ユラ
20
「ユラ! 弟を連れて、母様たちと倉へ入れ!」
父様の声が、村中に響いていました。
十年前。わたしが九歳だった頃のことです。
父様は当時三十五歳で、すでに村長を務めていました。
普段は声を荒らげることもなく、いつも背筋を伸ばしています。ですが、一度「駄目だ」と言えば、二人の母様が口を挟んでも簡単には曲げない人でした。
父様には、妻が二人います。
わたしを産んだ母様は、白い髪を長く伸ばした綺麗な人です。わたしが転んで服を泥だらけにしても、「あらあら」と笑ってから傷の心配をします。
弟を産んだもう一人の母様は、何でもきっちりしていました。村の帳簿から家の食料まで把握していて、父様が忘れている予定も全部覚えています。
叱ると怖いですが、わたしが熱を出した夜には、朝まで手を握ってくれました。
二人とも、わたしの大切な母様です。
「ユラ、早くこちらへ!」
「姉上、遅いぞ!」
「あなたが服を掴んでいるからでしょう!」
弟とは母親が違いますが、そんなことを気にしたことはありません。
ただ、少し生意気です。
普段からわたしの後ろをついて回るくせに、目が合うと「別に姉上を見ていたわけじゃない」と言います。
わたしを馬鹿にした村の子と喧嘩して帰ってきたときも、最後まで理由を話しませんでした。顔にも服にも泥をつけて、耳だけ真っ赤にしていたので、聞かなくても分かりましたけど。
そんな弟が、あの日はわたしの服を掴んで震えていました。
村の外から、魔物の鳴き声が聞こえていたからです。
わたしたちの村には、獣人が多く暮らしています。
狐、犬、猫、熊。耳や尻尾の形は違っても、村の中ではほとんどが顔見知りでした。
その人たちの怒鳴り声が、村の入り口から聞こえてきます。
何かが門へぶつかる音。
爪が木を削る音。
倉へ逃げる途中で振り返ると、壊れた門から何匹もの魔物がなだれ込んでくるのが見えました。
父様たちが武器を構えます。
「父様……」
「大丈夫よ。父様は強いもの」
わたしを産んだ母様が、頭を撫でてくれました。
笑っていましたが、わたしの肩へ置かれた手には力が入っています。
父様たちだけでは止められない。
子供のわたしにも、それくらいは分かりました。
そのとき、赤い光が魔物の群れへ飛び込みました。
一拍遅れて、炎が弾けます。
土煙が吹き飛び、何匹もの魔物がまとめて宙を舞いました。別の魔物が村へ入ろうとすると、今度は地面から炎の柱が噴き上がります。
魔法を放っていたのは、村の近くで依頼を受けていた冒険者の一人でした。
女の人です。
杖を軽く振るだけで炎が生まれ、狙った魔物だけを焼いていく。火の粉が飛んでも、すぐ近くの家や畑には燃え移りません。
わたしは逃げるのも忘れて、その人を見ていました。
◇
その夜、村では宴が開かれました。
助けてくれた冒険者たちを囲み、肉や酒が次々と運ばれていきます。
わたしは母様たちの料理を手伝っていましたが、あの魔法が頭から離れませんでした。
なので父様や母様に気づかれないように、わたしは魔法使いのお姉さんのところへ走りました。
お姉さんは宴の席でお酒をいっぱい飲んでいました。
樽から直です。
「どうやったら、あんなにすごい魔法を使えるの?」
お姉さんは少し考えたあと、両手を使って説明してくれました。
「そうですね。例えば今日使っていた焔の魔法だったら、魔力をギュッと縮めて、パッと発射。そして敵に当たった瞬間にパーンと弾けさせます」
「な、なるほど!」
当時のわたしは、それで分かったつもりになりました。
宴が終わった翌日から、何度も手のひらへ力を込めました。
魔力をギュッと縮めて、パッと出す。
何度試しても、指先からは煙すら出ませんでした。
◇
十二歳になったわたしの部屋には、魔法の本が山ほど積まれていました。
あの日から父様へ頼み続け、行商人が村へ来るたびに買ってもらったものです。
村長といっても、小さな村の長に大した贅沢ができるわけではありません。それでも父様は、本だけはできる限り買ってくれました。
そして本を読めば読むほど、一つ分かったことがあります。
あの魔法使いのお姉さんは、教えるのがものすごく下手でした。
ギュッとして、パッと出して、パーンと弾けさせる。
そこが一番難しいのです。
魔法は、魔力を炎や風へ変え、望んだ形で放つ技術です。
スキルがなくても使えると本には書かれていました。ですが、魔力を集め、性質を変え、形を保ち、狙いを定める。それを頭の中だけで同時に行わなければなりません。
《火魔法》のようなスキルを持っていれば、その難しい部分をスキルが助けてくれます。
持っていないわたしがいくら手を伸ばしても、炎へ変わる前に魔力が散ってしまいました。
同じ頃、村の子供たちには次々とスキルが発現していました。
《剣術》を得た子は、大人に混じって木剣を振り始めました。《俊足》を得た子は、村の端から端まで走り回っています。家の仕事に合ったスキルを得て、すぐに手伝いを始める子もいました。
わたしには、何も発現しませんでした。
「村長の娘なのに、スキルなしなんだって」
「本ばかり読んでも、魔法は使えないのにな」
聞こえないふりをして、本を開きます。
あんなことを言われても、魔法を諦めることはできませんでした。
あの日に見た炎が、どうしても使いたかったのです。
そんなとき、一冊の古い本で《魔術》の存在を知りました。
魔術は、魔法を使うための複雑な工程を、術式へ任せる技術です。
魔石を砕いた粉で紙や板に回路を描き、どこから魔力を入れ、何へ変え、どの方向へ放つのかを先に決めておく。
線が少し太いだけで流れる魔力が変わります。角度を間違えれば発動せず、途中で回路が切れれば、込めた魔力が逆流することもあります。
しかも、同じ大きさの火球を作るなら、魔法より多くの魔力が必要です。
紙も術式液も、一度使えばほとんど残りません。何時間もかけて呪符を一枚作り、使えるのは一度だけ。
時間がかかる。
お金もかかる。
失敗も多い。
効率だけを比べれば、魔法に勝てるところはありません。
でも、術式さえ完成させれば、スキルのないわたしでも炎を出せます。
「これです!」
椅子を蹴って立ち上がり、机に膝をぶつけました。
痛かったですが、それどころではありません。
最初に描いた術式は、魔力を流しても光りませんでした。
二枚目は途中で焦げ、三枚目は火が出たものの、指先ほどの大きさですぐに消えました。
四枚目で机を焦がし、弟を産んだ母様から叱られました。
「次からは外でやりなさい」
「でも、火は出ました!」
「それは凄いことですが、机から出す必要はありません」
わたしを産んだ母様は、黒くなった机を見て「あらあら、ちゃんと成功したのね」と喜んでくれました。
父様は完成した呪符と焦げた机を見比べ、新しい紙を買うためのお金を出してくれました。
「家は燃やすなよ」
言ったのは、それだけでした。
◇
それから七年。
十九歳になっても、わたしには一つのスキルも発現しませんでした。
もう待つのはやめました。
わたしは魔術師として生きていく。
そう決めてからは、前より勉強に集中できました。
今では、途切れた術式を見れば、どこを繋げば再び使えるか分かります。火球の範囲を狭くして威力を上げたり、治癒の対象を傷口だけに絞って魔力の消費を抑えたりもできます。
呪符を作る腕なら、その辺の魔術師には負けないつもりです。
ただ、材料が足りません。
強い魔術には、質のいい魔石や高価な術式紙が必要です。完成した呪符を売り、そのお金で次の材料を買っても、安定して作れるのは治癒と火球の呪符くらいでした。
魔術は好きです。
術式を少し変えただけで、火の大きさや弾ける方向が変わります。失敗した理由を見つけ、次の一枚で直せたときは、食事を忘れるほど嬉しくなりました。
それでも、魔法使いを見ると目で追ってしまいます。
呪符を用意しなくても、その場で炎を生み出せる。相手が動けば狙いを変え、火力が足りなければさらに魔力を注げる。
魔術とは違い、その場で自由に変えられます。
羨ましい。
わたしも使いたい。
一度そう思うと、いくら魔術の本を読んでも消えてはくれませんでした。
転機が来たのは、父様の部屋へ村の狩人が報告に来た日です。
「森の奥で、見たことのない石の入り口を見つけました。中から緑色の光が漏れています」
廊下を通りかかったわたしは、足を止めました。
石でできた入り口。
内部から漏れる光。
手持ちの文献にあった、新生ダンジョンの特徴と同じです。
生まれたばかりのダンジョンは、古いものより階層が浅く、出現する魔物も弱いことが多い。
そして、最初に踏破した者へ特別な力や宝を与えるのがダンジョンです。
もしかしたら、スキルが手に入るかもしれない。
父様の部屋から狩人が出てくるのを待ち、わたしはすぐに中へ入りました。
「お父様。ダンジョンの調査に、わたしも同行させてください」
「駄目だ」
返事が早すぎます。
「まだ何も説明していません」
「魔物と戦った経験は?」
「ありません。ですが、魔物については勉強しています。火球の呪符もあります」
「知っていることと、実際に戦えることは違う」
「浅いダンジョンなら、わたしの呪符でも十分です」
「却下だ」
父様は机の書類へ視線を戻しました。
「先遣隊は、いつ出るのですか?」
「明後日だ。お前は村に残れ」
「ですが――」
「ユラ」
低い声で名前を呼ばれ、それ以上は言えなくなりました。
部屋を出たあとも、足が動きませんでした。
先遣隊が先に踏破すれば、初回の報酬はなくなります。
次にダンジョンが生まれるのは、何年後でしょう。次も村の近くに現れるとは限りません。
これが最後の機会かもしれない。
そう考え始めると、朝まで待つことができませんでした。
「……先に行くしかありません」
火球と治癒の呪符。
魔物避けの香。
水と少しの食料。
必要だと思った物を鞄へ詰め、夜明け前に一人で村を出ました。
実戦経験のないわたしが、誰にも行き先を告げず、十分に休みもしないまま森を急いだのです。
父様が知れば、間違いなく止めます。
だから、止められる前に行かなければならない。
そのときは、それで筋が通っていると思っていました。
◇
ダンジョンの入り口へ着いた頃には、息が切れていました。
石壁の隙間から、淡い緑色の光が漏れています。文献に載っていた特徴と同じでした。
入り口の前へ立つと、急に足が動かなくなります。
今から村へ戻れば、父様には怒られるでしょうが、少なくとも死ぬことはありません。
「……やはり、帰りましょう」
口に出すと、少し気が楽になりました。
せっかくここまで来たので、入り口だけ記録して帰ることにします。
中には入りません。
少し見るだけです。
入り口から顔を覗かせると、壁の奥で細い線が光っていました。
「術式……?」
見たことのない形です。
光る線が枝分かれし、別の線と繋がりながら壁の奥へ続いています。どこから魔力を取り込み、何のために流しているのか、少し見ただけでは分かりません。
一歩だけ中へ入りました。
本当に、一歩だけのつもりでした。
もう少し近くで見れば、線の繋がりが分かるかもしれない。
気づけば、入り口から十歩以上進んでいました。
床の模様が光ったのは、その直後です。
「えっ?」
足元から緑色の光が噴き上がります。
戻ろうとしましたが、間に合いませんでした。
身体が下へ落ちたような感覚のあと、わたしは見知らぬ通路に立っていました。
振り返っても、入り口はありません。
「転移罠……?」
文献で読んだことがあります。
踏んだ者を、別の階層へ飛ばす罠です。
知識はありました。
だからといって、帰り道が分かるわけではありません。
「まずい、まずい、まずい……」
鞄を抱え、周囲を見回します。
右も左も、同じ緑色の石壁です。入り口がどちらにあるのか、それどころか、ここが何階なのかも分かりません。
爪が床を掻く音がしました。
通路の奥から、殻ネズミが現れます。
一匹ではありません。
二匹、三匹。その後ろからも続き、全部で五匹。
弱点は知っています。
背中の殻は硬いですが、火には強くありません。
すぐに火球の呪符を使えば倒せます。
分かっているのに、手が動きませんでした。
殻ネズミが床を蹴ります。
「ひっ……!」
慌てて鞄から呪符を引き抜き、魔力を流しました。
赤く光った呪符を投げる。
火球は先頭の殻ネズミを外れ、横の壁で弾けました。
「違う、そっちではありません!」
言っても、火球が戻ってくるはずはありません。
二枚目を使います。
今度は一匹へ直撃し、炎が殻の隙間まで入り込みました。
倒せる。
そう分かってからは、何とか手が動きました。
迫ってくる殻ネズミへ、火球の呪符を一枚ずつ使います。
最後の一匹が動かなくなったとき、わたしは壁へ背中をついて座り込みました。
「た、倒しました……」
五匹とも倒せました。
ですが、外した一枚も含め、火球の呪符はほとんど残っていません。
「落ち着いて。まずは出口です」
魔物避けの香へ火をつけます。
すべての魔物に効くものではありませんが、匂いを嫌う魔物なら近づきにくくなります。煙が続くうちに、転移罠か上へ続く階段を探すしかありません。
壁へ印をつけながら、通路を進みました。
分かれ道を右へ曲がり、次は左。
その先は行き止まりでした。
戻って別の道へ入っても、似た通路が続くだけです。
香が短くなっていきます。
遠くから、また爪音が聞こえ始めました。
「まだです。まだ、出口は見つかってないんです」
残った香を振りながら走ります。
角を曲がるたびに別の魔物と出くわし、避けようと道を変えるうちに、自分がどこを進んでいるのかも分からなくなりました。
最後の火球を使い、鞄の中を探ります。
残っているのは、治癒の呪符と術式用の筆、少量の術式液だけです。
前から殻ネズミが来ました。
後ろからも爪音が近づいています。
逃げようとして足がもつれ、床へ倒れました。
立たなければいけないのに、腕に力が入りません。
「無理です……」
死ぬんだ。
こんな場所に、誰かが来るはずもありません。
魔法も使えないまま、自分が間抜けなせいで死ぬ。
父様の言うことを聞いていればよかった。
母様たちは、わたしがいなくなったことに気づいているでしょうか。
弟は、また姉上は勝手だと怒るでしょうか。
殻ネズミが近づいてきます。
もうダメだと思っときでした。
通路の向こうからこっちにネズミの足音とは違う、誰かが駆けてくる音が聞こえます。
「おい!大丈ーー」
「大丈夫じゃないです!助けてくださいっ!」
◇
ズルすぎます。
こんなの、惚れない方が無理です。
もう誰も来ないと思っていました。
あと少し遅ければ、わたしは殻ネズミに食べられていたのです。
そこへ一人で飛び込んできて、助けてくれました。
そりゃ好きにもなりますよ。
わたしはこれまで、魔術の勉強ばかりしてきました。恋なんてしたことがありません。
だから、これが命を助けられた勢いなのか、本当に好きなのかなんて分かりませんでした。
でも、こんな出会いが何度もあるはずはありません。
もしかしたら、ナオトさんがわたしの運命の人なのかも。
そう考えるくらいは、仕方がないと思います。
◇
「結婚しましょう、ナオトさん!」
スキルオーブ。
それも、ずっと欲しかった《火炎魔法》。
普通なら一生かけても手に入らないほど高価な物です。
ナオトさんは命を助けてくれただけでなく、わたしが欲しかった魔法まで目の前へ出しました。
凄すぎます。
ここまでくると、わたしのために現れた人だと思っても仕方がないのでは?
しかも、ナオトさんはスキルのないわたしを笑いませんでした。呪符が役に立つと、本気で信じてくれています。
この人を逃したら、次はありません。
結婚して、二人でここを出る。
ついでに妻となったわたしが《火炎魔法》を使えば、全部綺麗に収まります。
完璧です。
◇
初めて使った魔法は、失敗でした。
何ですか、あの小さな火は。
火球と呼ぶのも恥ずかしい大きさです。十年間も魔法を勉強してきたわたしが、あの程度で満足できるはずがありません。
ですが、わたしも素人ではありません。
魔術で何度も炎の術式を組んできました。魔力を集める場所も、炎へ変えるまでの流れも知っています。
あとは、スキルに合わせて調整するだけです。
簡単に決まっています。
少し大きくしすぎて、魔力が空になるまで止められなかったのは、最初だからです。
次は、倒れる直前で止められます。
◇
そして、ついに最下層まで辿り着きました。
この先を越えれば、わたしたちは地上へ帰れるはずです。
旦那様と一緒に村へ帰るのです。
まずは父様と二人の母様へ挨拶をします。
父様は怖い顔をするでしょうが、ナオトさんなら、きっと認めてもらえます。母様たちは突然のことにビックリするでしょうが祝福してくれるでしょう。弟は私のことが大好きなので不貞腐れるかも知れません……
それから結婚式です。
これで、わたしも行き遅れから解放されます。
子供は五人くらい欲しいですね。
男の子なら、旦那様に訓練をつけてもらいましょう。ナオトさんのように、いざというとき頼りになる逞しい男の子へ育てるのです。
女の子には、わたしが魔術を教えます。
わたしのように、お淑やかで品のある女性へ育てなければいけません。
魔法も魔術も使えるようになれば、きっとすごい子になります。
ああ……楽しみです。
ナオトさんと出会ってから、今までできなかったことが次々とできるようになりました。
村へ帰ったら、やりたいことがたくさんあります。
将来のことを考えるとこんな地中でも自然と明るい気持ちになってきます。
旦那様といっしょならどこでも楽しいです。
明日もきっと……楽しいことでいっぱいです。




