ゴリラ
9
目の前にゴリラがいる。
さすがにこんな経験は、俺も初めてだぜ……。
「ジョー……だよな?」
ジョー◯からドンキーコ◯グになっちまった……。
「ウキッ!」
鳴き声はそのままだ。ただ、声がずいぶん低くなっている。
ジョーが立ち上がろうと両手をつく。
太い腕に力が入った途端、床がみしりと鳴った。
「ちょっ、待て待て! ここ木の上だからな!? 壊すなよ!」
「ウ、ウキッ?」
ジョーが慌てて手を浮かせる。
そのまま中腰になったところで、今度は頭が洞の天井にぶつかった。
ごつん、と鈍い音がする。
「ウギッ!」
「大丈夫か?」
頭を押さえてしゃがみ込むジョーを見て、少しだけ安心した。
見た目は完全にゴリラだが、中身まで別の生き物になったわけではなさそうだ。
「ウキィー……?」
俺の後ろから、パンが恐る恐る顔を出す。
そりゃ驚くよな。
ついさっきまで自分と同じくらいだった旦那が、光ったと思ったら倍近い大きさになったんだ。俺だったらとりあえず一回逃げる。
パンはすぐには近づかなかった。
ジョーの顔を見て、腕を見て、また顔へ戻る。それから鼻を鳴らしながら、ゆっくりと距離を詰めていく。
「ウキッ、キキッ!」
ジョーは立ち上がるのを諦め、座ったまま両腕を曲げた。
力こぶを見せたいらしい。
ただでさえ太い腕の筋肉が盛り上がり、パンが一歩下がった。
「いや、それは逆効果じゃないか?」
「ウキ?」
「怖がらせてどうするんだよ」
ジョーは困ったように腕を下ろすと、今度はパンへ片手を伸ばした。
パンがその手を見つめる。
すぐには触れない。
ジョーも無理に近づこうとはせず、手を出したまま待っていた。
少しして、パンが指先でジョーの手に触れる。
「ウキィ……」
「ウキッ」
ジョーが短く返す。
パンはまだ不安そうだったが、今度はジョーの腕を両手で触った。毛をかき分け、その下に残っている傷を確かめている。
傷は消えていない。
ポーションで出血は止まっているものの、深く裂けた部分はまだ赤く腫れていた。
姿は変わっても、全回復まではしていないらしい。
「ウキュー!」
一方、アブーに警戒心はなかった。
俺の後ろから飛び出すと、その勢いのままジョーの腕へしがみつく。
「ウキュッ、ウキュキュ!」
太い腕をよじ登り、肩までたどり着いたアブーが何度も跳ねる。
「お、おい。あんまり暴れたら――」
「ウキュッ!」
「ウギッ」
アブーの足が傷に当たったらしく、ジョーの顔が引きつった。
やっぱり痛いんじゃないか。
それでもジョーはアブーを振り落とさず、片手で支えながら立ち上がった。
今度は天井へ頭をぶつけないよう、腰を曲げている。
アブーは大興奮だった。
肩から頭へ登り、背中へ下りたと思えば、また腕を伝って肩まで戻る。新しい遊び場でも見つけたつもりなのだろう。
「ウキュキュ! キュキュー!」
「お父さん、かっこいいってか?」
「ウキュッ!」
「いい返事じゃねぇか」
ジョーはしばらくアブーの好きにさせたあと、その小さな身体を片手でつかみ、床へ下ろした。
前なら両腕で抱えていたはずだ。
見た目だけじゃなく、本当に力も上がっている。
さすが《剛力》。
いや、ちょっと上がりすぎじゃないか?
筋力が上がるとは書いてあったが、身体まで作り変えるなんて一言もなかったぞ。
「もしかして、進化でもしたのか?」
「ウキ?」
「だよな。お前に聞いても分からないよな」
ジョーは自分の腕や胸を触り、首を傾げている。
本人にも何が起きたのか理解できていないらしい。
ゲームなら、ステータス画面を開けば種族名や能力値が表示されるところだ。しかし、俺が見られるのは自分のステータスだけ。ジョーを調べる方法はない。
「まあ、元気ならいいか。ただ、しばらくは力を入れすぎるなよ。この家ごと落ちたら洒落にならないからな」
「ウキッ」
本当に分かっているのか?
不安だ。
ジョーはパンとアブーを見たあと、俺の前まで歩いてきた。
洞の中ではまともに立てないので、膝をついたまま進んでくる。それでも目線は俺より少し低い程度だ。
近くで見ると、さらにでかい。
肩幅は俺の倍近くある。腕なんて、俺の脚より太いんじゃないだろうか。
ジョーは俺の前で止まり、深く頭を下げた。
「ウキッ」
「……そのスキルをどう使うかは、お前次第だからな」
ジョーは顔を上げない。
たぶん、スキルだけじゃない。
オオカミと一緒に戦ったことや、ポーションを分けたことも含めて礼を伝えようとしているんだろう。
たぶんだけど。
鳴き声を完全に理解できるようになったわけじゃないからな。俺の都合のいい解釈が半分くらい入っているかもしれない。
「なんか照れるな……。もういいって」
俺が肩を軽く叩くと、ジョーがようやく顔を上げた。
「俺たちは背中を預け合った戦友だろ?」
「ウキッ!」
ジョーが歯を見せて笑い、大きな手を差し出してくる。
俺も右手を出した。
がっしりと手を握り合う。
「痛い痛い痛い! ジョー、弱く! もう少し弱く握れ!」
「ウキッ!?」
ジョーが慌てて手を離した。
俺の指には、くっきりと赤い跡が残っている。
「力加減を覚えるまでは、握手禁止な」
「ウキィ……」
「そんなに落ち込むなよ。怒ってないから」
こいつが新しい力に慣れるまで、少し時間がかかりそうだ。
まあ、俺も人のことは言えない。
手元には、まだ使っていないスキルが一つ残っている。
俺はガチャの結果画面を開き、《収納》のスキルオーブを取り出した。
透明な球体の中に、小さな箱のような模様が浮かんでいる。
「ジョーみたいにゴリラにはならないよな……?」
「ウキ?」
「いや、こっちの話だ」
スキルオーブを握る。
使おうと考えた瞬間、球体が光へ変わり、手の中へ吸い込まれていった。
ジョーのときのように身体が光り輝くことも、筋肉が膨れ上がることもない。
目の前に文字だけが表示された。
〖スキル《収納》を習得しました〗
「よし」
まずは身体を確認する。
腕も胸も変化なし。
ゴリラ化もしていない。
当たり前なんだけど、今のを見たあとだと少し心配だったんだよ。
「収納」
試しに口に出してみる。
しかし、何も起こらない。
「……どう使うんだ?」
説明書くらいつけてくれ。
いや、《リプレイ》も実際に試しながら使い方を探したんだったな。
とりあえず、近くに置いていたタオルを手に取る。
収納したい。
そう考えた瞬間、手の中からタオルが消えた。
「おおっ!」
「ウキュッ!?」
近くで見ていたアブーが飛び上がる。
俺の手の周りを確認し、服の袖まで引っ張り始めた。
「隠したんじゃないぞ。たぶん別の場所に入ったんだ」
「ウキュ?」
「だから、俺にもその場所は分からないって」
もう一度《収納》を意識すると、頭の中にタオルが入っているのが分かった。
見えているわけではない。
それでも、何が入っているかはなんとなく分かる。取り出したいと考えると、タオルが再び手の上へ現れた。
「べ、便利すぎる……」
今まで、斧やらナイフやら水筒やらを全部リュックへ詰めて運んでいた。
戦うときにはリュックを置かなければならないし、置いた場所まで戻る手間もかかる。何より、逃げることになったら荷物を諦めるしかなかった。
《収納》があれば、その心配がなくなる。
ガチャで出た塩、石鹸、板チョコ、包帯、ライター、中華包丁、タオルを順番に入れていく。
すべて問題なく収納できた。
「容量は……分からないな」
中にどれくらい余裕があるのかは表示されない。
重さの制限や、中の時間がどうなるかも不明だ。
板チョコが数日後に溶けていたら、時間は普通に進んでいると分かるだろう。知りたいような、知りたくないような。
グレーターウルフの死体まで入れば最高だが、今は木の下だ。
そこまで下りられるようになってから試そう。
「これなら、職業も決めていいか」
俺が職業選択を保留にしたのは、ガチャの結果を見てから決めたかったからだ。
今回出たスキルは《収納》と《剛力》。
《剛力》はジョーに渡したので、俺の戦い方が急に変わるようなものは出ていない。
だったら、これまでの経験で選ぶしかない。
ステータスを開き、点滅を続けている職業欄に触れる。
〖戦士〗
〖魔法使い〗
〖野伏〗
〖魔法戦士〗
〖守護者〗
五つの職業が並ぶ。
この中で悩んでいたのは、《魔法戦士》と《守護者》だ。
グレーターウルフとの戦いを考えれば、耐久が伸びそうな《守護者》も悪くない。
あと少し身体が丈夫だったら、あそこまで追い詰められずに済んだかもしれない。
ただ、だからといって攻撃を受けながら戦いたいわけではない。
俺は盾を持っていないし、今まで使ってきた武器は斧とナイフだ。これからも、その二つを手放すつもりはない。
一方で、《リプレイ》も捨てられない。
グレーターウルフにはうまく使えなかったが、森オオカミを倒したときには役に立った。狙った動きを寸分違わず繰り返せるのは、今の俺にとって貴重な切り札だ。
使えば魔力を消費する以上、戦士を選んで魔力が伸びなくなるのは困る。
かといって、魔法使いを選んで斧での戦いが弱くなるのも違う。そもそも俺が使えるのは《リプレイ》だけで、火の玉を飛ばしたり傷を治したりできるわけじゃない。
名前どおりなら、《魔法戦士》は武器と魔力の両方を扱う職業のはずだ。
俺の戦い方にも、一番合っている。
「なら、これだよな」
俺は《魔法戦士》へ指を伸ばした。
触れる直前で、手が止まる。
本当にいいのか?
一度選んだ職業を変えられる保証はない。
戦士と魔法使いの両方を伸ばす職業なら、器用貧乏になる可能性もある。筋力も魔力も中途半端で、どちらか一つに絞ればよかったと後悔するかもしれない。
説明が一切ないせいで、最後は名前から予想するしかない。
「……いや、決めた」
今後、《リプレイ》を使わずに戦うつもりはない。
斧を手放すつもりもない。
だったら、どちらも伸びそうな職業を選ぶ。
それに、五つの中で一番強そうだ。
大事だぞ、名前の強さ。
魔法戦士なんて、どう考えても序盤の職業じゃない。もし本当にほかより上の職業なら、選べるうちに選んでおくべきだ。
俺は《魔法戦士》へ触れた。
〖職業を《魔法戦士》に決定しますか?〗
〖はい〗 〖いいえ〗
「はい」
選択すると、五つの候補が消えた。
〖職業を《魔法戦士》に決定しました〗
ステータスの職業欄が変化する。
〖職業〗魔法戦士
「……それだけ?」
新しいスキルが増えた様子はない。
筋力も耐久も、魔力も変わっていなかった。
「職業に就いたんだから、就職祝いくらいくれてもいいだろ」
ステータス画面は何も答えない。
選んだだけで急に強くなるわけではないらしい。
次にレベルが上がったとき、伸び方が変わったりするのだろうか。
確かめるには、また魔物を倒す必要がある。
「その前に、傷を治さないとな」
職業欄を閉じると、その下にあるガチャポイントが目に入った。
〖ガチャポイント〗460P
四回引いても、六十ポイント残る。
「…………」
ガチャの画面を開く。
〖一回ガチャを引く 100P〗
今なら引ける。
しかも、さっきの十連は銀二個に銅一個。白から出た品も、ほとんど使える物ばかりだった。
完全に流れが来ている。
この勢いで単発を引けば、また銀が出るかもしれない。
「一回だけなら……」
いや、待て。
本当にそうか?
さっきの十連がよかったからこそ、次は悪いんじゃないか?
銀二個と銅一個を出したあとに、さらに銀を引けるほどガチャは甘くない。ここで欲を出せば、白いカプセルが四個並ぶ光景しか浮かばない。
そもそも、今すぐ必要な物はあるか?
食料は少し残っている。
火も起こせる。
武器は木の下だが、鉄の斧とナイフがある。
傷を治すポーションはもう使った。追加で欲しいのは間違いないが、単発四回で都合よく出るとは限らない。
「それなら、次も十連まで貯めるか」
あと五百四十ポイント。
遠いように見えるが、森オオカミを倒していけば貯められない数字ではない。
十連なら★2以上が一個確定する。
流れを切らずに、次の十連へつなげる。
「勝ってるときにやめる。これもガチャでは大事な判断だ」
自分に言い聞かせ、ガチャ画面を閉じる。
あと一秒見ていたら、たぶん押していた。
危なかった。
「よし。やることも終わったし、そろそろ下に――いっ!」
立ち上がろうとした瞬間、脇腹に鋭い痛みが走った。
脚から力が抜け、身体が傾く。
「うわっ」
「ウキッ!」
倒れる前に、ジョーの太い腕が俺の身体を支えた。
片手だった。
俺の身体を片手で軽々と持ち上げ、そのまま元の場所へ座らせる。
「……すごいな、お前」
「ウキッ」
「褒めてるけど、今は力こぶを見せなくていいから」
ポーションを飲んで生命力は二十まで回復した。
浅い傷も塞がっている。
だから、少しくらいなら動けると思っていた。
だが、脇腹と腕の深い傷は残ったままだ。立ち上がるだけならともかく、この身体で木を下りるのは危ない。
登ってくるときでさえ、何度も手を滑らせた。
今度落ちたら、レベル十一でも普通に死にそうだ。
「鉄の斧とナイフ、下に置いたままなんだよな……」
グレーターウルフの死体も放置している。
他の獣に荒らされてなければいいが。
「とりあえず今日は休むしかないか」
「ウキッ」
「でも、明日には下りたい。傷がもう少し治ったら、森を出る準備もしないとな」
「ウキィ?」
ジョーが俺の顔を見る。
「ずっとここにいるわけにもいかないだろ? 川を下っていけば、いつかは人のいる場所に着くかもしれないしな」
伝わっているか分からないが、洞の外と川がある方向を指さす。
ジョーは俺の指先を追ったあと、パンと顔を見合わせた。
「ウキ、ウキキッ」
「ウキィ……」
二匹が何か話し始める。
アブーも混ざって鳴いているが、たぶんこいつだけは話の内容を分かっていない。途中からジョーの背中へ登ろうとして、パンに尻尾を引っ張られていた。
「どうした?」
ジョーが俺の脇腹を指さす。
続いて、洞の外を指さし、大きく首を横に振った。
「怪我してるから、外に出るなってことか?」
「ウキッ」
「今日は出ないよ。俺だって、落ちたくないし」
「ウキキッ」
今度は俺を指さし、床に敷かれた葉を指さす。
それから自分とパン、アブーを順番に示した。
「ん?」
分からない。
俺が首を傾げると、ジョーが困った顔で頭をかいた。
パンが木の実をいくつか持ってくる。
俺の前へ置いたあと、自分の口元を指さした。
「食べろってことか?」
「ウキィ」
「ありがたいけど、今はそこまで腹減ってないぞ」
違ったらしい。
パンが首を振る。
ジョーが洞の外へ手を伸ばし、何かをつかむ動きをした。それから木の実を指さし、自分の胸を叩く。
ぱらぱらと木の皮が落ちた。
「おい、家を壊すなって」
「ウキッ!?」
ジョーが慌てて胸から手を離す。
力を手に入れた初日に、住処を失うのはやめてくれよ。
俺はもう一度、三匹の動きを順番に考える。
怪我を指さす。
外へ行くなと首を振る。
寝床を指さす。
パンは食べ物を持ってくる。
ジョーは自分が外へ取りに行くと示している……たぶん。
「もしかして……傷が治るまで、ここにいろってことか?」
「ウキッ!」
ジョーが大きくうなずいた。
「ウキィ!」
パンも続く。
「ウキュー!」
アブーまで両手を上げた。
こいつは絶対に分かってないだろ。
「いや、でもな。俺がいたら、そのぶん食べ物も必要になるぞ」
「ウキキッ!」
ジョーが腕を曲げ、また力こぶを作る。
「その身体なら問題ないって?」
「ウキッ!」
本当にそこまで細かく伝わっているかは分からない。
ただ、俺を追い出そうとしていないことだけは分かった。
正直、助かる。
今の身体で一人になれば、食料を探すことすらできない。夜にオオカミが戻ってきても、まともに戦えないだろう。
ジョーたちと一緒なら、少なくとも傷が治るまで休める。
「……じゃあ、悪いけど、もう少し世話になる」
「ウキッ!」
ジョーが嬉しそうに手を差し出す。
俺も反射的に手を伸ばしかけて、途中で止めた。
「握手は禁止って言っただろ」
「ウキィ……」
「傷が治るまではな。俺の指が先に折れちまう」
代わりに拳を作り、ジョーの拳へ軽く当てる。
ジョーは自分の拳を見たあと、同じようにゆっくりと返してきた。
今度は痛くない。
「しばらくよろしくな、ジョー」
「ウキッ!」
パンが木の実を俺の前へ押し、アブーが葉っぱを一枚持ってくる。
その葉を俺の脚へかけ、満足そうにうなずいた。
小さすぎて、何も隠れていない。
「毛布のつもりか? せめて、あと五十枚は持ってきてくれ」
「ウキュッ!」
アブーが元気よく走り出す。
「いや、本当に集めなくていいぞ!」
俺の言葉を無視して、アブーは洞の奥から次々と葉を運んでくる。
ジョーとパンも止める気はないらしい。
どうやら、森を出るのはもう少し先になりそうだ。




