ユラの戦い
21
焦げた臭いで、目が覚めました。
「……ナオト、さん?」
返事はありません。
身体を起こそうとしただけで、頭の中がぐらりと揺れます。喉は渇き、手足にもほとんど力が入りません。
そうでした。
わたしは残っていた魔力をすべて使い、倒れてしまったのです。
旦那様は?
慌てて顔を上げると、すぐ横にナオトさんが倒れていました。
「旦那様……?」
うつ伏せに近い姿勢で、少しも動きません。
服は何か所も裂け、全身が血と土で汚れています。脇腹には深い傷があり、その周りは今も赤く濡れていました。
そして、左腕は肘から先がありません。
「え……?」
何が起こったのか、すぐには理解できませんでした。
目を閉じて、もう一度開きます。
それでも、なくなった腕は戻りません。
「そんな……どうして……」
旦那様の左腕へ手を伸ばしかけ、止めました。
触れていいのかも分かりません。残った腕の先からは、まだ血が流れています。
床に広がる血の量を見て、息が詰まりました。
わたしが倒れている間に、一人で戦ったのです。
あの巨大なムカデを相手に。
こんな姿になるまで。
「わたしの、せいで……」
視界が滲み、涙が頬を伝いました。
ですが、泣いている場合ではありません。
旦那様の胸元へ耳を当てます。
弱いですが、心臓は動いていました。口元へ頬を寄せると、かすかな息も感じます。
生きています。
まだ、間に合います。
しかし持ってきた治癒の呪符は、ここへ来るまでに使い切っています。
代わりになる薬もありません。
それでも、血だけは止めなければ。
わたしは震える指を、なくなった腕の先へ向けました。
魔力はほとんど残っていません。ですが、倒れてから少し時間が経ったのでしょう。指先へ集められる程度には戻っています。
小さな火を作ります。
明かりに使うよりも弱く、細い炎です。
「ごめんなさい。少しだけ……我慢してください」
傷口へ炎を近づけました。
じゅっ、と嫌な音が鳴ります。
肉の焼ける臭いが鼻を刺し、吐き気が込み上げました。ナオトさんの身体が小さく震え、喉から苦しそうな声が漏れます。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
涙で傷が見えにくくなり、何度も腕で目元を拭いました。
焼く範囲は最小限に。
周りの肉まで必要以上に傷つけてはいけません。
炎を止めて確認すると、腕からの出血はかなり少なくなっていました。
次は脇腹です。
服の使えそうな部分を短剣で切り、折り重ねて傷口へ押し当てます。その上から細く裂いた布を何重にも巻き、強く縛りました。
これで完全に止まったわけではありません。
長くは持たないでしょう。
「起きてください、旦那様」
頬へ触れて呼びかけます。
「もう倒しましたよ。帰れます。ですから、目を開けてください」
返事はありません。
待っていても、旦那様の血は減り続けます。
わたしが連れて帰るしかありません。
顔を上げると、あれほど大きかったムカデの姿は消えていました。
床には砕けた外殻と焼け焦げた跡だけが残っています。
本当に、一人で倒したのですね。
「すごいです、旦那様……」
もっと早く目を覚ましたかった。
最後まで一緒に戦いたかった。
ですが、今さら悔やんでも旦那様の傷は治りません。
広間の奥では、光の粒が集まり、転移陣を作っていました。その手前には、握り拳ほどのオーブが浮かんでいます。
淡い光を放つ、見たことのないオーブ。
「あれが、初回踏破の報酬……」
あれほど欲しかった物です。
初回踏破の報酬を手に入れるために、父様の言いつけを破り、一人でダンジョンへ入りました。
ですが今は、中身を確かめたいと思いませんでした。
旦那様が命懸けで手に入れた物です。
持って帰り、旦那様が目を覚ましてから一緒に確認します。
まずは立たなければ。
床へ両手をつき、脚に力を込めました。
「ひゃうっ……!」
負傷した脚へ激痛が走り、腕が折れました。
危うく顔から床へ倒れそうになり、慌てて身体を支えます。
「い、痛……これは、かなり……」
少し動かすだけでも、足先まで痛みが響きます。
ですが、動かないわけではありません。
「立つのです、わたし……!」
もう一度、脚へ力を込めます。
歯を食いしばり、岩へ手をつきながら身体を持ち上げました。
痛い。
怖い。
ここから村まで歩ける自信なんてありません。
それでも、わたしがやらなければ、旦那様が死んでしまいます。
「大丈夫です。歩けます。まだ、歩けますから……」
誰に言い聞かせているのか、自分でも分かりません。
一歩ずつ進み、ナオトさんの前でしゃがみます。
残った右腕を自分の肩へ回し、背負うように身体を持ち上げました。
「重っ……!」
予想していたより、ずっと重いです。
膝が床へつきかけました。
それでも、身体の奥には以前より強い力を感じます。
ムカデを倒したことで、わたしも経験値を得たのでしょうか。そうでなければ、怪我をした脚で男の人を背負えるはずがありません。
ナオトさんの身体が落ちないよう、裂いた布で自分と結びます。
黒曜鉄の斧が近くに落ちていました。
持っていきたい。
旦那様が大切に使っていた武器です。
ですが片手を離しただけで、ナオトさんの身体が大きく傾きました。
「申し訳ありません……必ず取りに戻ります」
今は旦那様を運ぶだけで精いっぱいです。
わたしは斧を残し、転移陣へ向かいました。
手前に浮かんでいたオーブを鞄へ入れます。
そして旦那様を背負ったまま、転移陣へ足を踏み入れました。
◇
光が消えると、目の前に森が広がっていました。
振り返れば、石で作られたダンジョンの入り口があります。
「帰って……来られたのですね」
やっと外へ出られました。
ですが、村へ着いたわけではありません。
ここから村までは、元気なときのわたしでも3時間ほどかかります。
怪我をした脚で、旦那様を背負ったままなら、どれだけかかるのでしょう。
考えても仕方ありません。
「行きましょう、旦那様。村へ帰るんです」
返事のない旦那様へ話しかけ、森の中を歩き始めました。
◇
どれくらい歩いたのでしょうか。
空を見上げる余裕もなく、今が何刻なのかも分かりません。
負傷した脚は、もう痛みを通り越して感覚がなくなっていました。
何度転んだかも覚えていません。そのたびにナオトさんを地面へぶつけないよう、膝や手をつきました。
血の臭いに引かれたのか、途中で魔物にも襲われました。
最初は一匹。
次は二匹。
そのたびにナオトさんを木の根元へ寝かせ、威力を抑えた火炎魔法で追い払いました。
魔力を使いすぎてはいけません。
ですが弱すぎれば倒せず、また襲ってきます。
使える魔力は、少しずつ減っていました。
それでも、村へ近づいているはずです。
きっと、あと少しです。
「ガルルルル……」
前方の茂みから、低い唸り声が聞こえました。
立ち止まり、顔を上げます。
灰色の狼が一匹、茂みの奥から姿を現しました。
右から二匹。
左からも二匹。
「五匹……」
今までで一番多い。
なんて悪いタイミングなのでしょう。
わたしはナオトさんを木の根元へ寝かせ、その前に立ちました。
脚が震えます。
魔力もほとんど残っていません。
それを分かっているのか、狼たちはすぐには飛びかかってきませんでした。低く身を伏せ、少しずつ距離を詰めてきます。
まず、数を減らします。
両手の前へ、それぞれ小さな火球を作りました。
大きさはいりません。
低級の魔物を倒せるだけの熱を、内側へ圧縮します。
「くらいなさい!」
二つの火球を、左右から近づいていた狼へ放ちました。
狼たちは避けることもできず、火球をまともに受けます。
二匹の身体が炎に包まれ、地面を転がりました。
残りは三匹。
仲間が焼かれても、逃げようとしません。
狼たちの視線は、わたしではなく、後ろで倒れているナオトさんへ向いていました。
「よほど、お腹が空いているのですね……」
一匹が横へ回ろうとします。
通すわけにはいきません。
「旦那様も、わたしも、あなたたちに食べさせるつもりはありません!」
三匹が同時に地面を蹴りました。
別々に狙う余裕はありません。
両手を前へ突き出し、残った魔力を炎へ変えます。
「来ないでくださいっ!」
扇状に炎を放ちました。
赤い炎が目の前を埋め、飛びかかってきた狼たちをまとめて呑み込みます。
悲鳴が聞こえました。
肉と毛の焼ける臭いが広がります。
やった。
そう思い、炎を止めた瞬間でした。
赤い光の向こうから、一匹の狼が飛び出してきます。
「えっ――」
避けられませんでした。
狼の身体がぶつかり、背中から地面へ倒れます。
次の瞬間、鋭い牙が脇腹へ食い込みました。
「あああああっ!」
身体を引き裂かれるような痛みに、声が止まりません。
狼は火傷を負いながらも、顎へさらに力を込めてきます。
このままでは駄目です。
旦那様が、すぐ後ろにいます。
「離して……くださいっ!」
腰の短剣を抜きました。
狼の首へ突き刺します。
一度では止まりません。
もう一度。
さらに深く、力いっぱい押し込みます。
狼の顎から力が抜けました。
牙が脇腹から外れ、その身体がわたしの上へ倒れてきます。
どうにか押し退けましたが、立ち上がれません。
脇腹から流れた血が、服を濡らしていきます。
「そんな……ここまで、来たのに……」
腕の力だけで身体を引きずり、ナオトさんのところへ向かいました。
眠ったままの顔へ、震える指で触れます。
「大丈夫です。わたしが……連れて帰りますから……」
返事はありません。
視界が狭くなっていきます。
まだ倒れてはいけません。
せめて、もう少しだけでも村へ近づかなければ。
地面へ爪を立て、身体を前へ引きずります。
一度。
もう一度。
ですが、ほとんど進めませんでした。
「動いて……一緒に帰るのでしょう……」
腕にも力が入りません。
木々の形が滲み、目を開けていることさえ難しくなってきました。
そのとき、遠くから声が聞こえました。
「おい! こっちに血の跡があるぞ!」
人の声です。
聞き間違いかもしれないと思いました。
ですが、足音は少しずつ近づいてきます。
「ユラ嬢だ! ユラ嬢がいたぞ!」
「こっちだ! 早く来てくれ!」
知っている声でした。
村の人たちです。
「よかっ……た……」
これで、旦那様を助けてもらえます。
もう、一人で歩かなくてもいいのですね。
「ナオトさんを……先に……」
声になったかは分かりません。
誰かが駆け寄ってくる姿を最後に、わたしは目を閉じました。




