待つ
28
二つの担架は、そのまま俺たちの家へ運び込まれた。
姉ちゃんは自分の部屋へ、知らない男は隣の客間へ寝かされた。
手当てのできる村の者たちが呼ばれ、家の中を慌ただしく行き来した。桶に張った水はすぐに赤く濁り、廊下には血と薬草の臭いが広がっていく。
俺も何か手伝おうとした。
だが、水は足りていると言われ、持ってきた包帯はそこへ置けと返された。姉ちゃんのそばへ行こうとすれば、手当ての邪魔になるから外で待てと止められる。
何をしても、俺の手は必要とされなかった。
昨日と同じだ。
姉ちゃんが一人で森へ入ったと分かったあとも、俺は村の入口で帰りを待つことしかできなかった。
今度は、すぐ近くにいる。
障子一枚隔てた向こうで姉ちゃんが死にかけているのに、声をかけることも、手を握ることもできない。
閉じた障子を見つめていると、中から薬師が出てきた。
腕や着物には、姉ちゃんの血がついている。
「血は止めた。だが、傷が深すぎる」
父さんと母さんたちが、薬師の前へ集まる。
「村にある薬では、これ以上は無理だ。このままでは今夜を越せない可能性が高いな」
「……町へ行けば、助けられる薬があるか?」
父さんが尋ねた。
「そうだな……上級の治癒薬が手に入れば、助かる可能性はある。だが、町まで行って戻るだけでも一日はかかるぞ」
「それでも行く」
父さんは迷わなかった。
「俺が町へ行く。村のことは頼む」
「父さん、俺も――」
「町までの道を、俺と同じ速さで走れるか?」
返事ができなかった。
確かについていったところで、父さんを遅くするだけだ。
「お前はユラのそばにいろ」
父さんは村長の仕事をほかの者へ預けると、水と金を鞄へ押し込み、ほとんど休むことなく家を出た。
姉ちゃんを助けるために父さんが走っている。
母さんたちは姉ちゃんのそばで看病している。
それなのに、俺だけが何もできない。
短剣の柄を握っても、悔しさをぶつける相手すらいなかった。
◇
手当てが終わり、ようやく姉ちゃんの部屋へ入ることを許された。
破れていた服は脱がされ、胸から腹にかけて新しい包帯が巻かれている。顔は血を全部失ったように白く、呼吸も浅かった。
俺は布団の横へ座り、姉ちゃんの手を握った。
冷たい。
握り返してもくれない。
いつもなら、眠っていても耳が動く。声をかければ、うるさそうに眉を寄せることだってある。
今は、何の反応もなかった。
「姉ちゃん……」
呼びかけても返事はない。
窓から差し込む光が少しずつ傾いていく。
どれほどそうしていたのか分からない。
握っていた姉ちゃんの指が、ほんの少し動いた。
「姉ちゃん?」
閉じていた目が、わずかに開く。
「姉ちゃん! 俺が分かるか?」
「……コン、タ……?」
掠れた声だった。
それだけで、胸の奥が潰れそうになった。
「そうだ。俺だよ。ここにいる」
姉ちゃんの目が、ゆっくりと部屋の中を探す。
「……ナオトさん、は……?」
最初に尋ねたのは、俺の知らない男のことだった。
「あいつなら隣の部屋にいる。心配しないでも生きてるよ」
「……よかった」
姉ちゃんは安心したように息を吐いた。
自分が今夜を越せるかも分からないのに、先にあの男の心配をする。
胸の奥に、冷たいものが刺さった。
「姉ちゃん。今は自分の心配をしろよ」
姉ちゃんは答えず、枕元へ置かれていた黒いオーブへ手を伸ばした。
ダンジョンから戻ってきたときも、姉ちゃんが握ったまま離さなかった物だ。
腕が上がらず、指先が表面に触れただけで止まる。
コハク母さんがオーブを持ち上げ、姉ちゃんの手元へ近づけた。
「母様……これを……」
「これは何だ?」
「ナオトさんが……目を覚ましたら……必ず、渡して……」
「分かった。私が責任を持って渡そう」
その返事を聞くと、姉ちゃんの指から力が抜けた。
「姉ちゃん?」
もう一度閉じた目は、それきり開かなかった。
何度呼んでも、肩へ触れても返事はない。
姉ちゃんと一緒に運び込まれた男。
姉ちゃんが目を覚まして、真っ先に無事を確かめた男。
命が消えかけているときまで、何かを渡そうとした相手。
二人の間に何があったのか、俺には何もわからなかった。
◇
隣の部屋の男が目を覚ましたのは、それからしばらくしてからだった。
セラ母さんが、壁へ手をつきながら歩く男を姉ちゃんの部屋へ連れていく。
俺は新しい水を運ぶため、廊下を歩いていた。
障子の向こうから、男が姉ちゃんを呼ぶ声が聞こえた。
最初は何度も起こそうとしていた。
その声が、やがて泣き声に変わる。
男は、姉ちゃんに惚れていたと言った。
姉ちゃんからたくさんもらったのに、まだ何も返せていない。もっと一緒にいたい。もっと姉ちゃんのことを知りたい。
出会って一日しか経っていない男が、勝手にそんなことを言っている。
俺の中で、何かが切れた。
「お前がナオトか!」
障子を開ける。
男が振り返るより先に胸ぐらを掴み、その頬を殴った。
「なんでユラ姉を守れなかったんだ!」
男の身体が畳へ倒れる。
もう一度拳を振り上げたところで、セラ母さんに腕を掴まれた。
「男だろ! ユラ姉をあんな目に遭わせて、何してたんだよ! 情けねえ!」
「やめなさい!」
近くで見ると、男もひどい有様だった。
左腕は肘から先がなく、脇腹にも厚い包帯が巻かれている。全身に傷が残り、起きていること自体がおかしい。
こいつが何もせず、姉ちゃんだけに戦わせたわけではない。
それくらいは分かった。
それでも、怒りを止められなかった。
こいつを責めなければ、次は何もできなかった自分を責めるしかなかったからだ。
「悪い……」
ナオトは言い返さなかった。
「謝って終わるなよ!」
姉ちゃんはまだ生きている。
父さんだって、薬を買うために町へ向かっている。
なのに、こいつだけが全部終わったような顔で泣いていることが許せなかった。
「勝手に諦めて、泣いてんじゃねえ!」
俺がそう怒鳴ると、ナオトは姉ちゃんの首へ指を当てた。
弱いながらも脈があると分かったのか、その顔にほんの少しだけ力が戻る。
セラ母さんが、村の薬では傷を治しきれないことと、このままでは姉ちゃんが今夜を越えられないことを伝えた。
ナオトは何もない空中へ右手を伸ばし、俺たちには見えない何かを触り始める。
最初は、本当に頭までおかしくなったのかと思った。
だが、ナオトの目は真剣だった。
「おい……さっきから何やってんだよ」
ナオトは、自分にしか見えない画面があるのだと答えた。
その画面で姉ちゃんを仲間に登録し、職業とやらまで決めたらしい。
「ユラを俺の仲間に登録した。俺が魔物を倒せば、離れていてもユラに経験値が入るかもしれない」
「それで、ユラが助かるのですか?」
「分かりません」
ナオトは、はっきりと答えた。
保証はない。
それでも、レベルが上がれば身体が強くなり、今夜を越えられるくらい持ち直すかもしれないという。
「お前、そんな身体で戦うつもりかよ」
なくなった左腕へ目を落とす。
「まともに武器も振れねえだろ」
「それでも行く。ユラには、もう時間がないんだろ」
ナオトは右手だけで畳を押し、立ち上がった。
膝は震え、顔から血の気が引いている。
それでも、もう諦めた顔はしていなかった。
◇
ナオトが着替えと武器を用意している間に、俺も短剣と荷物を用意した。
こいつ一人に、姉ちゃんの命を預けるつもりはなかった。
玄関では、コハク母さんが姉ちゃんから預かった黒いオーブをナオトへ渡していた。
ナオトがそれを服の内側へ入れ、伐採用の斧を持って家を出ようとする。
「待てよ!」
俺はナオトの前へ立った。
「俺も行く」
「コンタ?」
「俺がユラ姉を助けるんだ。お前一人になんか任せてられるか!」
「駄目だ」
ナオトではなく、コハク母さんが答えた。
「なんでだよ! 俺だって戦える!」
「今のお前が行っても、足手まといになるだけだ」
言い返そうとした俺へ、コハク母さんは容赦なく現実を突きつけた。
「ナオトさんがお前を一度でも庇えば、その分だけユラを助けるのが遅れる」
何も言えなくなった。
昨日まで、俺は森へ入ることすら避けていた。
短剣を持っているだけで、北の森の魔物とは戦えない。
俺を守るためにナオトが傷つけば、姉ちゃんを助ける者がいなくなる。
分かっていても、すぐに引き下がることはできなかった。
「コンタ。あなたにお願いしたいことがあります」
セラ母さんが俺の前へしゃがむ。
「ユラのそばにいてください。あの子の様子が変わったら、すぐにわたしとコハクへ知らせてほしいのです」
「そんなの、誰でもできるだろ」
「ユラが目を覚ましたとき、家族が誰もいなければ不安になります」
姉ちゃんの冷たい手を思い出した。
あの手を握る役目まで、ほかの誰かに渡すことはできなかった。
「……分かったよ」
荷物を床へ下ろす。
ナオトは何も言わず、斧を持ち直した。
「絶対に戻ってこいよ」
「ああ」
「ユラ姉を助けられなかったら……今度は一発じゃ済まさねえからな」
「分かってる」
セラ母さんとコハク母さんが、胸の前で両手を組む。
「聖神ソーマ様。どうか、かの者に祝福を。無事に我らのもとへお返しください」
二人の祈りが重なった。
その声を背に受け、ナオトは村を出ていった。
◇
姉ちゃんのそばへ戻り、また布団の横へ座る。
聞こえるのは、細く浅い呼吸だけだった。
ナオトの話が本当なら、あいつが魔物を倒したとき、姉ちゃんにも何かが起きる。
だが、いくら待っても何も変わらない。
やはり、そんな都合のいい話はないのかもしれない。
片腕の男が北の森へ入っても、魔物を倒す前に殺されるだけじゃないのか。
悪い考えばかりが浮かび始めたときだった。
姉ちゃんの身体を、淡い光が包んだ。
「姉ちゃん?」
立ち上がる。
光はすぐに消えた。
包帯の下の傷は残ったままだ。目も覚まさない。
それでも、今にも止まりそうだった呼吸が、ほんの少しだけ深くなった気がした。
「母さん! 来てくれ!」
セラ母さんとコハク母さんが駆け込んでくる。
「今、姉ちゃんの身体が光ったんだ!」
セラ母さんが首へ指を当て、呼吸と脈を確かめる。
「傷は変わっていません。ですが、脈は先ほどよりも強くなっています」
ナオトの言っていたことは、本当だった。
あいつは北の森で魔物を倒し、姉ちゃんのレベルを上げた。
しばらくして、二度目の光が姉ちゃんを包んだ。
そのあと、今度は三度続けて光る。
合計で五回。
傷が治ったわけではない。
それでも呼吸は少しずつ安定し、冷たかった指先にもわずかな温かさが戻っていた。
片腕を失い、脇腹にも傷を負った身体で、ナオトは本当に戦っている。
俺がついていけば助けられた、とはもう思えなかった。
俺がいれば、あいつは俺を守らなければならなかった。
それを認めるのは悔しい。
だが、それ以上に怖かった。
あいつが倒れれば、姉ちゃんのレベルを上げることもできなくなる。
俺は姉ちゃんの手を握りながら、何度も窓の外を見た。
それから長い間、光は現れなかった。
五つもレベルを上げたのなら、もう戻ってきてもいいはずだ。
早く戻ってこい。
あいつまで死んだら、姉ちゃんが目を覚ましたときに何と説明すればいい。
嫌いなままなら、もっと楽だった。
姉ちゃんを守れなかった男が、勝手に森へ入っただけだと思えた。
だが、姉ちゃんの身体が光るたび、あいつが命懸けで戦っていることを思い知らされる。
姉ちゃんを助けるためだけに、戦っている。
怒りが消えたわけではない。
姉ちゃんを守れなかったことを、簡単に許すつもりもない。
それでも、死んでも構わない相手だとは、もう思えなかった。
戻ってこい。
姉ちゃんを助けると言ったのなら、お前も生きて戻ってこい。
そう願った直後、姉ちゃんの身体が再び光った。
一度。
二度。
三度。
まだ止まらない。
四度。
五度。
ほとんど間を置かず、淡い光が姉ちゃんを包んだ。
「また光った!」
俺の声に、母さんたちが部屋へ入ってくる。
「五回だ。今度は続けて五回光った」
何を倒したのかも、何が起きたのかも分からない。
ただ、姉ちゃんのレベルが一度に五つも上がるほどの戦いがあった。それだけは分かった。
「喜んでばかりもいられない」
コハク母さんの声が低くなる。
「それほどの戦いをして、ナオトさんが無事とは限らない」
胸の奥が冷たくなった。
姉ちゃんの呼吸は、最初よりもはっきりしている。耳の先も、ときおり小さく動く。
これなら、父さんが薬を持って帰るまで耐えられるかもしれない。
だからといって、ナオトが倒れてもいいわけじゃない。
光が消えてからも、俺は北の方角を見続けた。
今度こそ、帰ってくるはずだと思った。
だが、いくら待っても姿は見えない。
日が傾き、部屋へ差し込む光が赤くなり始めた頃、村の入口が騒がしくなった。
「森精様だ!」
外から上ずった声が聞こえた。
「森精様が、村へいらしたぞ!」
俺は立ち上がり、家を飛び出した。
村の入口には、大勢の村人が集まっていた。
だが、誰も武器を構えていない。
道の両側へ分かれ、胸の前で手を組んでいる。中には、その場へ膝をついて頭を下げている者までいた。
その間を、人よりも大きな緑色の猿が歩いてくる。
子どもの頃から、何度も話には聞いていた。
森の奥に暮らし、森を見守る存在だと教えられてきた。
村へ姿を見せることなど、滅多にないと言われている。
初めて見る森精様は、片方の腕で血まみれの人間を抱えていた。
垂れ下がった顔を見て、足が止まる。
「ナオト……?」
出ていったときより、さらに傷が増えている。
服も包帯も血に染まり、意識もない。
なくなっていたはずの左腕には、黒い甲殻でできた腕が生えていた。
「もっと道を空けろ!」
あとから来たコハク母さんが、集まった村人たちへ声を張る。
「森精様の邪魔をするな!」
村人たちがさらに道の端へ寄る。
大きな身体が俺たちの前まで来ると、そこで足を止めた。
ナオトを抱えていない方の手を、ゆっくりと持ち上げる。
太い指の間には、小さな瓶が包まれていた。
中に入っているのは、淡い青色の液体だ。
大きな目が、集まった村人を順に見回す。
その視線が、最後に俺の上で止まった。
そして、薬の瓶を持つ手を差し出してくる。
そのとき、ナオトの黒い左腕から、しゃがれた声が聞こえた。
『オンナニ、ノマセロ』
周りの村人たちがざわめいた。
声を発したのは、森精様ではない。
意識を失ったナオトの、黒い腕が話している。
「姉ちゃんに飲ませろってことか?」
『ハヤクシロ』
何が起きているのかは分からない。
それでも、迷っている時間がないことだけは分かった。
俺はその前へ進み、差し出された手の下へ両手を出した。
太い指が、一本ずつ開かれる。
俺の手のひらへ小瓶が載るまで、その動きは驚くほど慎重だった。
ナオトは、この傷だらけの身体で北の森を進み、姉ちゃんのレベルを十も上げた。
そのうえ、どうやったかは知らないが、自分に使うこともできたはずの薬を持ち帰ってきた。
太い腕の中で、ナオトの胸がかすかに上下している。
手の中にある小瓶が、ナオトが何をするために森へ入ったのかを教えていた。
こいつが姉ちゃんを助けるために戦ったことを、もう疑う余地はなかった。
「母さん! ナオトも頼む!」
「分かった。お前は薬を届けろ!」
コハク母さんの返事を聞き、俺は小瓶を胸に抱えた。
姉ちゃんのいる家へ走る。
待つことしかできなかった俺にも、今度はやることがあった。
ナオトが命懸けで持ち帰った薬を、姉ちゃんへ届ける。
今度は俺の番だった。




