今度は俺が
22
知らない天井だ。
目を開けて最初に浮かんだのが、そんなベタな言葉だった。
「……どこだ、ここ」
身体を動かすと、あちこちに痛みが走った。
硬い石床ではない。俺は柔らかい布団に寝かされていた。
顔を横へ向ける。
畳に障子、木でできた低い机。どう見ても和室だ。
異世界のダンジョンで気を失ったはずなのに、なんで和室に寝かされてるんだ?
まさか、死んで日本へ戻ったのか。
いや、身体は痛いし、天国にしては傷だらけすぎる。
「ユラ……?」
返事はなかった。
広くはない部屋に、俺以外の姿はない。
胸の奥が、じわりと冷えていく。
ユラはどこだ?
最後に覚えているのは、ムカデを倒したあと、岩陰で倒れているユラへ近づいたところまでだ。
嫌な想像が、勝手に頭を埋めていく。
俺は急いで身体を起こそうとした。
両手を布団につく。
そのつもりだった。
「うおっ!?」
左側へ支えがなく、身体が大きく傾いた。そのまま肩から布団へ倒れ込む。
肘の先にあるはずの左手が、どこにもついていない。
一瞬、現実が遅れて追いつく。
「ああ……そうか」
ムカデに噛み切られたんだった。
左腕は肘から先まで包帯で巻かれている。動かそうとすると、なくなったはずの指先まで焼けるように痛んだ。
痛みよりも先に、空白の感覚が胸を刺す。
「いてぇ……ないのに、なんで痛いんだよ」
歯を食いしばり、今度は右手だけで身体を起こす。
脇腹にも分厚い布が巻かれていた。少し曲げるだけで傷が引きつり、息が詰まる。
それでも、立てないほどではない。
布団の横へ足を下ろすと、頭に載っていた濡れた布が畳へ落ちた。
誰かが看病してくれていたらしい。
その事実に、少しだけ救われる。
「ユラがやってくれたのか?」
そうだとしたら、あいつも無事にここまで戻れたはずだ。
左腕がなくなったことは、まだ実感が湧かない。
これから斧をどう振ればいいのか。服を着るにも、飯を食うにも困るだろう。
それでも、これでユラの命が助かったなら儲けものだ。
腕一本とユラの命なら、考えるまでもない。
「よし……」
立ち上がる。
すぐに膝が揺れ、右手を壁へついた。
格好悪くても歩ければいい。
障子へ近づき、右手で開ける。
廊下へ顔を出したところで、向こうから女の人が歩いてきた。
水を張った桶を両手で持っている。
長い白髪に、白い狐耳。
一瞬、心臓が跳ねた。
ユラだ、と錯覚するほど似ていた。
だが次の瞬間、その違いに気づく。
ユラよりも落ち着いた雰囲気で、顔つきも大人びている。
それでも、どこかで見たことのある優しさがあった。
俺に気づいた女の人が、目を大きくする。
「まあ……目を覚まされたのですね、ナオトさん」
「あ、はい。ええと……あなたは?」
女の人は桶を廊下へ置き、丁寧に頭を下げた。
「わたしはセラ。ユラの母でございます」
「お母さん!?」
思わず声が裏返る。
ユラが十九歳なら、この人は少なくとも三十代のはずだ。
なのに、目の前の人は時間の流れを感じさせないほど若く見えた。
「すみません。お姉さんかと思いました」
「あら。お上手ですね」
セラさんが口元へ手を添え、小さく笑う。
その笑顔は、ほんの一瞬だけ母親の顔だった。
だが次の瞬間、それは消えた。
目元が赤い。
泣いた跡だ。
胸の奥が嫌な音を立てる。
「あの……ユラは?」
セラさんの耳がわずかに伏せられた。
「ユラは、別の部屋におります」
「無事なんですよね?」
自分でも分かるほど、声が強くなる。
セラさんは一瞬だけ目を逸らし、それから静かに言った。
「……こちらへ。ついてきてください」
答えになっていない。
それが逆に、最悪の想像を現実に引き寄せる。
セラさんは桶をその場へ残し、廊下を歩き始める。
俺も壁へ手をつきながら、そのあとを追った。
一歩進むたびに、脇腹と左腕が悲鳴を上げる。
それでも止まれなかった。
それ以上に怖かったのは、セラさんが何も言わないことだった。
「まずは、ナオトさん」
前を歩いたまま、セラさんが話し始める。
「ユラを助けてくださり、本当にありがとうございました」
「いや、僕は……」
喉が詰まる。
助けたなんて言えるのは、最初だけだ。
「むしろ、俺の方が助けられてばかりでした。ユラがいなかったら、俺もムカデに殺されてます」
「そうでしたか……」
セラさんの歩く速さが、ほんの少しだけ落ちる。
「あの子のことを、そのように言ってくださるのですね」
「当たり前です。ユラは役に立ったなんてもんじゃ――」
「それなら、あの子も報われるでしょう」
「えっ?」
報われる?
その言葉が、胸に引っかかる。
まるで、もう終わったみたいな言い方だ。
セラさんが、一つの障子の前で足を止めた。
「こちらです」
障子が開かれる。
その瞬間、呼吸が止まった。
布団に、ユラが寝かされていた。
頭には濡れた布。脇腹から腹にかけて何重にも巻かれた包帯。その白さを汚すように、赤黒い染みが広がっている。
白い狐耳は力なく伏せられ、顔からは血の気が失せていた。
まるで、そこだけ時間が止まっているみたいだった。
「……ユラ?」
声は届かない。
胸が上下しているのかすら分からない。
足から力が抜けた。
畳へ膝をつき、右手を床へつく。
視界が揺れる。
「嘘だろ……」
なんで、そんな顔で寝てるんだよ。
村へ戻ったら、一緒に暮らすんじゃなかったのか。
結婚するって、勝手に決めてたじゃないか。
俺はまだ、ちゃんと返事もしてない。
「起きろよ、ユラ」
布団の横へ膝をついたまま、顔を覗き込む。
「村まで帰ってきたんだろ。もうダンジョンじゃないんだぞ」
返事はない。
当たり前のはずなのに、それが一番怖い。
涙が勝手に溢れた。
止めようとしても止まらない。
「ああ……駄目だ」
喉の奥が震える。
「俺、やっぱり……ユラに惚れてたんだ」
たった一日だ。
出会ったばかりで、まだ知らないことの方が多い。
それでも、あの暗いダンジョンで、ユラはずっと明るかった。
魔法のことになると急に早口になり、失敗して倒れても、次はできますと強がる。
その姿が、ずっと頭から離れなかった。
あいつが諦めなかったから、俺も最後まで戦えた。
俺がここで寝かされていたということは、ユラが運んでくれたんだろう。
こんな傷を負ってまで、俺を生かしてくれた。
「ユラから、いっぱいもらったんだ。俺……まだ何も返せてない」
右手はユラの布団を掴んだまま離れない。
「もっと一緒にいたいんだよ。結婚するんだろ?俺ももっとユラのこと、知りたいんだ。だから……こんなところで終わるなよ」
「結婚……」
後ろから、セラさんの声が震えた。
振り返ると、セラさんも両手で口元を押さえていた。
「ユラは、ナオト様と婚姻の約束をしていたのですね」
「いや、約束っていうか……ユラが一方的に言い出して……でも、俺も嫌じゃなくて……」
「そう、でしたか……」
セラさんがその場へ座り込む。
「ようやく、あの子を受け入れてくださる方が……見つかったのですね」
その言葉と同時に、セラさんの目から涙が溢れた。
その直後だった。
廊下から激しい足音が響く。
「お前がナオトか!」
障子が勢いよく開く。
飛び込んできたのは、狐耳の生えた少年だった。
怒りと焦りが混ざった顔。
俺が反応するより早く、胸ぐらを掴まれる。
「てめえっ!」
右頬に衝撃。
視界が揺れ、畳に倒れ込む。
「ナオトさん!」
「なんでユラ姉を守れなかったんだ!」
少年は倒れた俺へ掴みかかり、もう一度拳を振り上げた。
「男だろ! ユラ姉をあんな目に遭わせて、何してたんだよ! 情けねえ!」
「やめなさい!」
セラさんが少年の腕を掴む。
少年は荒い息を繰り返し、俺を睨んでいた。
その目にも涙が溜まっている。
責められて当然だ。
何も言い返せない。
「悪い……」
それしか出てこなかった。
俺がもっと強ければ、ユラはこんな姿にならなかった。
少年が歯を食いしばる。
「謝って終わるなよ!」
「……え?」
「勝手に諦めて、泣いてんじゃねえ!」
少年が俺から手を離す。
「ユラ姉はまだ死んでねえ! 親父だって、薬を買いに町まで向かってるんだ! 間に合わないかもしれないとか、そんなの知るかよ!」
まだ、死んでいない?
その言葉に、心臓が跳ねる。
俺はすぐにユラの布団へ近づいた。
右手の指を首へ当てる。
弱い。
それでも、確かに。
かすかな脈があった。
「生きてる……」
その瞬間、全身から力が抜けそうになる。
安堵と恐怖が同時に押し寄せてきた。
「はい」
セラさんが涙を拭う。
「ですが、あまりにも多くの血を失いました。この村にある薬では、傷を治しきれません」
「町の薬なら助かるんですか?」
「分かりません。夫が戻るまで、どれほど早くても一日はかかります。ですが、ユラは……このままでは、今夜を越えられないでしょう」
一日。
それは、死刑宣告と同じだった。
「クソッ……」
何かないのか。
俺にできること。
ガチャ。
雷霆魔法。
リプレイ。
どれも、傷を癒す力じゃない。
焦りだけが積み上がっていく。
「お前もユラ姉の旦那なら、何かやれよ!」
少年が叫ぶ。
「俺は旦那じゃ――」
言いかけて、止めた。
今はそんなこと、どうでもいい。
何か。
何かあったはずだ。
タイラントセンチピードを倒したあと、いくつもの通知が流れた。
レベルアップ。
ガチャポイント。
ダンジョン踏破。
その中に、一つだけ見慣れないものがあった。
【《パーティー》機能が解放されました】
「パーティー……」
俺は右手を前へ出し、ステータスを開いた。
新しく増えた《パーティー》の項目を押す。
ウインドウに、三人の名前が表示された。
【パーティー】
ユラ
セラ
コンタ
セラさんは目の前にいる。
なら、コンタというのが今さっき俺を殴った弟の名前だろう。
俺は迷わず、ユラの名前を押した。
【ユラをパーティーへ加入させますか?】
はい/いいえ
もちろん、はいだ。
【ユラがパーティーへ加入しました】
ステータスウインドウの端に、次のページを示す矢印が現れた。
そこへ触れる。
【名前】ユラ
【種族】白狐族
【レベル】18
【職業】未設定
【筋力】12
【耐久】13
【敏捷】20
【器用】35
【精神】30
「レベル十八……」
ムカデを倒したときの経験値で、ユラもレベルが上がっていた。
それでも、今の状態を救うには足りない。
だが、何もしないよりはいい。
職業の欄が点滅していた。
押してみると、三つの候補が表示される。
【選択可能な職業】
《魔法使い》
《魔導士》
《呪術師》
「職業まで選べるのか」
違いは分からない。
ユラが起きていたら、きっと嬉しそうに説明してくれたのだろうか。
その想像が、胸を締め付ける。
今はまだ、聞けない。
「悪い。勝手に決めるぞ」
俺は《魔導士》を選んだ。
【ユラの職業が《魔導士》に決定しました】
これでいいのかも分からない。
それでも、選ぶしかなかった。
パーティーといえば、普通のゲームなら倒した魔物の経験値が仲間にも入る。
俺が魔物を倒し、ユラのレベルを上げる。
レベルが上がれば、最大体力も増えるはずだ。
傷が治らなくても、増えた分だけ命を繋げるかもしれない。
確証なんてない。
それでも、今の俺にはそれしかなかった。
「おい……さっきから何やってんだよ」
コンタが気味悪そうに俺を見ていた。
「何もないところを触って……姉ちゃんがこうなって、頭までおかしくなったのか?」
「違う。俺には見える画面があるんだ」
「画面?」
「説明してる時間がない。ユラを俺の仲間に登録した。俺が魔物を倒せば、離れていてもユラに経験値が入るかもしれない」
セラさんが息を呑む。
「それで、ユラが助かるのですか?」
「分かりません」
期待させる言葉は言えない。
でも、嘘もつけない。
「でも、レベルが上がれば身体も強くなる。今夜を越えられるくらい、持ち直すかもしれません」
「お前、そんな身体で戦うつもりかよ」
コンタの視線が、包帯に包まれた左腕へ落ちた。
「まともに武器も振れねえだろ」
その通りだ。
今の俺がどれだけ動けるのかも分からない。外にどんな魔物がいるのか、何匹倒せばユラのレベルが上がるのかも分からない。
全部、やってみないと分からない。
「それでも行く。ユラには、もう時間がないんだろ」
右手を畳につき、立ち上がる。
脇腹が痛み、膝から力が抜けかけた。歯を食いしばって踏ん張る。
大丈夫だ。
少なくとも、歩くことはできる。
「お願いです」
セラさんが俺の前へ座り、両手を畳についた。
「そんな身体のあなたへ頼むのが、酷なことだとは分かっています。それでも……どうか、娘を助けてください」
そのまま、額が畳へつきそうなほど深く頭を下げる。
「やめてください。頭を上げてください!」
俺は右手を伸ばし、セラさんの肩へ触れた。
「俺がもっと強ければ、ユラがこんな傷を負うこともなかったんです。俺をここまで運んでくれたのも、ユラなんですよね?」
「……はい。森の中で見つけたときも、ユラはナオトさんを先に助けてほしいと、それだけを……」
胸が痛んだ。
あんな怪我をして、俺を背負って、魔物と戦いながら村まで歩いたのか。
どう考えても、俺が助けたなんて言えない。
助けられたのは俺の方だ。
「だったら、なおさら俺が行きます」
「ですが、一番悪いのは、誰にも告げずに危険な場所へ入ったこの子です」
セラさんが、布団で眠るユラへ顔を向ける。
「目を覚ましたら、たっぷり叱らなくてはいけませんね」
泣いて赤くなった目元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「それなら、絶対に起こさないと駄目ですね」
「はい」
セラさんが小さく頷く。
俺はユラのそばへ戻り、冷たい手を握った。
「俺が弱かったせいで、お前にここまでさせた」
返事はない。
それでも、指先にはまだ体温が残っている。
「だから、もう少しだけ待ってろ」
今度こそ、俺の番だ。
「絶対に助けるからな、ユラ」




