思考を聴取。ディルクが直接指示を出していた。
——セラが傷ついた。
もう待たない。守るだけでは足りない。
「蝕」を壊す。
学院の中庭にも音紋標識を仕掛ける。もう死角は作らない。
明日から本格的に動く。ディルクの三日の猶予を待たない。
こちらから仕掛ける。こちらのペースで。こちらの土俵で。
俺は狩人だ。
暗殺者を狩る者だ。》
ペンを置いた。手の震えが止まった。
窓を開けて、耳掛けに囁いた。
——セラ、肩の調子はどうだ。
数秒後。防壁の光が灯った。いつもの一瞬ではなく、長く、穏やかに光り続けた。
「大丈夫です」の意味だと——今度は勝手な解釈ではなく、確信を持って受け取った。
——おやすみ。明日から忙しくなる。
窓枠を叩く音。二回。ノーラの「聞こえた」。
そしてもう一回。力強い一回。
——何の合図だろう。今までの暗号にない一回叩き。
だが意味はわかった。
「行こう」だ。




