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『音魔法はゴミ? いいえ、研究したら文明を揺るがす最強魔法でした』  作者: 白月 鎖
王都編

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第91話「闇市場」

朝。中庭の噴水の前で、ノーラが待っていた。


 腕を組んで、俺を真っ直ぐ見ている。セラは少し離れた木の下にいる。アルトの姿はない。訓練場だろう。二人きりの場を作ったのは、ノーラの意志だ。


「話がある、って」


「ええ」


 硬い声。だが怒りではない。何かを腹の底に溜め込んで、言葉を選んでいる声。


「あんた、毎晩一人でスラム街に行ってるでしょ」


 否定しても仕方ない。門限後に窓から出入りする生活が何日も続いている。


「ああ」


「学園の時と同じだわ。スパイを一人で狩った時も、私たちに何も言わなかった。——また一人でやるの」


 ノーラの心拍が速い。怒りのパターンではない。もっと——苛立ちと、その奥にある切実な何か。名前のつけにくい振動。


「一人でやってるわけじゃない。リッカっていう案内人を——」


「そういう話をしてるんじゃないの」


 ノーラが一歩近づいた。近い。金色の瞳が目の前にある。


「あんたは”聴けば全部わかる”から、一人で動ける。一人で見つけて、一人で潰して、一人で帰ってくる。——私たちは朝になって”よく寝た”って嘘を聞かされるだけ」


 言葉が刺さった。全部正しい。


「ミーシャを取り戻すのは私たちの目的でしょう。私の目的よ。なのに私は毎晩、窓枠を叩くだけ。あんたの”おやすみ”に二回叩き返すだけ。——私にも何かさせなさい」


 ノーラの目が濡れていた。涙は落ちない。ノーラは泣かない。でも目の縁が光っている。


「……すまない」


「謝らなくていい。方法を教えて。私にできることを」


 考えた。ノーラにしかできないこと。俺の音では拾えないもの。


「……一つある。俺が夜に”聴いた”場所を、お前が昼に”見に行く”。人の顔。服装。持ち物。表情。——音では拾えないものがある。人の目でしか読めない情報がある」


「偵察ね」


「俺の耳と、お前の目を合わせる」


 ノーラの瞳から湿りが消えた。代わりに鋭さが戻った。戦う者の目。


「やるわ」


「一人では行くな。セラと二人で。買い物帰りの学生に見えるように」


「言われなくてもそうするわよ」


 踵を返しかけて、振り向いた。


「あと一つ。あんたが夜に出る時、耳掛けで一言言いなさい。“出る”って。戻った時も。——私が毎晩あんたの心拍を聴けるわけじゃないんだから、せめてそれくらいはして」


 声が少し揺れた。最後だけ。


「……わかった」


 ノーラが去った。背中を見送っていると、セラが木の下から小走りに来た。


「すみません。ノーラさんが一人で話したいと——」


「いい。ノーラが正しい。——セラ、昼の偵察、頼む。ノーラと二人で」


「はい。守ります。——ノーラさんも、あなたも」



 その夜。リッカに案内されて闇市場に潜った。


 スラム街の南端。煉瓦造りの倉庫群の裏に、地下へ降りる石段がある。入口に番人が座っていて、銅貨二枚を取られた。


 石段を降りると、地下に空間が広がっていた。


 薄暗い。松明が等間隔に壁にかかっていて、橙色の灯りが揺れている。通路の両側に露店。武器、薬、革の束、書類の山。表の市場では見ない品物ばかりだ。


 だが俺の耳に飛び込んできたのは、品物よりも「声」だった。


 三十以上の店が同時に営業している。値引き交渉の声。仲間内の隠語。誰かの怒鳴り声。誰かのひそひそ話。全部が混ざって、低い唸りになっている。


 その唸りの中を——耳が勝手に泳ぎ始めた。


 通路の向こう。武器商の店先で、男が店主と何かを話している。声は極端に小さい。口元を手で覆っている。闇市場の住人は読唇術を警戒するのだ。自分の唇の動きを隠す。


 一歩離れたら聞こえない。二歩離れたら声の存在すら気づかない。


 だが——俺は別のものを聴いていた。


 男の喉だ。


 人間が声を出す時、最初に動くのは喉の奥の声帯だ。声帯が振動して空気を震わせ、それが口から出て「声」になる。


 この男は口を覆って、極限まで声を絞っている。空気に乗る音は、ほとんど消えている。だが——喉の声帯は振動している。声がどんなに小さくても、声帯の動きは同じだ。共鳴探知を喉に集中させれば、声帯の振動パターンから言葉が——


 ——聴こえた。


「短剣を五本。毒は呪蝕蛇の抽出液。納品は三日後」


 はっきりと。口を覆っていても。小声でも。喉が動く限り、俺には聴こえる。


 面白い。もっと踏み込めるか。


 店主が返事をしようとしている。まだ口を開いていない。だが——喉の筋肉が動いた。言葉を構成する前の「準備」。声帯が言葉の形に構えている。


 聴く。集中する。


 (代金は前払いで——)


 一秒後、店主が口を開いた。


「代金は前払いでいただく」


 同じだ。声に出す前に、喉が「言おうとした言葉」を教えてくれた。


 背筋がぞくりとした。


 これは——読唇術なんかじゃない。唇を読んでいるのではなく、喉を聴いている。壁があっても使える。暗闇でも使える。口を覆っても意味がない。そして——相手が声に出す前に、言葉がわかる。


 恐ろしい技だ。自分で作っておいて、そう思った。



 闇市場の奥。闘市場の入口に、禿頭の巨漢が座っていた。


 顔に太い切り傷。草のようなものを咥えて、退屈そうに通行人を眺めている。だがあの腕の太さと首の据わり方は——喧嘩で飯を食ってきた体だ。


「おう。リッカの嬢ちゃんか。——で、隣のちっこいのは」


「客だよ、モルグ。金を持ってる」


「ほう」


 モルグの小さな目が俺を値踏みした。子供の冒険者。学院の制服。金があると言っている。——嘘か本当か。


 俺はモルグの喉に共鳴探知を向けた。さっき覚えたばかりの技。実戦で使うのは初めてだ。


 モルグがまだ口を開く前に、喉の振動が聴こえた。


 (子供か。金を持っているなら話は聞く。持っていなければ追い返す)


 わかりやすい男だ。金が全てのものさし。


「情報を買いたい」


「何の」


「“蝕”」


 モルグの心拍が微かに跳ねた。だが顔は動かない。闇市場の主は、心拍の変化を表情に出さない訓練ができている。——だが心臓は嘘をつけない。


「高いぞ」


「構わない。——まず”先生”と呼ばれている男。本名ディルク=ゲーレン。元B級冒険者。それは知ってる」


 モルグの目が見開かれた。


「知ってるのか。——どこで」


「言えない。俺が買いたいのはディルクの上だ。“蝕”の幹部。“指”と呼ばれる五人。名前と拠点」


 モルグが噛んでいた草を吐き出した。


「坊主。“蝕”と敵対するのか」


「する」


「理由は」


「仲間を取り返す」


 長い沈黙。モルグが俺の目を見ていた。


 その間に、喉の振動を聴いた。


 (この子供は本物だ。嘘をついていない。仲間のために”蝕”とやり合う覚悟がある)


 ここまでは好意的だった。だが続きがあった。


 (面白い。だが金にならんな。いや——こいつの通信技術とやらが本当なら、将来的に金になる。まず情報を売って恩を売っておくか)


 なるほど。モルグは計算している。今の情報購入を「将来への投資」として見ている。信頼ではなく利益。——わかりやすくていい。利害が一致する相手は扱いやすい。


「いい顔してるぜ、坊主。馬鹿の顔だがな」


 モルグが低く笑った。


「“指”のうち二名なら知っている。名前と、片方の拠点。——金貨二十八枚だ」


 高い。だがヴァイパーロードの魔石の報酬がまだ残っている。値切る余地があるか、喉を聴く。


 (二十八から下げる気はない。首が飛ぶリスクの上乗せだ。値切ったら売らない)


 ——値切れない。本気だ。


「二十八枚でいい」


 金貨を数えて渡した。モルグが一枚ずつ歯で噛んで確認する。


「よし。——“指”の一人。通称”人差し指”。本名カイラ。女。氷属性。“蝕”の処刑人。北区の教会通り、突き当たりの空き教会が拠点だ」


 尾行者の報告先と一致する。裏が取れた。


「もう一人は?」


「通称”小指”。本名は知らん。だがロスヴァイン伯爵家と繋がっている」


 フィンの家だ。


「伯爵家に深入りすると俺の首が物理的に飛ぶ。これ以上は言えん」


 モルグが立ち上がりかけて——座り直した。


「坊主。一つだけ忠告しておく。“蝕”を追うなら、宮廷にも気をつけろ。あの連中が三百年も生き延びてきたのは、強いからだけじゃない。王宮の中に——根を張っているからだ」


 心拍を聴く。変わらない。嘘ではない。モルグはこれを事実として言っている。


 レイナの警告が甦った。「中に入ったら出られない」。宮廷の内側にも闇がある。「蝕」はその闇と繋がっている。


「……ありがとう、モルグ」


「礼は要らん。金は貰った。——だが、まあ。頑張れ、坊主。馬鹿は嫌いじゃない」



 闇市場を出た。


 スラム街の夜の路地を、リッカと並んで歩いている。空に星が出ている。路地裏から酒場の笑い声が聴こえる。


「あんた、モルグと話してる時、変な顔してたよ」


「変な顔?」


「モルグが話す前に、あんたが頷いてた。値切ろうとして、途中でやめたでしょ。モルグが何も言ってないのに」


 鋭い。リッカは耳ではなく目で気づいた。俺が喉を聴いていることに。


「……少しだけ聴こえるんだ。相手が話す前に」


「は?」


「喉の動きを聴けば、何を言おうとしているか——声に出す前にわかる」


 リッカが足を止めた。


「……あんたって、本当にとんでもないね」


「便利だろ」


「便利とかの話じゃない。怖いよそれ。嘘が全部バレるってことじゃん」


「全部じゃない。“言葉にしようとした”ものだけだ。心の奥の気持ちまでは——読めない」


「……でも十分怖いよ」


 リッカの心拍が速い。だが恐怖のパターンとは違う。もっと複雑な脈動。「怖い」と言いながら逃げていない。むしろ俺の顔をじっと見ている。


「リッカ。お前に対しては使わない。約束する」


「……ほんと?」


「ほんとだ」


 嘘だ。もう使ってしまった。リッカの喉が「この子は嘘つかなさそうだけど、でもなあ」と構えたのが聴こえた。


 だがこの嘘は——言わない方がいい嘘だ。嘘には理由がある。ミーシャの時にそう学んだ。



 学院に戻ったのは午前二時。窓から男子棟に入る。アルトは寝ている。


 耳掛けに囁く。


 ——戻った。無事。


 窓枠を叩く音。二回。ノーラが起きて待っていた。約束通り。俺が「出る」と「戻った」を言うようにしたのは今夜からだ。


 もう一つ。三回。「ありがとう」。——帰ってきたことへの。


 防壁の光。一瞬だけ灯って、消えた。セラ。


 研究ノートを開く。


 《七日目》

 朝:ノーラとの対話。昼の偵察を任せた。「耳掛けで一言言え」と約束させられた。正しい。

 

 闇市場のモルグから情報購入。金貨二十八枚。

 カイラ(人差し指)の拠点は北区の空き教会。尾行者の報告先と一致。

 ロスヴァイン伯爵家が「蝕」と繋がり。フィンの家。

 モルグの忠告:「蝕」は王宮に根を張っている。レイナの警告と符合。

 

 新しい技を一つ覚えた。喉の声帯振動を聴いて、声に出す前の言葉を読む。

 闇市場で偶然気づいた。読唇術の上位互換だと思う。名前は「振動読み」にする。

 壁越しでも暗闇でも使える。口を覆っても無意味。——便利すぎて怖い。

 仲間には使わない。

 (リッカには使ってしまった。反省)

 

 モルグの思考が読めた。俺を「金になる相手」と計算している。利害の一致で動くタイプ。

 将来、音石通信を交渉材料にして味方につけられるかもしれない。


 ペンを置いた。


 七日間で得たもの。音紋標識のネットワーク。スラムの隠れ家。リッカという案内人。モルグという情報源。カイラの拠点。フィンの家との繋がり。宮廷への警戒。そして——人の思考を先読みする恐ろしい技。


 蜘蛛の巣のように、一本ずつ糸を張っている。糸が増えるたびに「蝕」の輪郭が見えてくる。


 だが「蝕」もまた、俺を見ている。


 窓の外、夜明けの空が白み始めている。鐘楼の五時の鐘が鳴った。振動が窓ガラスを震わせる。


 あと数時間で、学院の制服を着て講義に出る。エルデ教官と羊皮紙の解読をして、訓練場でアルトと組手をする。普通の学生の顔をして。


 昼は学生。夜は狩人。


 二つの世界を、同時に生きている。

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