姉ちゃんが消えた日
27
俺の名前はコンタ。
誇り高き白狐族の一人で、ここシロミミ村の村長の息子だ。
シロミミ村には、白狐族以外にもいくつかの獣人族と人族が暮らしている。
特別な名産品があるわけではない。畑で採れる野菜も、森で採れる薬草も、ほかの村と大して変わらない。
それでも村には、外から来た冒険者がよく立ち寄る。
村の近くに、大型ダンジョン《大精霊の聖域》があるからだ。
村を出た先には、空が見えなくなるほど大きな木が並ぶ森がある。その巨木の森一帯が《大精霊の聖域》の入口だ。中には珍しい魔物や素材があるらしく、遠い町から何日もかけて来る冒険者も少なくない。
村で食料を買い、傷薬を揃え、酒場でこれまでの冒険を話していく。
大きな剣で魔物を斬った話。
仲間が罠にかかって、逆さ吊りにされた話。
見たこともない宝を持ち帰った話。
そんな話を聞いて、冒険者に憧れる村の子供は多い。
姉ちゃんも、その一人――ではなかった。
姉ちゃんが目を奪われたのは、冒険者ではなく魔法だった。
まだ俺が小さかった頃、魔物の群れが村の近くまで押し寄せたことがある。
そのとき、村に滞在していた冒険者が放った炎が、魔物たちをまとめて焼き払った。
姉ちゃんは、その光景を口を開けたまま見つめていた。
次の日から、姉ちゃんは変わった。
それまでは毎日のように俺と遊んでくれていたのに、部屋へ籠もって本を読むようになった。
朝も本。
昼も本。
夜になっても本。
たまに部屋から出てきたと思ったら、見たこともない道具を庭へ並べている。
「コンタ。少し離れていてください」
「また何か燃やす気?」
「燃やすのではありません。火を出すんです」
「同じだろ」
「まったく違います」
何が違うのかは、今でも分からない。
姉ちゃんが魔力を通した直後、道具から火が噴き出し、庭の枯れ草へ燃え移ったこともある。
父さんとコハク母さんが水を運び、セラ母さんが泣きそうな顔で姉ちゃんを叱っていた。
それでも姉ちゃんは懲りなかった。
あるときは、高価な薬草や魔石の粉を使って、一枚の呪符を作り上げた。
「見てください、コンタ。治癒魔術の呪符が完成しました」
「へえ。どうやって試すんだ?」
「こうします」
姉ちゃんは小さな刃物を取り出し、自分の腕へ浅い傷をつけた。
「何してんだよ!」
「傷がなければ、治るか確かめられないでしょう?」
「先に言えよ! 怖いから!」
姉ちゃんが呪符を傷へ当てると、淡い光が広がった。
血は止まり、傷口もほんの少し塞がった。
だが、それだけだった。
呪符一枚を作るために使った材料は、普通の傷薬を何本も買えるほど高かったらしい。
しかも呪符は、一度使っただけで灰になった。
「……成功ですね」
「どこがだよ。まだ傷あるじゃん」
「最初から大怪我を治せるとは言っていません」
「じゃあ、なんでそんな得意そうなんだよ」
「昨日までは、少しも治せなかったからです」
姉ちゃんは本気で嬉しそうだった。
結局、残った傷にはセラ母さんが薬を塗り、包帯を巻いた。
魔法が、姉ちゃんを変えてしまった。
まあ、構わない。
魔法の話しかしない姉ちゃんに近づこうとする男なんて、ほとんどいない。父さんのあとを継いで村長になる俺が、姉ちゃんの面倒を一生見ればいい。
そう思っていた。
あの日までは。
◇
その日、俺は夜明け前に目を覚ました。
ただ、便所へ行きたかっただけだ。
用を済ませて部屋へ戻る途中、姉ちゃんの部屋から明かりが漏れていることに気づいた。
こんな時間まで本を読んでいたなら珍しくもない。
だが、扉の隙間から覗くと、姉ちゃんはすでに着替えていた。
「姉ちゃん。今日は早いな」
声をかけると、姉ちゃんの肩が小さく跳ねた。
机に広げていた紙を、慌てて本の下へ隠す。
「コンタ……。起きていたんですか?」
「便所。姉ちゃんは?」
「少し、目が冴えてしまって」
「いつも昼まで寝てるのに?」
「わたしだって、たまには早起きくらいします」
「明日は嵐かもな」
「もう!お子ちゃまは早く寝なさい」
机の横には、いつも使っている鞄が置かれていた。
中には、呪符や小瓶がいくつも入っていたはずだ。
「その鞄、どうすんの?」
「整理していただけです」
「ふうん」
それ以上は聞かなかった。
姉ちゃんが何か変なことをしているのは、いつものことだったからだ。
「おやすみ、姉ちゃん」
「……おやすみなさい、コンタ」
姉ちゃんは少しだけ迷ってから、俺の頭を撫でた。
「なんだよ、急に」
「別に。髪が跳ねていたので」
俺は姉ちゃんの手を振り払い、自分の部屋へ戻った。
どうして鞄を用意しているのか。
何の紙を隠したのか。
どうして、あのとき頭を撫でたのか。
もう少しだけ話していれば、気づけたかもしれない。
◇
異変に気づいたのは、その日の夜だった。
家では、夕食を全員で食べる。
父さんが村長の仕事で遅れる日はある。コハク母さんが村の戦士たちの訓練から戻らないこともある。
それでも、食事の時間になれば誰かが呼びに来る。
姉ちゃんだけが、何も言わずに遅れることはなかった。
食卓には五人分の食事が並んでいる。
だが、姉ちゃんの席だけが空いたままだった。
「姉ちゃんが夕食に来ないなんて珍しいな」
「あらあら。お昼寝でもしているのかしら」
セラ母さんが困ったように頬へ手を当てる。
「コンちゃん、呼んできてもらえますか?」
「はーい」
姉ちゃんが昼過ぎまで眠り、起きてからも部屋へ籠もっているのは珍しくない。
だから、その日も誰も夕食の時間まで異変に気づかなかった。
姉ちゃんの部屋へ行き、扉を叩く。
「姉ちゃん。飯だぞ」
返事はない。
もう一度叩いてから、扉を開けた。
部屋には誰もいなかった。
寝台の布団は、朝と同じ形に畳まれている。机には何冊もの本が開きっぱなしになっていたが、朝に見た鞄と外出用の上着がなくなっていた。
代わりに、机の隅へ森の地図が残されていた。端には姉ちゃんの字でいくつも書き込みがあり、一か所だけが赤い丸で囲まれている。
地図の端に、姉ちゃんの字でいくつも書き込みがされている。
赤い丸で囲まれた場所を見ても、俺には何なのか分からなかった。
「姉ちゃん?」
寝台の下も、本棚の陰も見る。
いるわけがないのに、なぜか探してしまった。
俺は地図を掴み、食堂へ戻った。
「いなかった」
「え?」
「部屋にいない。上着も鞄もなくなってる」
父さんが椅子から立ち上がった。
「地図を見せろ」
「これ」
父さんは地図を受け取った途端、顔色を変えた。
「まさか……」
「あなた?」
父さんは地図を持ったまま、姉ちゃんの部屋へ向かった。
俺たちもあとを追う。
机に開かれていた本を確認し、引き出しの中を探る。次に、壁へ掛けられていたはずの外套と、呪符を入れる腰袋がないことを確かめた。
父さんの手の中で、地図がくしゃりと鳴った。
「ユラは……新しく見つかったダンジョンへ向かったかもしれん」
「なっ……」
コハク母さんの白い耳がぴんと立った。
「旦那様、本当ですか? あそこは明日、戦士団を伴って調査する予定だったはずです」
「ああ」
「なぜユラが場所を知っているのです」
「昨日、調査団へ加えてほしいと申し出てきた。森番の報告を聞いていたらしい」
「それで?」
「断った。まだ入口すら詳しく調べていない場所だ。経験のないユラを連れていけるはずがない」
父さんが地図の赤い丸を指でなぞる。
「だが、あいつは報告の内容から自分で場所を割り出したようだ」
「そんな……」
セラ母さんの身体が傾いた。
俺が支えるより先に、コハク母さんが肩を抱く。
部屋の中から音が消えた。
父さんも、母さんたちも、ひどい顔をしている。
でも、俺にはまだ分からなかった。
「……そんなに危ないの?」
父さんが俺を見た。
「明日、調査団を送って内部の深さや魔物の有無を確かめる予定だった。浅いダンジョンなら、何も起きずに戻れるかもしれない」
「じゃあ――」
「だが、誰も入ったことのないダンジョンだ」
父さんの声が、いつもより低かった。
「どれほど深いのか。中に何がいるのか。内部の構造がどうなっているのか。何も分からん。熟練の戦士が複数で入っても、何人か帰れなくなることはある」
嘘だ。
村の戦士たちは、みんな強い。
コハク母さんの訓練についていき、森の魔物を何度も倒している。
その人たちが何人も揃って、それでも死ぬかもしれない。
それなら、戦うためのスキルを持たない姉ちゃんが一人で入るなんて――。
「俺、行ってくる!」
部屋を飛び出そうとした。
首の後ろを、父さんの大きな手に掴まれる。
「放せよ!」
「駄目だ」
「姉ちゃんが死ぬかもしれないんだぞ!」
「分かっている!」
父さんの声が家中に響いた。
怒鳴られたのは俺なのに、父さんの顔の方が苦しそうだった。
「なら、なんで止めるんだよ!」
「お前はまだ、魔物とまともに戦ったことすらないだろう! 一人で行っても死ぬだけだ!」
「俺は一人で行ける!」
「無理だ。そもそもお前は新しいダンジョンの場所すら知らないだろう」
「地図がある!」
「夜の森で、その地図を読めるのか?」
「……っ」
何も言い返せなかった。
暗い森を一人で歩いたことなんてない。
村の近くに出る弱い魔物を追い払ったことはある。それだけだ。
姉ちゃんを助けたい。
でも、どうすれば助けられるのか分からない。
その事実が悔しくて、父さんの手を振り払おうと暴れた。
「コハク」
「はい」
「森の追跡に慣れた者を三人選べ。今夜のうちに先行させる」
「私も参ります」
「頼む。ただし、夜のうちは道と入口の確認だけだ。見つけても、少人数で中へ入るな」
「しかし、ユラが中にいるのですよ!」
「お前たちまで戻らなければ、明日の調査団を動かせなくなる」
コハク母さんが唇を強く結んだ。
「……承知しました」
「夜明けと同時に戦士団を出す。俺も行く」
「あなたは村に残ってください」
セラ母さんが、震える声で言った。
父さんが振り返る。
「村長がいなくなれば、残った者が混乱します。ユラを助けたいのは、あなただけではありません」
「だが……」
「ここで、帰りを待っていてください。わたしと一緒に」
父さんの拳が震えていた。
俺を止めて、コハク母さんにも勝手な行動を許さない。
そんな父さんが冷たいように見えていた。
でも、本当は父さんだって、今すぐ森へ駆け出したいのだ。
それでも村長だから残ろうとしている。
少しだけ分かった。
分かったからといって、待てるわけではなかった。
「朝までなんて……待てないよ」
セラ母さんが俺を抱き寄せた。
「ええ。わたしもです」
◇
その夜は、誰も眠らなかった。
コハク母さんたちが出ていったあと、俺は何度も家の外へ出た。
森へ続く道を見ても、暗闇しかない。
足音が聞こえた気がして立ち上がり、風が草を揺らしただけだと分かって座り直す。
それを何度も繰り返した。
夜明け前、コハク母さんたち先行隊が戻ってきた。
新しいダンジョンへ続くと思われる足跡は見つけた。
だが、暗闇の中では魔物の痕跡と見分けにくく、入口までは辿れなかったらしい。
姉ちゃんは、見つからなかった。
空が白み始めると同時に、調査団が村を出た。
武器を持った戦士たちが十人以上。
先頭にはコハク母さんがいた。
「必ず連れて帰る」
俺には、それだけ言って出ていった。
俺は村の入口に座り込み、帰りを待った。
朝になった。
太陽が高くなった。
村を出入りする人が、そのたびに俺を見る。
セラ母さんが何度か呼びに来たが、家へは戻らなかった。
ここにいれば、一番に姉ちゃんを見つけられる。
それしか、俺にできることはなかった。
どれほど待ったのか分からない。
「戻ってきたぞ!」
見張り台から声が上がった。
俺は立ち上がった。
座り続けて痺れていた足がもつれ、地面へ手をつく。
痛みも気にせず、そのまま走った。
森へ続く道から、調査団が戻ってくる。
出発したときより、歩く速度が遅い。
先頭のコハク母さんは、服も腕も泥だらけだった。
「母さん!」
呼びかけても、返事がない。
コハク母さんの後ろを見て、足が止まった。
担架が二つあった。
一つ目に寝かされていたのは、姉ちゃんだった。
服は破れ、白い髪も泥と血で汚れている。顔色は、遠くから見ても分かるほど悪かった。
「姉ちゃん……?」
駆け寄って手を伸ばす。
「触るな。今は揺らさない方がいい」
担架を運んでいた戦士に止められた。
「生きてるの?」
「まだ息はある。急いで治療する」
まだ。
その言葉が怖かった。
姉ちゃんの右手首には、細い布が何重にも巻かれていた。
布は途中で切られていたが、残った端は血と泥で赤黒く汚れている。
「二人は、ダンジョンから少し離れた場所で倒れていた」
コハク母さんが、掠れた声で言った。
「そこまで、何かを引きずった跡が続いていた。おそらくユラが、この男を運んだのだろう」
二つ目の担架へ目を向ける。
見たことのない男だった。
服は姉ちゃん以上に血で汚れ、身体中に傷がある。
左腕は、肘より先がなくなっていた。
姉ちゃんは一人でダンジョンへ向かったはずだ。
なのに、どうして知らない男と一緒に倒れている。
どうして、この男は片腕を失っている。
「……誰なんだよ、こいつ」
答えられる者は、誰もいなかった。




