俺のために
25
《収納》を閉じても、手のひらには小瓶の重みが残っている気がした。
淡い青色の液体が入った、上級治癒ポーション。
見間違いじゃない。必要な物は、もう手に入った。
「……帰ろう」
言葉にしてみると、それだけで身体が少し軽くなった。
脇腹の包帯には血が滲んでいる。肩も脚も重いし、今すぐ地面へ寝転がりたいくらい疲れていた。それでも、もう魔物を探して森の奥へ進む必要はない。
あとは村へ戻って、ユラにポーションを飲ませればいい。
目を閉じたまま浅い息を繰り返していたユラが、起き上がる。いつもの丁寧な声で俺の名前を呼ぶ。
そこまで想像すると、勝手に口元が緩んだ。
「起きたら、ちゃんと言わないとな……」
『ナニヲダ?』
「言わねえよ」
『オンナニ、ナニカイウノカ?』
「お前には絶対に言わねえ」
左腕から聞こえる笑い声を無視し、斧の柄を握り直した。
ユラが目を覚ましたら、好きだと言おう。
結婚なんて、まだ先の話だ。俺はユラが普段どんな本を読んでいるのかも、何が好物なのかも知らない。知っているのは、魔法のことになると急に早口になることと、できないことまで意地を張ってやろうとすることくらいだ。
まずは、もっと話すところから始めればいい。
返事を聞くのは怖いけど、今度は逃げない。
「……まあ、振られる可能性もあるんだけどな」
『カッカッ! フラレロ!』
「縁起でもねえこと言うな!」
思わず怒鳴った拍子に脇腹が痛み、俺は顔をしかめた。
ユラの父親は、まだ街へ薬を買いに行っているはずだ。戻ってきたら、無駄足にさせてしまったことを謝ろう。それから、ユラのために動いてくれたことへの礼も言いたい。
そのためにも、まずはここを出る。
足元には、さっき倒したホワイトヘア・タランチュラが転がっている。その頭部には、村から借りた斧が刺さったままだった。
柄を右手で握り、蜘蛛の頭を右足で押さえる。引いただけでは抜けず、刃を左右へ揺らすと、割れた甲殻の隙間から黒い液体が溢れた。
「ふっ……!」
腰を落として引き抜くと、粘つく音を立てて刃が外れた。
刃先は欠け、柄にも細かな亀裂が入っている。それでも、まだ振ることはできそうだ。
村から借りた斧は3本。そのうち1本は、こいつとの戦いで砕けた。今抜いた斧と、《収納》に残してある斧で最後だ。
「帰ったら、新しい斧も用意しないとな」
刃についた黒い液体を蜘蛛の白い毛で拭い、村の方角へ身体を向けた。
「待ってろよ、ユラ。今すぐ――」
『ウシロ!』
振り返るより早く、弾力のある何かが背中へ叩きつけられる。肩甲骨の間を押し潰され、息が喉から漏れた。足が地面を離れ、斧が右手から抜け落ちる。
何もできないまま前へ飛ばされ、すぐ近くの木へ右肩から激突した。
ドガッ!
視界が揺れ、次に胸を打つ。地面へ落ちたあとも勢いは止まらず、身体が半回転して木の根元へ倒れ込んだ。
「かっ……は……」
息を吸おうとしても、胸が動かない。
口を開き、何度も浅く空気を吸う。ようやく肺が膨らむと、遅れて背中と肩に痛みが広がった。
『タテ! マタクルゾ!』
「分かってる……!」
右手を握る。指は動く。肩を回すと痛んだが、骨が折れた感じはなかった。
あれだけ飛ばされたのに、思ったほどの傷ではない。
ぶつかった木を見ると、幹が白い糸で厚く覆われていた。重なった糸が俺の肩の形にへこみ、ゆっくり戻っていく。背中を殴った糸も、硬い棒ではなかった。束が潰れたことで、衝撃がかなり逃げたらしい。
運がよかった。
だが、次も同じように済むとは限らない。
斧は右へ2メートルほど離れた場所に落ちている。腰を浮かせ、いつでも飛びつけるようにしながら、背後を探した。
俺を殴った糸の束が、落ち葉の上でうねっている。
その先は途中で切れていた。切断された端が木々の向こうへ吸い込まれ、見えなくなる。
「当てたあと、自分で切ったのか……?」
さっきの蜘蛛は、糸を通して雷を流したことで倒せた。
今の糸が襲ってきた相手へ繋がったままなら、同じ方法が使える。それを知っているから、攻撃が当たった直後に切り離した。
「さっきの戦いを見てたのかよ」
『ドコダ? ニオイハスル』
「待て。立つ前に、場所を――」
斧へ向けていた視線を上げたところで、言葉が止まった。
村へ戻る道がない。
木と木の間に、白い糸が何重にも渡されている。目の高さだけではなく、足元から頭上まで隙間なく重なり、壁になっていた。
右を見る。
そちらも塞がれている。
左も同じだった。
俺が倒した蜘蛛の周囲にあったのは、枝や岩へ張られた細い糸だけだったはずだ。こんな壁はなかった。
立ち上がり、落ちていた斧を拾う。刃を近くの壁へ押し当てて引くと、表面の糸は切れたが、その下にまだ何層も残っていた。粘りついた糸が刃へ絡み、引き戻すだけでも腕に力がいる。
これを切り開いている間に襲われたら、背中を向けたまま殺される。
糸の壁は、木の幹と太い枝だけに結びつけられていた。どこにも魔物へ繋がる線はない。雷を流しても、木々の間へ逃げるだけだ。
「俺があいつと戦ってる間に、逃げ道を塞いだのか……」
白い壁は俺たちを囲み、直径20メートルほどの円を作っている。
村側の端に俺が立ち、中央近くに小さい蜘蛛の死骸がある。その向こうは、さっきまで進んでいた洞窟側だ。
戦うには足りる。
逃げるには狭い。
「そう簡単には帰らせてくれねえか……」
洞窟側の木が軋んだ。
高い枝から、黒い脚が音もなく下りてくる。先端が地面へ触れ、続いて白い毛に覆われた巨体が木々の間から姿を現した。
「……冗談だろ」
さっき倒した蜘蛛と同じ姿だった。
違うのは大きさだ。
小さい方でも軽自動車ほどあった。新しく現れた蜘蛛は、ワゴン車ほどもある。腹部だけで俺の身体より大きく、8本の脚を広げると、白い糸の囲いがこいつの巣にしか見えなかった。
大蜘蛛は、すぐには俺を見なかった。
中央に横たわる蜘蛛へ近づき、前脚の先で腹部へ触れる。反応がないと、今度は頭部を押した。
死骸が揺れ、割れた甲殻から黒い液体が流れる。
大蜘蛛の牙が、カチッと鳴った。
もう1度。
牙が噛み合うたび、口元から透明な液が糸を引く。地面についた8本の脚へ力が入り、先端の周りで土がひび割れた。
ようやく頭が持ち上がる。
並んだ8つの目が、すべて俺へ向いた。
「さっきのやつの……相棒か?」
大蜘蛛の身体が低くなる。
返事はない。それでも、何をしに来たのかは分かった。
「そりゃ怒るよな。大事なやつを殺されたんだから」
俺だって、同じ立場なら許さない。
ジョーやユラを殺した相手が目の前にいたら、話を聞こうとは思わないだろう。
斧を構え、左腕を前へ出す。柄を持つ右手が汗で滑りそうになり、握る位置を直した。
怖い。
逃げ道はなく、相手はさっきの蜘蛛より明らかに強い。こいつまで倒せると思える理由なんて、どこにもなかった。
それでも、ここで死ぬわけにはいかない。
「だが、俺もここで死ぬ気はない」
ユラのために、とは言わなかった。
これからこいつを殺すと決めるのは俺だ。その責任までユラに背負わせたくない。
謝るつもりもない。殺すために斧を向けておいて謝る方が、よほど勝手だ。
俺は自分の意思で大蜘蛛を見た。
「俺のために死んでくれ」
大蜘蛛が地面を蹴った。
巨体が沈んだと見えた直後には、前脚の先端が目の前へ迫っていた。
身体を左へずらす。尖った脚が服の胸元を裂いて通り過ぎ、地面へ深く刺さった。避けた勢いを止めずに前へ出て、脚の付け根へ斧を振る。
届かない。
大蜘蛛は刺さった脚を抜くのと同時に身体を引き、斧の間合いから逃れていた。代わりに反対の前脚が横から来る。頭を下げると、白い毛が髪を撫でて抜けた。
「速っ……!」
『ミギ!』
右から伸びた脚を、左腕の甲殻で外へ弾く。
硬い物同士がぶつかる音が響き、衝撃で左肩が押し戻された。大蜘蛛の脚も狙いを外れたが、掴む前に引かれてしまう。
追おうと足を踏み出したところへ、最初に避けた前脚が戻ってきた。
斧を身体の前へ残したまま後ろへ退く。脚の先端が刃を擦り、耳障りな音と火花を残した。
大蜘蛛は追ってこない。
前の4本の脚を広げ、身体をその奥に置いたまま、こちらの出方を待っている。
長い脚だけを伸ばせば、大蜘蛛の攻撃は俺へ届く。こちらの斧は本体へ届かない。
触れて雷を流すには、あの脚を掴むしかない。
「もう1回来るぞ。今度は掴め」
『ワカッテル』
大蜘蛛の右前脚がわずかに浮いた。
突きが来ると考え、左手を開く。
だが、動いたのは左の脚だった。
「なっ――」
低い位置から振られた脚を跳び越える。着地を狙って、浮いていた右前脚が上から落ちてきた。
地面へ着いた足を無理に蹴り直し、前へ転がる。背後で土が弾け、小石が後頭部へ当たった。
起き上がりながら斧を振るうが、また脚の先をかすめるだけだった。
見えてはいる。
身体も、どうにか動く。
だが、大蜘蛛は俺より先に次の攻撃を決めている。避けた先へ別の脚が来るせいで、反撃へ移れない。
しかも、動くたびに脇腹の傷が引っ張られた。呼吸が荒くなり、右手の中で斧が重くなっていく。
大蜘蛛へ近づこうとしていたはずなのに、気づけば中央まで押し戻されていた。
このままでは、先に俺の身体が止まる。
「クソッ……」
残っている魔力は少ない。
離れた場所から《雷霆魔法》を撃っても、俺の器用では当たらないかもしれない。ここで外せば、そのあと触れたときに使う魔力がなくなる。
大蜘蛛の脚を掴む。
それ以外に、倒す方法は思いつかなかった。
左腕を前へ出し、また間合いへ入ろうとする。
その前に、大蜘蛛が下がった。
「なんだ?」
白い壁の近くまで距離を取り、腹部を持ち上げる。吐き出された糸が地面を走り、俺たちの間に転がっていた岩へ貼りついた。
人の頭より大きな岩が、ゆっくりと持ち上がる。
「それはもう見たぞ」
さっきの蜘蛛も、同じ方法で岩を投げてきた。
センの腕で岩を砕き、残った糸を掴めばいい。大蜘蛛が身体を近づけないなら、こっちから雷を届ける。
斧を右手だけで持ち、甲殻の左拳を構えた。
『クルゾ』
「おう」
糸の先で岩が回り始める。
低い軌道で速度を上げ、俺の胸へ向かって放たれた。
逃げずに踏み込み、岩の中心へ拳を突き出す。衝突した岩に亀裂が走り、勢いを殺し切れなかった破片が頬や胸を叩いた。それでも左腕は折れず、岩だけが目の前で砕け散る。
「よし!」
砕けた岩に絡んでいた糸が、まだ大蜘蛛へ伸びていた。
左手を開き、落ちてくる糸へ指を掛ける。
そのとき、背後で空気が鳴った。
『シタ!』
センが左腕を引き、俺の上半身を無理やり沈める。
後ろから飛んできた別の岩が、下げきれなかった右肩をかすめた。
「ぐっ!」
肩を持っていかれ、身体がその場で回る。右手から斧が抜けそうになり、指へ力を込めてどうにか耐えた。
岩は俺の前を通過し、正面の糸の壁へ深くめり込む。
「嘘だろ!」
距離を取りながら頭上を見る。
大蜘蛛から伸びる糸は、1本ではなかった。
もう1本が高い枝へ掛かり、俺の背後まで回されている。その先に、今飛んできた岩が結ばれていた。
大蜘蛛は正面の岩を見せながら、別の岩を後ろへ用意していた。俺が見えている糸を掴もうとしたところへ、死角から2射目を当てた。
「こいつ、俺が掴むのを待ってやがったのか……」
大蜘蛛が糸を引く。
壁へめり込んだ岩が引き抜かれ、頭上の枝を支点にして背後へ戻っていく。正面では、別の岩へ新しい糸が貼りついた。
また2つだ。
今度はどちらが先に来るのか分からない。
正面の岩が浮き上がる。
俺はそちらへ身体を向けたまま、背後の音を聞こうとした。
葉が擦れた。
振り返る。
後ろの岩は動いていない。
「しまっ――」
正面から飛んできた岩を、左腕で殴り上げる。拳が中心からずれ、岩は砕けずに軌道だけを変えた。
避けた岩が地面へ落ちるより先に、背後の糸が張る。
振り向く暇はない。身体を横へ投げると、岩が腰のすぐ横を通り抜けた。着地した場所へ正面の岩が引き戻され、足元を薙ぐ。
跳ぶしかなかった。
脇腹が裂けるように痛み、着地と同時に膝が沈む。
「ぐぅっ……!」
大蜘蛛は休ませてくれない。
正面を見れば背後が動き、後ろへ意識を向ければ目の前の岩が飛ぶ。片方の糸へ手を伸ばす余裕さえない。
岩を避けるたび、少しずつ村側へ追いやられていく。
『マズイナ』
「どうした!?」
『アイツ、オレヨリツヨイゾ』
「見れば分かるわ! そんなの!」
怒鳴った直後、正面の岩が顔へ迫る。
頭を下げて避けると、背後で太い枝が軋んだ。
大蜘蛛が糸を掛けた枝とは違う。白い囲いの外側、もっと高い場所だ。葉がまとめて落ち、白い壁の向こうで影が揺れた。
今の岩は、あそこへ飛んでいない。
「何かいるのか……?」
『ヨソミスルナ!』
背後の岩が戻ってくる。
左腕で受けると、今度は砕く余裕がなく、身体ごと前へ押された。踏ん張った踵が白い糸へ触れる。
靴が粘つく壁へ貼りついた。
「クソッ!」
足を引く。
剥がれない。
甲殻の左手で糸を引きちぎると、どうにか踵が自由になった。だが、その間に大蜘蛛は2本の糸を切り離していた。
岩が地面へ落ちる。
巨体が低く沈んだ。
逃げ場を失い、動きも鈍った。
だから、今なら近づいて殺せる。
大蜘蛛がそう考えたのかは分からない。ただ、8本の脚が土を抉った次の瞬間には、黒い巨体が目の前へ迫っていた。
「来るなら来い!」
斧を両手で握り、糸の壁を背にして構える。
大蜘蛛の前脚が頭上へ上がった。
真上から叩き潰すつもりだ。
振り下ろされる直前まで脚を見て、右へ転がる。地面へ肩を打ちつけた直後、さっきまで頭があった場所へ前脚が突き刺さった。
土が弾け、横顔へ小石が当たる。
「避けた――」
『マダダ!』
センの声で、身体を起こすより先に大蜘蛛を見た。
突き刺さった脚は動いていない。
代わりに反対の前脚が地面すれすれを走り、俺が転がった先へ回り込んでいた。
最初から、こっちが本命だった。
右肩は地面についたまま、脚もまだ身体の下へ戻っていない。もう転がれない。
斧の柄を左手でも掴み、身体の前へ斜めに構える。右腕へ力を込めた途端、岩に削られた肩が焼けるように痛んだ。柄を支える力が抜けそうになる。
止めるのは無理だ。
脚の先を上へ滑らせる。それだけできれば、身体の中心から外せる。
大蜘蛛の脚が斧の刃へぶつかった。
金属が軋み、衝撃が両腕から肩へ突き抜ける。斧を傾けようとしても、押し込まれる力が強すぎて動かない。
「上がれ……!」
左腕へ力を込めた。
刃に入っていた亀裂が広がる。
斧が砕けた。
支えを失った前脚が折れた柄を押し込み、そのまま腹へ叩きつけられる。
「ぐああっ!!」
身体が折れ曲がり、足が地面から離れた。
白い壁の前から中央近くまで弾き飛ばされ、背中から落ちる。受け身を取る間もなく後頭部を打ち、身体が土の上を転がった。
止まったときには、どちらが上なのかも分からなかった。
「かっ……は……」
喉が動くのに、空気が入ってこない。
腹を押さえようとした右手が震え、胸の上へ落ちた。脇腹の包帯が熱い。土へ触れた背中の下で、血が広がっていく。
起きろ。
右手をつき、身体を持ち上げようとする。
肘が折れ、顔が地面へ落ちた。
「ヤバい……」
ステータスを開く。
【生命力】8/77(+20)
【魔力】6/26
生命力は残り8。
まともに受けられる攻撃は、もうない。
大蜘蛛がこちらを向く。
すぐには来なかった。前脚を持ち上げ、俺が動けるか確かめるように牙を鳴らしている。
逃げないと分かると、ゆっくり歩き始めた。
脚が地面へ触れるたび、振動が頬から伝わってくる。
《収納》を開く。
中に並んだ物の中で、淡い青色の小瓶だけがはっきり見えた。
上級治癒ポーション。
あれを飲めば、立てるかもしれない。
傷が塞がれば、まだ戦える。俺がここで死ねば、ポーションはユラへ届かないのだから、先に自分へ使う方が正しい。
分かっている。
右手を伸ばせばいい。取り出して、蓋を開けて、飲む。それだけでいい。
指先が小瓶へ向かい、途中で止まった。
これを飲んだあとで大蜘蛛に負けたら、ユラを助ける物は何も残らない。
勝てたとしても、ユラの傷を治せる保証は消える。
「……駄目だ」
《収納》を閉じた。
正しい判断ではないかもしれない。
それでも、ユラへ持って帰ると決めたポーションを自分の喉へ流し込むことはできなかった。
『ウデナシ』
「なんだ……」
『オレハ、ウゴケル』
地面へ投げ出されていた甲殻の左手が開く。
「……そうか」
俺の身体が動かなくても、センは自分で左腕を動かせる。
大蜘蛛は、もう数メートル先まで来ていた。
牙が届くところまでは近づかず、長い前脚だけをこちらへ向けている。
さっきの蜘蛛が糸を伝った雷で死んだことも、俺が触れて魔法を使うことも知っている。だから、自分の頭や腹部は近づけない。
安全な距離から、脚で俺を刺すつもりだ。
ああ確かに、その距離なら届く。
「セン。あの脚を掴めるか?」
『クレバナ』
「合図するまで動くな。掴んだら、絶対に離すな」
『オレノウデダ。ハナサネエ』
「俺の腕でもあるけどな……」
大蜘蛛に聞こえないよう、息だけで答える。
右手を腹の上へ置き、首を横へ倒した。左腕からも力を抜いたように見せ、地面へ転がしておく。
大蜘蛛の前脚が伸びてくる。
いきなり急所は狙わなかった。
先端で俺の右足へ触れ、服と皮膚を浅く切る。
動かない。
次は脇腹だった。
傷の近くを押され、歯の間から声が漏れそうになる。舌を噛み、痛みが引くまで死んだふりを続ける。
大蜘蛛が脚を引いた。
牙が鳴る。
前脚が高く持ち上がり、先端が俺の喉へ向いた。
今だと思った。
だが、まだ遠い。
ここでセンが動けば、脚を引かれる。
大蜘蛛の脚が落ちてくる。
切っ先が胸の高さを過ぎる。
喉まで、残りわずか。
「今だ!」
甲殻の左腕が地面を打ち、跳ね上がった。
黒い指が大蜘蛛の前脚へ回り、白い毛ごと甲殻を掴む。脚の先端は首のすぐ横へ刺さり、地面を深く抉った。
『ツカマエタ!』
大蜘蛛が脚を引く。
左腕に引かれ、俺の身体まで土の上を滑った。傷口へ土が入り、視界が狭くなるほどの痛みが走る。
「離すなよ……!」
『ハナサネエ!』
センの指が甲殻へ食い込む。
右手で左手首を掴み、残った魔力を流し込んだ。
これを使えば、《雷霆魔法》も《リプレイ》も使えなくなる。
次はない。
「残り全部だ! 《雷霆魔法》!」
青白い雷が左手から噴き出した。
光が掴んだ脚を駆け上がり、甲殻の継ぎ目へ入り込む。白い毛が逆立ち、その下で黒い脚が激しく震えた。
大蜘蛛が身体を振る。
俺の身体が持ち上がり、地面へ叩きつけられる。それでもセンは離さず、雷は脚から胴体へ走り続けた。
「おおおおおっ!」
大蜘蛛の8本の脚がばらばらに地面を叩く。白い壁まで震え、張り巡らされた糸が高い音を立てた。
頭部を覆う白い毛が焦げ、黒い煙を上げる。
毛の下にあった甲殻へ細い亀裂が走った。
大蜘蛛の身体が沈む。
最初に後ろ脚が折れ、続いて横の脚から力が抜けた。最後まで俺を引きずっていた前脚も止まり、巨体が腹部から地面へ崩れ落ちる。
同時に雷が消えた。
【魔力】0/26
「効いた……」
討伐の通知は出ない。
大蜘蛛は生きている。
それでも8本の脚は地面へ投げ出され、すぐには立てそうになかった。焼け落ちた毛の下では、頭部の亀裂から黒い液体が滲んでいる。
『イマダ。コロセ』
「……ああ」
《収納》を開き、最後の斧を取り出す。
右手で柄を掴み、立ち上がろうとした。
膝が伸びない。
「くそっ……!」
斧を地面へ突き立て、杖の代わりにする。右脚を立て、甲殻の左手で膝を押す。脇腹から流れた血が服を伝い、土へ落ちた。
どうにか腰が上がる。
大蜘蛛の頭まで、数メートル。
右脚を引きずり、斧へ体重を預けて進む。
大蜘蛛の脚が震えた。
『ハヤク!』
「分かってる……!」
急ごうとしても、身体がついてこない。
1歩進むたびに息を吐き、倒れそうになるたび左手を地面へついた。ようやく頭部の前まで来たときには、大蜘蛛の8つの目がわずかに動き始めていた。
残された時間は短い。
甲殻の割れていない場所へ斧を振っても通らない。
狙うのは、雷でできた亀裂だけだ。
斧を両手で握り、頭上へ持ち上げる。身体が後ろへ傾き、右足を踏み出して支えた。
「これで終わりだ!」
残っている力を全部乗せ、亀裂へ斧を振り下ろした。
甲高い音が鳴り、大蜘蛛の頭が地面へ沈んだ。斧の先端が亀裂へ食い込み、黒い隙間をわずかに押し広げる。
「いける!」
黒い液体が刃を伝う。
あと少し押し込めば、甲殻を割れる。
左手を柄の上へずらし、体重を掛けた。
ミシッ、と乾いた音がした。
亀裂は広がっていない。
斧の刃元が割れていた。
「待て……」
力を緩める前に、刃が欠けた。
折れた金属が大蜘蛛の頭から弾かれ、白い毛の上を転がる。反動で柄が跳ね、両手から抜け落ちた。
「嘘だろ……」
大蜘蛛の目が動いた。
今度は、はっきりと俺を捉える。
地面へ伏せていた前脚へ力が戻り、関節が巨体を持ち上げた。
俺は斧を振り抜いた姿勢のまま、頭部のすぐ前で膝をついている。
避けるための足は動かない。
武器はない。
魔力もない。
大蜘蛛の前脚が持ち上がる。
『ウデナシ!』
甲殻の左腕を頭上へ構えた。
受け止められるとは思わない。それでも、何もしないで殺されるのだけは嫌だった。
大蜘蛛の脚が落ちてくる。
「こんなところで、俺は終われねえんだよおおおっ!」
バンッ!
大蜘蛛の巨体が横へずれた。
振り下ろされた前脚が俺の左へ落ち、地面を深く抉る。
「な……なんだ……」
何かが飛んできた姿は見えなかった。
ただ、大蜘蛛の右側の毛が押し潰され、その場所から土と落ち葉がまとめて弾けている。
遅れて強い風が顔へぶつかった。
バンッ!
今度は反対側から大蜘蛛の身体が押し戻される。
バンッ! バンッ!
続けて2発。
何もない場所から打撃だけが飛び、大蜘蛛の巨体を俺から遠ざけていく。攻撃が当たるたびに白い毛が沈み、周囲の落ち葉が渦を巻いた。
「この攻撃……」
見覚えがある。
目には見えない風をぶつけ、相手を弾き飛ばす魔法。
前に見たものより、威力はずっと強い。それでも、風がぶつかる感触は同じだった。
大蜘蛛が脚を広げ、飛んでくる風へ牙を鳴らす。
俺も攻撃が来た方角へ顔を向けた。
地上には誰もいない。
白い壁の向こうにも姿は見えなかった。
ドン、ドン、ドン、ドン!
今度は、頭上から重い音が響いた。
顔を上げる。
さっき岩を避けたときに揺れた、高い枝。その上に、緑の毛に覆われた大きな影が立っている。
長い腕を振り上げ、両拳で自分の胸を叩いていた。
影が胸を張り、森の空気を大きく吸い込む。
「ウッキィィィィッ!」
聞き覚えがあるその声は、木々の間へ響き渡り木々を大きく揺らした。




