第93話「先生の居場所」
十日目。糸が繋がった。
洗濯屋の地下室を三日間監視し続けた。工作員が訪れるたびに、振動読みで会話を壁越しに聴き取る。断片的な情報が蓄積されていく。
「先生」の行動パターン。三日に一度、洗濯屋の地下室に報告が届く。報告は口頭ではなく、紙片。工作員が地下室の石壁の窪みに紙片を置き、翌日には紙片が消えている。誰かが回収している。
回収する人間を特定するために、地下室の壁に音紋標識を仕掛けた。夜間に潜入し、共鳴解錠で入口を開け、地下室の石壁の窪みの横に微弱な標識を一つ。
そして十日目の朝。標識が反応した。
午前四時。夜明け前。誰かが地下室に入り、石壁の窪みから紙片を回収した。足音は——女。軽い。若い。革底の靴。
変声術の少女だ。
音紋標識が少女の足音を追跡する。洗濯屋を出て、スラム街を北に抜け、商業区を横切り——王都の西区に入った。
西区。中流階層の住宅街。スラムではないが貴族街でもない。目立たない場所。
足音が西区の路地を三つ曲がり、煉瓦造りの二階建ての建物の前で止まった。扉を叩く音。一回。間。二回。暗号。扉が開く。入る。閉まる。
——ここだ。
ディルクの拠点。
◇
午前中。学院の講義が終わった後、一人で西区に向かった。
表通りから遠い裏路地の、目立たない煉瓦造り。二階建て。窓は少なく、壁が厚い。周囲の建物と調和していて、特別な印象を与えない。完璧な「潜伏先」だ。
五十歩離れた路地の角から、反響定位を静かに当てた。
建物の構造が「見える」。一階は広い部屋が二つと厨房。二階は小部屋が四つ。地下はない。裏口が一つ。窓は全て内側から板で補強されている。
人間の気配。一階に二人。二階に三人。計五人。
一階の一人は——心拍が聴き覚えのあるパターンだ。安静時六十拍。穏やかで、深い呼吸。自分の心拍を完璧に制御している男。
ディルク。
もう確認は十分だ。これ以上近づく必要はない。ディルクの拠点は特定した。
だがもう一人——二階の小部屋の一つから、聴き覚えのある心拍が聴こえた。
速い。緊張している。だが恐怖のパターンではない。もっと——焦りに近い。そして心拍のリズムに、微かな「揺れ」がある。感情が不安定な時の揺れ。
ミーシャ。
ミーシャの心拍パターンだ。学園で何度も聴いた。嘘をつく時に速くなり、本音を言う時にさらに速くなる。あの独特のリズム。
——いた。ここにいる。
胸が締まった。見つけた。ミーシャは生きている。怪我をしていない(心拍と呼吸のパターンが正常だから)。だが——閉じ込められている。二階の小部屋。扉は閉じている。鍵がかかっている音がする。
もう一人、二階の別の部屋にいる人間。心拍四十五拍。異様に静かな心拍。
フィン。
ミーシャとフィン。二人ともディルクの拠点にいる。
◇
学院に戻り、中庭でアルトたちに合流した。
「見つけた」
三人の目が変わった。
「ディルクの拠点。西区の煉瓦造りの二階建て。——ミーシャもそこにいる」
ノーラが息を呑んだ。
「ミーシャが——」
「心拍を確認した。生きてる。怪我もしていない。だが二階の小部屋に閉じ込められている。鍵がかかっている」
「すぐに行きましょう」
「待て、ノーラ。ディルクがいる。他に四人。全員が訓練された戦闘員だ。正面から突入すれば——」
「わかってるわよ。でも——」
ノーラの声が震えた。金色の瞳が濡れている。
「ミーシャがすぐそこにいるのに、何もしないでいろって言うの」
「何もしないとは言ってない。作戦を立てると言ってる」
アルトが割って入った。
「セレン。作戦はあるのか」
「ある。——だが、まだ情報が足りない。拠点の内部構造は反響定位で把握したが、罠の有無がわからない。暗殺ギルドの拠点に罠がないわけがない」
セラが静かに言った。
「罠を確認する方法は?」
「ある。——今夜、試す」
◇
夜。リッカの廃屋で準備をした。
声紋偽装の実戦テスト。
洗濯屋の地下室で聴き取った工作員の声帯振動パターンを、三日間かけて精密に記録してある。あの男の声を、俺の喉で再現する。
工作員の声で、ディルクの拠点に「報告」を持ち込む。
正確には——紙片を持ち込む。洗濯屋の地下室に置かれる報告の紙片と同じ形式で、偽の報告書を作る。内容は「標的の少年が南区の宿屋に拠点を移した」。偽情報。ディルクの注意を南区に向けさせる。
だが紙片を届けるだけが目的ではない。
紙片を届ける「ふり」をして、拠点の内部を「聴く」。扉を開けた瞬間に反響定位を全力展開し、一秒で内部の全情報——罠の位置、武器庫の場所、ミーシャの部屋の鍵の構造——を聴き取る。
一秒あればいい。扉が開いた一秒で、全てがわかる。
◇
午前一時。ディルクの拠点。裏口の前。
完全消音を起動。心拍すら消す。俺はこの世界に存在しない。
裏口の扉を叩いた。一回。間。二回。変声術の少女が使っていた暗号。
足音。中から誰かが近づいてくる。扉の向こうで止まった。
「誰だ」
低い声。中年の男。ディルクではない。見張りだ。
声紋偽装を起動。工作員の声で答えた。
「臨時報告です。急ぎの件で」
扉の向こうで沈黙。三秒。見張りが判断している。
扉が——開いた。
一秒。
反響定位を全力展開。建物全体の構造が「見えた」。
一階の広間に机と椅子。壁に武器棚。短剣が八本、毒壺が三つ、暗器が多数。広間の床に——圧力板。踏むと警報が鳴る仕掛け。罠が一つ。
厨房の横に抜け道。壁の裏に細い通路があり、二階に直通している。緊急脱出路。
二階。四つの小部屋。東端がミーシャの部屋。鍵は鉄製の南京錠。ピンは五本。共鳴解錠で開けられる。
西端がディルクの部屋。今は——いない。心拍が聴こえない。ディルクは外出している。
北側の部屋にフィン。南側の部屋に変声術の少女。見張りは一階に一人。この男だけ。
——全て聴いた。一秒で。
見張りの男が俺を見ている。暗い裏口で、顔はよく見えないはず。完全消音で心拍を消しているから、「生きている人間」とは思えないほど静かに感じるだろう。
「報告書です」
偽の紙片を差し出した。見張りが受け取る。
「……お前、声が少し違うな」
「風邪気味でして」
「ふん。入るか?」
「いえ、急ぎますので。——失礼します」
踵を返す。裏口を離れる。完全消音のまま路地を抜ける。
背後で扉が閉まる音。見張りが紙片を広げている気配。
——成功だ。
偽の報告書がディルクの拠点に入った。明朝ディルクがこれを読めば、俺がスラム街ではなく南区にいると思い込む。監視の目が南に向く。北区のカイラの拠点と、西区のディルクの拠点から、注意が逸れる。
そして——拠点の内部構造を完全に把握した。罠の位置。武器庫。脱出路。ミーシャの部屋の鍵。全て。
◇
廃屋に戻る途中、音紋標識が異常な反応を返した。
スラム街の北端——リッカの廃屋の近くの標識。微かな振動。風の振動。
だが自然の風ではない。リズムがある。
風が——脈打っている。
足を止めた。耳を澄ませる。
風の脈動。不規則に見えるが、パターンがある。長い風。短い風。長い風。短い風。短い風。
これは——暗号だ。風を使った暗号。
風属性。
ミーシャ。
ミーシャが風属性の魔力で、風に「暗号」を乗せて飛ばしている。ディルクの拠点の二階の窓から、風を外に送り出している。微弱な風。普通の人間には感じ取れないほど微かな。
だが音紋標識が捉えた。風の振動として。
暗号を解読する。長い風と短い風の組み合わせ。壁を叩く暗号打鍵と同じ原理——ただし媒体が壁ではなく風。
ミーシャが学院にいた時、俺の矢文を受け取っていた。矢文のリズムを覚えている。そしてミーシャは風属性だ。矢文と同じリズムで風を送れば——。
解読。
長。短短。長。短短短。長長。短。
——「きこえてる?」
心臓が跳ねた。
ミーシャが——俺に向けて「声」を送っている。音ではなく風で。風属性しかできない方法で。
返事を送れるか。矢文は指向性音波だ。ディルクの拠点に向けて飛ばせば——だが拠点に音を飛ばしたら、ディルクに気づかれる可能性がある。
だがミーシャの風は微弱すぎて、普通の人間には感じ取れない。なら、俺の矢文も——極小音量なら。
鼓膜を振わせるだけの超微弱音波。学院でスパイの耳に矢文を送った時と同じ原理。だが今回は距離がある。ディルクの拠点まで、ここから——約三百歩。
音石通信の出力を使えば届く。耳掛けの翡翠に意識を集中し、ディルクの拠点の方向に向けて、極細の指向性音波を飛ばす。出力を限界まで絞り、ミーシャの部屋の窓だけに届くように。
——聞こえてる、ミーシャ。
数秒の沈黙。
風が——変わった。短い風が連続する。速い。興奮している。
短短短短。長。短短。
——「セレン!」
名前を呼ばれた。風に乗せた名前。
——ミーシャ。大丈夫か。怪我はないか。
風。長い沈黙の後、ゆっくりとしたリズム。
——「だいじょうぶ。フィンもいる。でも出られない。先生が——」
風が途切れた。突然。
共鳴探知でディルクの拠点を聴く。二階で足音。見張りが階段を上がっている。ミーシャの部屋に向かっている。
ミーシャが風を止めたのだ。見張りに気づかれないように。
——賢い子だ。
◇
廃屋に戻った。リッカが寝ていた。起こさない。
窓際に座り、夜空を見上げた。
ミーシャは生きている。怪我もない。「だいじょうぶ」と言った。フィンも一緒にいる。だが「出られない」。
「先生が——」の後は途切れた。ディルクが何をしているのか。ミーシャをどう扱っているのか。
だが一つ、確かなことがある。
ミーシャは——諦めていない。風を使って外に「声」を飛ばした。誰かが聴いてくれることを信じて。俺が聴いてくれることを信じて。
声は届く。音でも。風でも。
——もう十分だ。
情報は揃った。ディルクの拠点。内部構造。罠の位置。ミーシャの部屋。鍵の構造。ディルクの行動パターン。
待つ時間は終わった。
研究ノートを開いた。最後の頁に書く。
《十日目。ディルクの拠点を特定。西区の煉瓦造り。ミーシャとフィンを確認。
拠点内部の構造、罠、武器庫、脱出路、鍵——全て把握済み。
声紋偽装で偽の報告書を拠点に入れた。ディルクの注意を南区に逸らす。
ミーシャが風の暗号で連絡を取ってきた。「だいじょうぶ。でも出られない」。
もう待たない。
明日——ディルクの寝室に立つ。》




