契約
23
「くそっ……入らねえ」
右腕を袖へ通すところまではよかった。
だが、服の前を合わせて帯を結ぶだけなのに、思った以上に手間がかかる。歯で帯の端を押さえ、右手で何度も結び直した。
左腕がない。
分かっていたことなのに、身体は今までと同じように動こうとする。そのたびに服がずれ、身体が傾いた。
「片手になるって、こんなに大変なんだな……」
用意してもらった服は、セラさんの旦那さんの物らしい。少し大きいが、今まで着ていた血まみれの服よりはずっといい。
空になった左袖は邪魔だったので、肘まで折り上げて紐で留めた。
最後に脇腹の包帯を確かめ、部屋を出る。
廊下では、セラさんが待っていた。
「もう行かれるのですか?」
「はい。ユラには時間がないので」
立っているだけでも脇腹が痛む。
正直、今すぐ布団へ戻りたい。
だが、俺が休んでいる間にもユラの命は減っていく。
「セラさん。ここから近くに、強い魔物がいる場所はありませんか?」
弱い魔物を何匹も探すより、強い魔物を倒した方が経験値は多いはずだ。
何匹倒せばユラのレベルが上がるのかは分からない。だからこそ、少しでも経験値を稼げそうな場所へ行くしかない。
セラさんはすぐには答えなかった。
膝の上で重ねた手に、強く力が入る。
「……北の森へ行ってください」
「北ですか」
「あの森には強い魔物が多く、村の者たちにも近づかぬよう伝えております。奥へ進めば、ナオトさんが戦った魔物に近い強さのものもいるかもしれません」
行けば死ぬかもしれない。
そう言われているのと同じだった。
セラさんの顔が苦しそうに歪む。
自分の娘を助けるために、今度は俺を死地へ向かわせる。それを分かった上で、教えてくれたのだろう。
それでも、行くなとは言わなかった。
「分かりました。ありがとうございます」
「……申し訳ありません」
「謝らないでください。聞いたのは俺ですから」
次に必要なのは武器だ。
黒曜鉄の斧は、ダンジョンに置いてきたのだろう。セラさんに聞いてもわからないと言われた。ユラが俺を運ぶだけで精いっぱいだったんだ。仕方がない。
「何か武器はありませんか? できれば斧がいいんですけど」
「武器として使える物は……。伐採用の斧でしたら、何本かございます」
「それで十分です。貸してください」
案内された物置には、大きさの違う斧が並んでいた。
使えそうな物を三本選ぶ。
一本は右手で持ち、残りの二本は《収納》へ入れた。
どれも木を切るための物なので、黒曜鉄の斧より重心が悪い。それでも、素手よりは何倍もましだ。
「ありがとうございます。必ず返します」
「そのようなことは気にしないでください。どうか……」
セラさんの声が途中で止まる。
続きを待たず、俺は頭を下げた。
「行ってきます」
家を出ようとしたとき、背後から女の声が飛んできた。
「待ちなさい、ナオトさん」
振り返る。
そこに立っていたのは、白狐族の女の人だった。
短い白髪に、俺よりも高い背。セラさんと同じくらいの年齢に見えるが、雰囲気はまるで違う。
背筋を伸ばし、真っすぐ俺を見ている。
「ええと……」
「私はコハク。ユラの母だ」
「お母さん?」
さっき会ったばかりだぞ。
俺がセラさんとコハクさんを交互に見ると、コハクさんが眉を寄せた。
「ユラには母が二人いる」
「あ、はい」
聞きたいことはある。
だが、今は説明してもらっている場合ではない。
コハクさんが近づき、握っていた物を俺へ差し出した。
拳ほどの大きさのオーブだった。
黒い影が内部をゆっくりと巡り、ときおり赤い光が走っている。
「ユラから、これをあなたへ渡してくれと頼まれた」
「ユラが?」
「村へ運び込んだあと、一度だけ意識を戻した。そのときに、必ずナオトさんへ渡してくれとな。それからは目を覚ましていない」
俺はオーブを受け取った。
手に載せると、見た目よりもずっしりと重い。
「これは何なんですか?」
「分からん」
きっぱりと言い切られた。
「分からないんですか?」
「私は魔法道具には詳しくない。しかし、あの子が最後まで手放さなかった物だ。大事な物なのだろう」
「……分かりました。受け取ります」
初回踏破の報酬かもしれない。
中身は分からないが、ユラが俺へ渡そうとした物だ。持っていくべきだろう。
オーブを服の内側へ入れ、今度こそ家を出ようとする。
「待てよ!」
また後ろから止められた。
今度はコンタだ。
腰に短剣を差し、小さな荷物を背負っている。
「俺も行く」
「コンタ?」
「俺がユラ姉を助けるんだ。お前一人になんか任せてられるか!」
コンタは俺を睨んでいる。
さっき殴られた頬がまだ少し痛むが、腹は立たなかった。
ユラを助けたいのは、こいつも同じだ。
「駄目だ」
俺が答えるより先に、コハクさんが言った。
「なんでだよ! 俺だって戦える!」
「今のお前が行っても、足手まといになるだけだ」
「でも!」
「ナオトさんがお前を一度でも庇えば、その分だけユラを助けるのが遅れる」
コンタの口が止まった。
コハクさんは容赦なく続ける。
「お前を守るためにナオトさんが負傷すれば、ユラを助ける者がいなくなる。それでもついていくのか?」
「俺は……自分で戦う。守ってもらわなくても――」
「昨日まで避けていた北の森でか?」
「……っ」
コンタが拳を握る。
悔しいのだろう。
それでも、ここで格好をつけて「来い」とは言えない。今の俺には、コンタまで守って戦う余裕はなかった。
セラさんがコンタの前へしゃがむ。
「コンタ。あなたにお願いしたいことがあります」
「母さんまで……」
「ユラのそばにいてください。あの子の様子が変わったら、すぐにわたしとコハクへ知らせてほしいのです」
「そんなの、誰でもできるだろ」
「ユラが目を覚ましたとき、家族が誰もいなければ不安になります」
コンタが唇を噛む。
「今のユラを一人にしないであげてください。それは、あなたに頼みたいのです」
「……分かったよ」
納得した顔ではない。
それでも、コンタは背負っていた荷物を床へ下ろした。
俺へ向けていた目が、少しだけ伏せられる。
「絶対に戻ってこいよ」
「ああ」
「ユラ姉を助けられなかったら……今度は一発じゃ済まさねえからな」
「分かってる」
そのときは、何発でも殴られてやる。
だから、そうならないために行く。
斧を持ち直したところで、セラさんとコハクさんが俺の前へ並んだ。
二人は胸の前で両手を組み、静かに目を閉じる。
「聖神ソーマ様。どうか、かの者に祝福を。無事、我らのもとへお返しください」
二人の声が重なった。
ソーマ。
この世界の神様だろうか?
少し気になったが、今は聞いている時間がない。
祈りを終えたコハクさんが、俺を見る。
「ユラを頼む」
「はい」
俺は三人へ頭を下げ、村を出た。
◇
北へ進むにつれ、木々の間隔が狭くなっていった。
まだ北の森へ入ってはいない。それでも、村の近くにいた魔物より強そうな鳴き声が何度か聞こえている。
逃げ道を確認しながら歩く。
ユラをパーティーには登録したが、本当に経験値が届くのか。
それにレベルが上がっても、ユラの命が繋がるとは限らない。
考え始めると、不安はいくらでも出てきた。
「やるしかないんだよ……」
右手だけで斧を握り直す。
試しに何度か振ってみたが、やはり片腕では姿勢が安定しない。振り下ろしたあと、重さに引っ張られて身体が前へ傾く。
これでは素早い魔物を相手にしたとき、二撃目が間に合わない。
「せめて左腕があれば……」
『オイ』
足を止める。
低くしゃがれた声だった。
前を見る。
誰もいない。
「誰だ?」
『コッチダ』
右。
左。
木の上。
どこを見ても姿はない。
『ココダヨ。ココ』
「どこだよ?」
今身につけているのは服と斧だけだ。
いや、もう一つあった。
俺は服の内側から、コハクさんに渡されたオーブを取り出した。
『オイ! ココダ! ココ!』
声に合わせて、オーブの中の赤い光が明滅する。
「お、オーブが喋ってる?」
『カッカッ! ソウダ!』
「嘘だろ。どういう原理だよ……」
耳を近づけても、表面には穴一つない。
それでも声は、間違いなくオーブから聞こえていた。
「というか、お前は誰なんだ?」
『オレカ? ナンダヨ』
しゃがれた声が、不満そうに唸る。
『アレダケハゲシク、アイシアッタジャナイカ。ワスレタカ?』
「は? 愛し合った?」
俺がそんなことをした相手なんて――。
「いや、ユラともまだ何もしてねえよ!」
日本にいた頃まで含めてもゼロだ。
誰に言い訳しているんだ、俺は。
『ニブイヤツ』
声が楽しそうに笑う。
『ウマカッタゼ。オマエノウデ』
「……なんだと?」
左腕の傷が痛んだ。
なるほど。そう言われれば、さすがの俺でも分かる。
こいつは、あのムカデだ。
俺の腕を食いちぎり、ユラをあんな目に遭わせたタイラントセンチピード。
「てめえ!」
オーブを地面へ置く。
斧を振り上げた。
初回踏破の報酬だろうが知ったことか。こいつを生かしておく理由なんてない。
『マテ! マテ!』
「待つか!」
『オマエ、チカライルダロ!』
斧を止める。
刃は、オーブのすぐ上まで迫っていた。
「……なんだと?」
『シヌゾ。オマエ』
「は?」
『ウデナイ。オマエ。カテナイ』
「やってみないと分からなーー」
『ムリダゼ』
即答された。
腹が立つ。
『アソコノモリ。ツヨイヤツノニオイ、スル』
オーブの赤い光が、北の森へ向けて強くなる。
『オレクライツヨイヤツ。イル。イマノオマエ、クワレル』
「だから何だ。行かなきゃユラが死ぬんだよ」
『ダカラ』
ムカデが低く笑う。
『オレガ、ウデニナッテヤル』
「腕に?」
『ケイヤクシロ』
「嫌だね!」
考えるより先に答えていた。
「誰がてめえなんかと契約するか! 元はといえば、全部お前のせいじゃねえか!」
『オレモ、オマエキライダ』
「じゃあ話は終わりだ!」
斧を握る右手に力を込める。
こいつを叩き割りたい。
腕を噛み切られたときの痛みも、倒れたユラの姿も、まだ頭に残っている。
『デモ、オマエハツヨイ』
ムカデの声から、ふざけた調子が消える。
『オレハマケタ。オマエガ、オレヲタオシタ』
「ユラと二人でな」
『トドメハ、オマエダ』
こいつにとっては、それだけで十分らしい。
「それで、俺と契約してどうする」
『ツヨクナル』
迷いのない答えだった。
『オレヨリツヨイオマエニツク。オマエ、モットツヨイヤツノトコロニイク』
「行きたくて行くわけじゃないけどな」
『ソイツラヲクウ。オレ、モットツヨクナル』
食って、戦って、強くなる。
こいつの考えていることは、それだけらしい。
「契約したら、俺は何を取られる?」
『ナニモ』
「そんな都合のいい話があるかよ」
『オレ、オマエノウデニナル。オマエ、オレヲツヨイヤツノトコロニハコブ』
「俺を乗っ取ったりしないだろうな」
『デキルナラ、サキニヤッテル』
「それもそう……なのか?」
信用したわけではない。
こいつの言葉が全部本当だという保証もない。
斧を振り下ろせば、ここで終わらせられる。
だが、そのあと俺は片腕のまま北の森へ入ることになる。
さっき斧を振っただけでも、身体を持っていかれた。この状態でムカデと同じくらい強い魔物に襲われたら、勝てるとは思えない。
俺が死ねば、ユラを助ける者がいなくなる。
『ハヤクシロ』
「うるさい。今考えてるんだよ」
『オンナ、シヌゾ』
「お前が言うな!」
怒鳴った拍子に脇腹が痛み、息が詰まる。
それでも、反論はできなかった。
ユラには時間がない。
そのユラが、意識を失う前にこのオーブを俺へ渡そうとした。
中身を知っていたのかは分からない。だが、俺に必要だと思ったからコハクさんへ託したはずだ。
ここで俺が感情に任せて叩き割ったら、その判断まで無駄にすることになる。
「……一つ、約束しろ」
『ナンダ』
「ユラには絶対に手を出すな。俺の仲間にもだ」
『クワネエ。ヨワイヤツ、キョウミナイ』
「ユラは弱くねえよ」
『オマエヨリハ、ヨワイ』
「そういう意味じゃねえ」
腹は立つが、こいつと話していても終わらない。
俺は斧を下ろし、地面のオーブを拾い上げた。
赤い光が指の間で脈打っている。
こいつを許したわけじゃない。
許せるはずもない。
それでも今は、こいつの力が必要だ。
「今回の原因はお前だ」
『ソウダナ』
「ユラが助からなかったら、契約してようが関係ない。必ずお前を叩き割る」
少し間を置いて、ムカデが笑った。
『カッカッ! ソレハコマル』
「なら、力を貸せ」
『ツギハマケネェ』
誰に対して言ったのかは分からない。
俺か。
北の森の魔物か。
それとも、こいつ自身か。
「契約はどうすればいい?」
『オーブ、ムネニアテロ』
「これを?」
言われた通り、オーブを胸へ押し当てる。
何も起こらない。
もう一度、強く押しつけてみた。
「……おい」
『ナンダ』
「何も起きないぞ」
『モットツヨク』
「痛いだけだって!」
『オカシイナ』
「お前も分かってないのかよ!」
『ハジメテダカラナ』
当たり前のように言いやがった。
役に立たないムカデだ。
だが、オーブを使うというのなら、俺の持つ機能が関係しているかもしれない。
スキルオーブはいつもステータスウインドウに入れているしな。
ステータスを開く。
半透明のウインドウへ、オーブを近づけた。
表面が水面のように揺れる。
「入るのか?」
『ナニシテル』
「試してるんだよ」
俺はオーブを、ウインドウへ軽く放り込んだ。
『オアアアアアアッ!?』
オーブが画面の中へ吸い込まれる。
『ナンダコレ! オチル! マワル! オイ、トメ――』
ムカデの声が、遠くへ落ちていった。
断末魔というより、遊園地の乗り物で急降下している人の悲鳴だ。
やがて声が聞こえなくなる。
代わりに、ウインドウへ文字が浮かんだ。
【オーブを確認しました】
【個体名:タイラントセンチピード】
【タイラントセンチピードとの契約が為されました】
「うおっ……!」
包帯に包まれた左腕が熱くなる。
傷口が開いたのかと思ったが、血は出ていない。
黒い粒が左腕の周りへ集まり、包帯の上から硬い甲殻へ変わっていく。
甲殻は残った腕を覆い、そのまま肘の先へ伸び始めた。
一枚。
また一枚。
黒い甲殻が重なり合い、失った前腕の形を作っていく。表面には赤い筋が走り、指先には短い爪が生えた。
左腕が戻ったわけではない。
ムカデの甲殻で作られた、籠手に近い腕だ。
「動くのか……?」
動けと考える。
五本の指が、ゆっくりと開いた。
握る。
開く。
手首を回すと、重なった甲殻が擦れ合い、硬い音を鳴らす。
俺は地面に置いていた斧を、左手で掴んだ。
柄の硬さが分かる。
右手と同じ感覚ではない。温度も細かい手触りも分からないが、どれくらいの力で握っているかは伝わってきた。
少し力を入れる。
斧の柄が軋んだ。
「おいおい……」
慌てて力を緩める。
見た目だけの腕じゃない。
これなら、斧を両手で振れる。
『ヒドイメニアッタ』
今度は甲殻の腕から、ムカデの恨みがましい声が聞こえた。
「何が起こったんだ?」
『ワカラン。ダガ、スゴイマワサレタ』
「はあ?」
『オチテ、マワッテ、マタオチタ』
「虫の言ってることは、よく分かんねえな」
『オマエノセイダロ!』
うるさい。
だが、今はこいつと喧嘩をしている時間も惜しい。
俺は右手で斧を構え、左の甲殻腕で柄を握った。
軽く振り下ろす。
速い。
片腕だったときとは比べものにならない。斧の重さに身体を引っ張られることもなく、狙った位置でぴたりと止められた。
「これなら、戦える」
ステータスウインドウを確認する。
契約前にはなかった項目が追加されていた。
【名前】相馬直人
【種族】人族
【契約】タイラントセンチピード
【職業】魔法戦士
【レベル】20
【生命力】20/71(+20)
【魔力】23/23
【筋力】45(+10)
【耐久】38(+10)
【敏捷】39(+10)
【器用】10
【精神】62
【スキル】《ガチャ Lv1》《リプレイ Lv2》《収納》《雷霆魔法》
【称号】《異界渡り》《森精霊の友》《迷宮踏破者》
括弧の数字は、契約によって上乗せされた分だろう。
なら実際の筋力は五十五。耐久は四十八で、敏捷は四十九になる。
六つもレベルが上がった上に、この補正だ。
精神に至っては六十二。前に確認したときとは、もう別人みたいな数値になっている。
器用だけは十。
一つも伸びていない。
「そこは少しくらい上がってくれてもいいだろ……」
『カカッ、ブキヨウ』
「黙れ」
それでも、他の伸び方はすごい。
俺、めちゃくちゃ強くなったんじゃないか?
その場で軽く地面を蹴ってみる。
「うおっ」
予想よりも身体が前へ出た。
慌てて左脚を踏み込み、木にぶつかる前に止まる。
両脚にしっかり力が入る。さっきまであった身体の重さも、かなり軽くなっていた。
だが、脇腹から鋭い痛みが走った。
「ぐっ……!」
傷が治ったわけではない。
最大生命力は七十一まで増えているが、現在の生命力は二十のままだ。
本調子には程遠い。
それでも、さっきまでとは違う。
斧を両手で持てる。走れる。魔物が飛びかかってきても、避けるだけの速さがある。
これなら戦える。
俺は斧を握り直し、北の森へ向かって歩き出した。




