ベタ惚れ
29
知らない天井――ではない。
少し前にも見た、白狐族の家の天井だ。
障子から差し込む光に目を細める。身体を動かそうとすると、胸と脇腹に鈍い痛みが走った。
『メザメハドウダ?』
左腕から、聞き慣れ始めたしゃがれ声がする。
「最高だぜ。起きた瞬間から全身が痛い」
『ソレハ、サイアクジャネエカ』
「皮肉だよ」
『ムズカシイコト、イウナ』
こいつに皮肉を理解させるのは、まだ早かったらしい。
黒い甲殻に覆われた左手を握る。指は問題なく動いた。森へ入る前より身体そのものは軽い。何度もレベルが上がったおかげかもしれない。
だが、傷まで消えたわけではなかった。上体を起こすだけで、包帯を巻かれた脇腹が引きつる。
「……そうだ。ユラは!?」
意識を失う直前のことが、一気に蘇った。
上級治癒ポーションをジョーに預け、村まで運んでくれと頼んだ。だが、ちゃんとユラへ届いたのかは確認していない。
『オンナナラ、イキテル』
「なんで分かるんだよ」
『サッキ、ソトデコエガシタ』
「先に言えよ!」
布団を跳ねのけて立ち上がる。足に力は入った。
一歩踏み出した瞬間、脇腹に痛みが走り、壁へ右手をつく。
『ムリスルナ。マタタオレルゾ』
「分かってる。でも、ユラを見るまでは寝てられないんだ」
『オマエ、ゼンゼンワカッテナイ』
センの小言を無視して部屋を出る。ユラが寝かされていたのは、障子を一枚隔てた隣の部屋だ。
障子を開けると、敷かれた布団には誰もいなかった。
「……どこ行ったんだ?」
「ナオトさん?」
背後から声がした。
勢いよく振り返る。白い狐耳に、長い白髪。探していた少女が、廊下に立っていた。
「ユラ……?」
「目を覚ましたのですね!」
ユラの耳がぴんと立つ。次の瞬間には駆け寄ってきた。
「ナオトさん!」
「うおっ!」
胸へ飛び込んできた身体を、慌てて両腕で受け止める。脇腹に激痛が走った。
それでも、手を離す気にはならなかった。
腕の中に、確かな体温がある。
「生きてる……」
「はい。生きています」
ユラが俺の服を強く掴む。その声は、わずかに震えていた。
「また、ナオトさんに助けていただきました」
「俺だけじゃない。村まで運んでくれたやつもいた。それに、お前がダンジョンで戦ってくれなかったら、俺だって帰ってこられなかったしな」
「それでもです」
ユラは顔を上げなかった。
「もう駄目だと思いました。ナオトさんが動かなくなって……わたしでは、何もできなくて……」
「俺も同じだよ」
冷たくなったユラの手を握り、何もできずにいたときのことを思い出す。
「お前の呼吸が止まりそうなのに、俺には何もできなかった。だから、もう一度こうして話せてるだけで十分だ」
しばらくして、胸元から小さな声が聞こえた。
「……もう少しだけ、このままでもいいですか?」
「ああ」
『イツマデ、クッツイテル』
「お前は黙ってろ」
ユラが身体を離し、俺の黒い左腕へ目を落とした。
「……今の声、ナオトさんの腕から聞こえましたよね?」
「ああ。こいつはセン。ダンジョンで戦ったムカデだ」
『ムカデジャナイ! タイラントセンチピード!』
ユラの表情が固まった。
「タイラントセンチピード……まさか、あのダンジョンボスですか?」
『ソウダ!』
「どうして、その魔物がナオトさんの腕に……」
そこまで言ったところで、ユラが何かに気づいたように目を見開いた。
「……なるほど。ダンジョンボスを倒せば、力が手に入るとは、そういうことだったのですね」
「分かるのか?」
「いいえ。むしろ分からないことが増えました」
ユラは警戒しながらも、俺の左腕へ顔を近づける。
「わたしは、なんらかの力をスキルとして継承するものだと思っていました。まさか、ボスそのものと契約するなんて……」
『オレハ、スキルジャネエ。オレハオレダ』
「それは見れば分かります」
恐怖よりも好奇心が勝ち始めたらしい。ユラは黒い甲殻を食い入るように見つめている。
「触ってもいいですか?」
『サワルナ』
「俺の腕なんだけど」
『オレノウデダ』
「そこはあとで決めよう。それより、センには森で何度も助けられた。こいつがいなかったら、ポーションも持ち帰れなかった」
「……そうなのですか」
ユラはしばらく考えたあと、センへ軽く頭を下げた。
「ナオトさんの腕を食べたことは、まだ許していません」
『オマエニ、ユルサレルヒツヨウナイ』
「ですが、ナオトさんを助けてくださったことにはお礼を言います。ありがとうございます、センさん」
『オレガ、イチバンカツヤクシタ』
「すぐ調子に乗るな」
ユラが小さく笑った。その声を聞いて、ようやく肩の力が抜ける。
「傷は、もう大丈夫なのか?」
「はい。倒れる前より元気もりもりです!」
ユラはその場で両腕を広げてみせた。顔色もよく、苦しそうな様子はない。
「そうか……よかった」
そこで、ふと気づく。
何もない空中へ手を伸ばし、パーティー画面を開いた。ユラの名前の横では、体力を示す数値が満タンになっている。
「……最初から、これを見ればよかったんじゃないか?」
『バカダナ』
「うるせえ。起きたばっかりで頭が回ってなかったんだよ」
「何を見ているのですか?」
「なんでもない。俺が馬鹿だっただけだ」
「それは、いつものことでは?」
「助かった直後の相手に言うことか?」
「あっ! ナオト! 起きたんだな!」
廊下の奥からコンタが駆けてきた。俺たちの前まで来ると、少し言いにくそうに視線を落とす。
「その……ありがとう。俺、お前にひどいことを言ったし、殴ったのに……姉ちゃんを助けてくれて」
「殴られたのは痛かった。でも、言われて当然のこともあったよ。俺がユラを守れなかったのは、本当だからな」
コンタが唇を噛み、それから真っすぐ俺を見た。
「姉ちゃんを守れなかったお前を、まだ全部許したわけじゃない」
「おう」
「でも、姉ちゃんを助けるために命を懸けてくれたことは、本当に感謝してる」
「じゃあ、俺からも礼を言わせてくれ」
俺はコンタの頭へ右手を置いた。
「薬をユラへ飲ませてくれたのは、お前なんだろ?」
「……うん」
「薬を飲ませてくれて、ありがとな」
頭を軽く撫でると、コンタは照れたように目を逸らした。
「……子ども扱いすんなよ」
そう言いながらも、俺の手を振り払おうとはしなかった。
「そういえば、ユラの父さんは?」
「姉ちゃんが助かったって伝えるために、母さんたちが村の人を向かわせた。もう父さんにも伝わってるはずだ」
「そっか。ならよかった」
残る心配は、あと一つだ。
「俺をここまで運んでくれた、でかい緑の猿の様子を見てくる」
「森精様のことか!」
「森精様?」
「知らなかったのか? あの方は、この森を守る森精様だぞ。今は広場にいる」
「あいつ、そんな立派なやつだったのか……。ジョーっていうんだけどな」
◇
コンタに道を聞き、村の広場へ向かう。
道沿いには武器屋や薬屋が並び、食堂や宿まであった。小さな村だと思っていたが、冒険に必要な物は一通り揃いそうだ。
「村にしては、ずいぶん立派だな」
どうして宿まであるのかは分からない。あとでユラに聞いてみよう。
しばらく歩くと、広場の方から大勢の声が聞こえてきた。
「森精様!」
「どうか、うちの子にも祝福を!」
「こちらをお納めください!」
人だかりを覗き込む。その中心にいたのは、やはりジョーだった。
背中と両肩には子どもが何人も乗り、足元には果物や肉、花や酒瓶まで山積みにされている。
ジョーは子どもを落とさないよう身体を固めたまま、助けを求めるように周りを見回していた。
「何やってんだ、あいつ……」
『ニンキモノダナ』
「困ってるようにしか見えないけどな」
人の間から手を上げる。
「おーい、ジョー!」
広場が静まり返った。村人たちの視線が、一斉に俺へ向く。
「おい、森精様を呼び捨てにしたぞ……」
「あの人、森精様が運んできた男だ」
何やら妙な話になっている。
ジョーは俺を見つけると、露骨にほっとした顔をした。背中に子どもを乗せたまま、のしのしとこちらへ歩いてくる。
「ジョー、傷は大丈夫なのか?」
ジョーは子どもたちを落とさないよう、片腕だけを曲げて力こぶを作った。問題ない、と言いたいらしい。
「元気そうだな」
ジョーは何度もうなずいたあと、ユラの家の方角を指差した。
「ユラも助かった。薬、ちゃんと届けてくれたんだな」
大きな肩から力が抜ける。
「ありがとな。お前が運んでくれなかったら、間に合わなかった」
ジョーの大きな手が、俺の頭へ伸びてきた。
軽く撫でたつもりなのだろう。首が折れそうなほどの力で頭を揺らされる。
「痛い痛い! 俺はまだ怪我人なんだぞ!」
ジョーが慌てて手を離す。その様子を見た村人たちが、またざわめき始めた。
「森精様が、頭へ祝福を……」
「羨ましい……」
「これが祝福なら、俺は二度といらないぞ!」
ジョーが楽しそうに笑った。
本当に無事でよかった。
◇
家へ戻ると、ユラの部屋にはセラさんとコハクさんも集まっていた。
「ナオトさん。本当に、ありがとうございました」
セラさんが深く頭を下げる。
「あなたがいなければ、ユラは助かりませんでした」
「頭を上げてください。俺一人じゃ無理でした。ジョーも、センも、コンタもいたから間に合ったんです」
「それでも、命を懸けてくださった事実は変わらない」
コハクさんが腕を組み、真っすぐ俺を見る。
「この恩は、必ず返す」
「恩なんて、そんな大げさな……」
「大げさではない。娘の命だ」
「……分かりました」
これ以上断る方が失礼な気がして、うなずいた。褒められたり感謝されたりするのは、どうにも落ち着かない。
「ところで、ナオトさんはこれからどうなさるのですか?」
セラさんが尋ねる。
「これから、ですか?」
「はい。ユラとの婚姻のお話もございますし」
セラさんは、どこか楽しそうだった。
「婚姻!?」
コハクさんの声が部屋へ響く。
「私は聞いていないぞ!」
「俺は、ナオトが姉ちゃんを好きだってところまでは聞いた」
コンタが複雑そうな顔で俺を見る。ユラまで、頬を赤くしながらこちらを見つめていた。
逃げたい。
今すぐ布団へ戻って、もう一度気絶したことにしたい。
だが、ユラが死にかけたあのとき、助かったら今度こそ自分の口で伝えると決めたんだ。
一度言うと決めたんだ。ここで逃げるわけにはいかねえ。
「ユラ」
「は、はい」
俺は一度息を吸い、ユラの目を真っすぐ見る。
「俺は、お前が好きだ」
口にした瞬間、顔が一気に熱くなった。それでも、目は逸らさない。
「スキルがなくても魔法を諦めなかったところも、失敗してもまた試すところも、たまに知識だけ先走るところも、全部ひっくるめて好きだ。これからも、お前と一緒にいたい」
「それは褒めていますか?」
「今そこを気にするのかよ!」
思わず突っ込むと、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。ユラの口元にも、小さな笑みが浮かぶ。
「俺と、結婚を前提に付き合ってくれ!」
言い切った。
ところが、ユラは首を傾げる。
「……付き合う、とは?」
「そこからか」
そういえば、この世界に同じ習慣があるとは限らない。
「すぐに結婚するんじゃなくて、まずは恋人として一緒に過ごすんだ。俺たちはまだ、お互いに知らないことばかりだろ。だから、もっと知ってから、その先を決めたい」
ユラの笑みが少し薄れた。
「つまり、ナオトさんは、まだわたしとの結婚を決められないのですね」
「……悪い」
胸の奥が縮む。それでも、ここだけは勢いで誤魔化したくなかった。
「でも、お前を軽く見てるからじゃない。出会って二日で全部分かったつもりになる方が、俺は嫌なんだ」
ユラは黙ったまま、俺を見つめている。白い耳が少しだけ外へ傾いた。
「その恋人というものになれば、ナオトさんはわたしをもっと知ろうとしてくださるのですか?」
「ああ。俺のことも、もっと知ってほしい」
「分かりました」
ユラが一歩近づく。俺との間にあった距離が、さっきより狭くなった。
「でしたら、お受けします」
「本当か?」
「はい。わたしも、ナオトさんともっと一緒にいたいですから」
嬉しそうに目を細める。白い尻尾が、隠しきれないように左右へ揺れていた。
「それに――」
ユラはふふんと胸を張り、白い耳を得意げに立てる。
「ナオトさんが、わたしにべた惚れなのはよく分かりましたから」
告白した俺より、返事をしたユラの方がずっと堂々としていた。




