ダンジョンボス
17
進んでは休み、少し進んではまた休む。
そんなことを何度か繰り返しながら、俺たちはダンジョンの奥を目指した。
ユラは休むたびに「もう大丈夫です」と言っていたが、前に魔力切れで倒れたばかりだ。今回は俺が良しと言うまで歩かせなかった。
そのおかげか、顔色も少しずつ戻っている。
魔物とは何度か遭遇したが、殻ネズミが一匹か二匹程度だった。
ユラが火球で動きを止め、俺が黒曜鉄の斧で仕留める。最初の頃に苦戦していたのが嘘みたいに、戦闘は短く終わった。
「二人だと楽だな」
「わたしの《火炎魔法》のおかげですね」
「黒曜鉄の斧も忘れるなよ」
「はい。旦那様もよくできました」
「なんで上からなんだよ」
そんなやり取りをしながら歩いていたとき、通路の先が急に明るくなった。
「なんだ?」
これまでは、洞窟の壁に埋まった緑色の石が周囲を薄く照らしていた。
だが、ここから先は違う。
地面には四角く削られた石が隙間なく敷かれ、壁には同じ間隔で松明が並んでいる。
天井や壁も平らに削られており、自然にできた洞窟には見えなかった。
ユラが石畳へしゃがみ込み、指で表面をなぞる。
「様子が変わりましたね」
「誰かが作ったみたいだな」
「文献で読んだ、最下層の特徴に酷似しています」
「じゃあここが最下層なのか?」
「おそらく」
ユラは立ち上がると、俺たちが来た通路を振り返った。
「出来たばかりのダンジョンだとは思っていましたが……ここまで浅いとは」
「浅いのか? 結構歩いた気がするけど」
「階層で考えれば、かなり浅いです。古いダンジョンの中には、最下層へ着くまで数か月かかるものもあるそうですよ」
「数か月もこんな場所にいたくないな……」
俺はもう一度、後ろの暗い通路を見た。
一日歩いただけでも、似たような景色ばかりで気がおかしくなりそうだった。それを数か月なんて絶対に無理だ。
「でも、生まれたばかりなら浅いのが普通じゃないのか?」
「違います。基本的に、生まれたばかりのダンジョンはすぐに地上へ入り口を作りません」
「作らない?」
「はい。地中で隠れたまま成長し、ある程度の広さと力を得てから地上へ出てくると言われています」
「なんでわざわざ隠れるんだ?」
「弱いうちに発見されれば、すぐに攻略されてしまうからです。ダンジョンも消滅したくはないのでしょう」
「そんなことまで考えてるのか、ダンジョンって」
「人間と同じように考えているかは分かりません。単なる生存本能かもしれませんし、別の理由がある可能性も――」
「分かった。そこはまだ分からないんだな」
放っておくと説明がどこまでも続きそうなので止めた。
ユラは少し不満そうだったが、咳払いをして話を戻す。
「とにかく、これほど小さいうちから地上へ出てきたということは、このダンジョンの主はかなり頭が足りない可能性があります」
「随分な言い方だな」
「あるいは、成長を待つ必要がないほど自分の力に自信があるかですね」
「そっちだったら嫌だな」
「あとは、その両方でしょうか」
「一番嫌なやつを最後に足すなよ!」
頭が足りないうえに、妙に強い。
考えなしに地上へ出てきた化け物ということになる。
「まあ、考えても仕方ないか」
「そうですね。結局は倒さないと外に出られませんし」
ユラはそう答えたが、声が少し硬かった。
俺たちは石畳の通路を進んだ。
魔物は出てこない。
それが逆に気味が悪い。
松明の火が揺れる音と、俺たちの足音だけが続いている。
やがて、通路の突き当たりに大きな扉が見えた。
石でできた両開きの扉だ。俺の身長の三倍以上あり、二枚の扉を合わせた中央には、何本もの曲がった線が彫られている。
遠目には模様だと思ったが、近づいてみると虫の脚にも見えた。
「おそらく、この先にボスがいます」
「いよいよか……」
分かってはいた。
それでも、扉を前にして改めて言われると逃げたくなる。
ここまで出てきた魔物とは明らかに格が違う奴が、この向こうにいる。
「先に準備をしましょう」
「お、おう。そうだな」
俺は扉から少し離れ、背負っていた荷物を下ろした。
《収納》から水筒を取り出し、口を湿らせる程度に飲む。ユラにも渡すと、彼女は二口だけ飲んで返してきた。
「魔力はどれくらい戻った?」
「かなり戻りました。先ほど殻ネズミに使った程度の火球なら、あと五発ほどです。出力を抑えれば、もう少し撃てます」
信用していいのだろうか。
「旦那様の方は?」
「《リプレイ》はまだ使える。けど、何回使えるかは分からない」
「分からないのですか?」
「残りの魔力が数字で見えるだけで、一回ごとの消費量までは出ないんだよ」
「今まで調べていなかったのですか?」
「行動の長さで変わるところまでは調べた! 戦いの途中で一回ずつ消費量を数える余裕がなかったんだよ!」
「帰ったら検証しましょう」
「帰ってからな」
帰れたら、ではない。
無理やりそう言い直した。
治癒の呪符はもう残っていない。一度でも大怪我をすれば、その状態で戦い続けることになる。
俺は黒曜鉄の斧を何度か軽く振り、柄を握り直した。
ユラも服についた埃を払い、髪を後ろでまとめている。表情は真剣だが、尻尾の先が落ち着きなく動いていた。
「怖いか?」
「……平気です」
「俺は怖いぞ」
「それを今言いますか?」
「怖いもんは怖い。でも、行くしかないんだろ」
ユラは扉を見たまま、小さく頷いた。
「はい。行きましょう」
俺は斧を構え、扉へ手をかけた。
「開けるぞ」
「いつでも」
重い。
両手で力を込めると、石の扉が床を擦りながらゆっくりと開いていく。
隙間から冷たい風が吹きつけてきた。
中は暗い。
松明の光も、部屋の奥までは届いていない。
「よし……入るぞ」
先に俺が入り、ユラがすぐ後ろから続く。
何歩か進んだところで、壁に並んだ火が一斉に灯った。
「うおっ!」
照らし出された空間を見て、足が止まる。
広い。
今まで通ってきた部屋とは比べものにならない。
小学校のグラウンドなら、そのまま中へ入るんじゃないかと思うほどだった。
天井は遠く、そこから岩の槍みたいな突起が何本も垂れ下がっている。地面からも大小の岩が突き出し、まっすぐ向こう側まで走れる場所は少ない。
「で、でけぇ……」
「ナオトさん。油断しないでください。もうここはボス部屋です」
「おう。分かってる」
黒曜鉄の斧を両手で握る。
正面には何もいない。
左右にも、動いているものは見えなかった。
「ボスはどこだ?」
「分かりません。ですが、必ずどこかに――」
カサッ。
小さな音が聞こえた。
続けて、カサカサカサカサ、と無数の硬いものが岩を引っかく音が広がっていく。
音は一か所からではない。
壁に空いた穴の奥を、何かが這い回っている。
石畳が細かく揺れ始めた。
「な、なんだよこれ……」
「来ます!」
右側の壁が弾けた。
砕けた石を撒き散らし、穴の中から巨大な頭が飛び出してくる。
二本の触角。
横へ開く太い牙。
茶色い甲殻に覆われた身体が、次から次へと穴から這い出てきた。
大きなムカデだ。
それも、全長十メートルはある。
「ボスもデケェ!」
「何を感心しているのですか!」
数え切れないほどの脚が地面を掴み、長い身体を前へ運ぶ。
巨大ムカデは地面から突き出た岩へ巻きつくと、上半身を持ち上げた。
俺たちを見ている。
目がどこにあるのか分かりづらいのに、狙われていることだけは嫌でも分かった。
「いや、あれは無理だろ……」
「まだ何もしていまんし、やる前から無理とか言わないででください!」
「何もされてないうちに逃げたいんだよ!」
逃げ道を探して視線を動かす。
入ってきた扉は、いつの間にか閉まっていた。
やっぱり、戻ることはできない。
そのまま反対側の壁を見たとき、岩の隙間から青白い光が見えた。
「なあ、ユラ。あそこにあるのって……」
「え?」
ユラが俺の指した方を見る。
「あっ、転移陣です!」
部屋の一番奥。
地面に描かれた円形の模様が、淡い光を放っている。
「ボスを倒さなくても使えるのか?」
「光っているなら、おそらく!」
「じゃあ、あそこまで走れば帰れるんだな!」
「はい!」
ユラは巨大ムカデと転移陣を見比べた。
ほんの一瞬だけ迷い、俺の袖を掴む。
「倒す必要はありません。転移陣まで走りましょう」
「よし。岩に隠れながら行くぞ」
俺たちは同時に駆け出した。
巨大ムカデを大きく避け、岩の多い左側を進む。
こいつがどれだけ速いのかは分からない。それでも、十メートルの身体で岩の間を曲がるのは難しいはずだ。
そう思っていた。
巨大ムカデの身体が岩から離れる。
無数の脚が一斉に動いた。
「速っ!」
長い身体を波打たせ、岩の間を滑るように進んでくる。
俺たちが転移陣まで半分も進まないうちに、巨大ムカデが前へ回り込んだ。
太い身体が岩へ巻きつき、完全に道を塞ぐ。
「簡単には通してくれないか……」
「邪魔しないでください!」
ユラが右手を突き出した。
手のひらの先へ炎が集まり、圧縮された火球が撃ち出される。
巨大ムカデの頭へ直撃した。
ドンッ!
炎が弾け、頭を覆う甲殻の一部が黒く焦げる。
巨大ムカデが上半身をのけ反らせた。
「効いてるぞ!」
「表面だけです! ですが、続ければダメージは通ります!」
「じゃあ、俺が近くで引きつける!」
「無茶はしないでください!」
「今さらだろ!」
転移陣へ行くには、こいつを退かすしかない。
斧を担ぎ、巨大ムカデへ向かって走る。
頭がこちらへ向いた。
左右へ開いた牙の間から、ぬめった口が見える。
「うわっ、気持ち悪い!」
巨大ムカデが頭を突き出した。
噛みつかれる直前、俺は右へ跳ぶ。
「《リプレイ》!」
身体が以前に登録した回避の動きをなぞった。
右足で地面を蹴り、大きく横へ踏み込む。
牙は避けた。
だが、巨大ムカデの前脚が進んだ先へ伸びてくる。
まずい。
そう思った瞬間、踏み込んだ足の位置がわずかにずれた。
身体が勝手に半歩深く入り、前脚の先がシャツを掠めて通り過ぎる。
「これが行動補正か!」
小さな違いだった。
それでも今の半歩がなければ、脇腹を裂かれていた。
巨大ムカデの頭が、俺の横を通り過ぎる。
さっきの火球が当たった場所は、甲殻の隙間から煙を上げていた。
「そこだ!」
黒曜鉄の斧を振り下ろす。
刃が焦げた甲殻へ食い込み、一枚を叩き割った。
中から黒い液体が飛び散る。
巨大ムカデが身体を捻った。
「うおっ!」
横から胴体をぶつけられ、地面を転がる。
背中が岩へ当たり、息が止まった。
「旦那様!」
「だ、大丈夫だ!」
痛い。
背中だけじゃない。斧を握っていた右腕まで痺れている。
それでも、骨は折れていない。
巨大ムカデが倒れた俺へ頭を向ける。
「こっちです!」
二発目の火球が横から飛んできた。
巨大ムカデの顔へ命中し、爆発する。
頭が押し戻された。
「助かった!」
「早く立ってください!」
「分かってる!」
斧を杖にして立ち上がる。
巨大ムカデは、火球を撃ったユラへ向きを変えた。
今度は頭だけではない。
地面から突き出た岩へ身体を巻きつけ、後ろ半分を大きく持ち上げる。
「ユラ! 後ろだ!」
「えっ?」
巨大ムカデの長い身体が、岩を中心に振り回された。
ユラが横へ跳ぶ。
直撃は避けた。
だが、身体の先端が右脚へ引っかかった。
「きゃっ!」
ユラの身体が地面へ投げ出される。
そのまま二度転がり、岩の根元で止まった。
「ユラ!」
「大丈夫です! 戦ってください!」
ユラが立とうとする。
右足を地面へついた瞬間、顔が歪んだ。
すぐに座り込む。
大丈夫なわけがない。
巨大ムカデの頭が、倒れたユラへ向かう。
「させるかよ!」
果物ナイフを取り出す。
狙うのは頭の横にある、小さな黒い目だ。
「《リプレイ》!」
身体が投擲の動きを再現する。
巨大ムカデが頭を振った。
それに合わせるように、ナイフを放す直前で俺の手首が少しだけ内側へ動く。
果物ナイフは頭の横へ突き刺さった。
目には外れた。
それでも、すぐ近くの柔らかい部分へ刃が入ったらしい。
巨大ムカデが頭を振り、狙いを俺へ戻した。
「こっちへ来い!」
地面を蹴り、ユラから離れる。
巨大ムカデが追ってきた。
速い。
岩を挟んでも、身体を左右へ曲げて簡単に抜けてくる。
牙が背中へ迫る。
振り返りながら、斧を横へ振った。
刃が牙へ当たり、硬い音が響く。
一本を弾いたが、もう片方が俺の左肩を掠めた。
「ぐっ!」
シャツが裂け、肩に熱い痛みが走る。
血が出ている。
深くはない。腕も動く。
「ナオトさん、伏せて!」
考える前に頭を下げる。
火球が頭上を飛び、巨大ムカデの首へ直撃した。
さっき俺が斧で割った場所だ。
爆発で甲殻がさらに砕け、その下の肉が露出する。
巨大ムカデが痛みに暴れ、頭を岩へぶつけた。
俺はその隙に走り込む。
傷口へ斧を振り下ろした。
一撃目。
刃が肉へ食い込む。
巨大ムカデが身体を持ち上げたせいで、斧が抜けた。
反撃の前脚が飛んでくる。
柄で受け止めたが、腕ごと押し返された。
何本あるんだよ、この脚!
「旦那様、右へ!」
横から別の脚が迫っていた。
右へ逃げる。
避けきれず、先端が太腿を切った。
脚から力が抜けそうになる。
それでも、まだ動ける。
「ユラ! 魔力は!」
「あと二発です!」
「一発、さっきの傷へ頼む!」
「分かりました!」
ユラは立てないまま、岩へ背中を預けた。
両手を前へ出し、火球を作り始める。
巨大ムカデもそれに気づいた。
俺を無視して、ユラへ向かおうとする。
「お前の相手は俺だ!」
斧の刃を甲殻へ叩きつけた。
浅い。
傷にはならなかったが、巨大ムカデがこちらを向く。
牙が開く。
怖い。
一度でもまともに挟まれたら、身体ごと持っていかれる。
逃げたい。
だが、俺が退けば次に狙われるのはユラだ。
巨大ムカデが突っ込んでくる。
ぎりぎりまで待ち、横へ跳んだ。
牙が脇腹を掠める。
皮膚が裂けた。
痛みに足が止まりかけたが、奥歯を噛んで踏み込む。
「今です!」
ユラの火球が飛んだ。
巨大ムカデの首にある傷へ、真っすぐ吸い込まれる。
炎が弾けた。
黒い液体と砕けた甲殻が飛び散り、傷口が大きく開く。
「うおおおおっ!」
俺は斧を振り上げた。
巨大ムカデが頭を振り、傷を俺から遠ざけようとする。
「《リプレイ》!」
身体が、さっきと同じ振り下ろしを始める。
足の位置。
腰の回転。
肩と腕の動き。
全部が勝手に再現されていく。
だが、巨大ムカデは同じ場所にいない。
このままなら外れる。
振り下ろす途中で、俺の左足がわずかに前へ動いた。
腰の向きが変わり、斧の軌道が少しだけ横へずれる。
黒い刃が、逃げようとした傷口を捉えた。
「入れぇ!」
刃が甲殻の隙間を抜け、首の奥まで沈み込む。
巨大ムカデが全身を反らした。
無数の脚が地面を叩き、岩を削る。
斧を握ったまま振り落とされそうになり、俺は柄から手を離した。
地面へ転がる。
巨大ムカデは何度か大きく身体を捻ったあと、頭から地面へ倒れ込んだ。
首には黒曜鉄の斧が深く刺さっている。
傷口から黒い液体が流れ続けていた。
「やった……のか?」
討伐の表示は出ていない。
まだ死んでいない。
それでも、巨大ムカデの動きは明らかに鈍くなっていた。
「旦那様!」
ユラが地面を這いながら、近くの岩へ身を隠す。
「まだです! 油断しないで!」
「分かってる!」
俺は痛む脇腹を押さえながら立ち上がった。
斧は刺さったままだ。
取り戻さないと、とどめを刺せない。
巨大ムカデが頭を持ち上げる。
だが、さっきまでの速さはない。
何本もの脚が震え、身体をまともに支えられていなかった。
「いける……」
もう一度、同じ傷へ攻撃できれば終わる。
「ユラ! あと一発撃てるんだよな!」
「はい!」
「よし! 勝てるぞ!」
巨大ムカデへ向かって踏み出した、そのときだった。
無数の脚が一斉に動いた。
「なっ――」
巨大ムカデがこちらへ来る。
そう思って斧へ手を伸ばしたが、違った。
長い身体が岩へ巻きつき、そのまま壁を駆け上がっていく。
「逃げるのか?」
「いえ……何か変です」
巨大ムカデは天井まで登ると、垂れ下がった岩へ全身を巻きつけた。
脚を縮め、動かなくなる。
甲殻の隙間から白い煙が噴き出した。
「なんだ、あれ……」
煙が上がってではない。
蒸気だ。
巨大ムカデの身体が膨らみ、甲殻の内側から湿った音が聞こえてくる。
頭を覆っていた殻に、一本の亀裂が入った。
それが首から胴体へ伸びていく。
「まさか……脱皮?」
「脱皮?」
「ナオトさん、離れてください!」
頭の殻が左右へ割れた。
中から赤黒い頭が押し出される。
巨大ムカデは岩へ身体を擦りつけながら、古い殻の中から少しずつ抜け出していく。
俺がつけた首の傷。
果物ナイフが刺さった頭。
焦げて割れた甲殻。
その全部が、古い殻の側へ残されていた。
最後に尻尾が抜ける。
地面へ落ちた抜け殻には、黒曜鉄の斧が刺さったままだ。
新しく現れた巨大ムカデの身体から、さらに激しく蒸気が噴き出す。
柔らかそうだった赤黒い表皮が、見る間に暗い色へ変わっていった。
甲殻が重なり、傷一つない身体を作っていく。
潰したはずの目まで元に戻っていた。
「嘘だろ……」
あれだけ攻撃した。
何度も吹き飛ばされ、身体中を傷だらけにして、ようやく追い詰めたはずだった。
それが全部、無かったことにされた。
巨大ムカデが天井を這う。
さっきより速い。
天井から地面へ飛び降りた巨体が、部屋全体を揺らした。
転移陣との間へ着地し、頭を持ち上げる。
「ユラ……魔法は?」
「もう、ほとんど残っていません」
「あと一発は?」
「撃てます。ですが、その後は……」
ユラが右足へ力を入れようとして、すぐにやめた。
立つこともできない。
俺も肩と脇腹、太腿から血が流れている。《リプレイ》をあと何回使えるかも分からない。
黒曜鉄の斧は、天井から落ちた抜け殻に刺さったままだ。
巨大ムカデが、ゆっくりこちらへ向きを変えた。
「俺が引きつける。その間に――」
「ナオトさん」
「なんだよ」
「わたしは、もう走れません」
「分かってる。だから俺が背負って――」
「無理です」
「やってみないと分からないだろ!」
「わたしを背負ったまま、あれから逃げ切れるのですか?」
「それは……」
答えられなかった。
今の俺一人でも、転移陣まで逃げ切れるか怪しい。
巨大ムカデが動き出せば、ユラを背負う時間すらないだろう。
「ナオトさん。わたしが残りの魔力を全部使います」
「できるだけ大きな火球を撃ちます。あれが怯んだ隙に、転移陣まで走ってください」
「そんなのできるわけ――」
「聞いてください!」
ユラの強い声に、言葉が止まる。
彼女は岩へ身体を預けたまま、震える右手を前へ出した。
「わたしの命は、あのとき一度無くなっていたんです」
「あのとき?」
「殻ネズミに追い詰められたときです。ナオトさんが来なければ、わたしはあそこで死んでいました」
「だからって、今度は見捨てろっていうのかよ!」
「見捨てるのではありません。今度は、わたしが助ける番です」
「そんな勝手な――」
「わたしが決めました」
ユラは俺を見た。
怖くないはずがない。
唇が震え、火球を作ろうとする指も上手く伸びていない。
それでも、手は下ろさなかった。
「本当に、短い間でしたけど……幸せでした」
「やめろよ」
「魔法を使えて、誰かと一緒に戦えて……旦那様までできました」
「やめろって!」
ユラが少しだけ笑った。
「ありがとうございました。旦那様」
巨大ムカデが地面を蹴った。
岩の間を抜け、一直線にこちらへ向かってくる。
「行ってください!」
ユラの前に、今までで一番大きな火球が生まれた。
周囲の熱が一気に上がる。
その炎へ残った魔力を注ぎ込むと、ユラの顔から血の気が引いていった。
「これで――最後です!」
火球が放たれる。
巨大ムカデの頭へ直撃し、激しい炎が広がった。
それでも止まらない。
燃え上がる炎を突き破り、巨大ムカデが真っすぐユラへ迫る。
ユラはもう動けなかった。
力を使い果たした腕が落ち、迫ってくる牙を前に目を閉じる。
巨大ムカデの牙が閉じた。
ガギンッ!
硬い音が響いた。
ユラは恐る恐る目を開ける。
「……え?」
俺はユラの前に立っていた。
俺は《収納》から取り出した鉄の斧を横に構え、左右から迫る牙を受け止めている。
「ぐっ……!」
腕が軋む。
足が地面を滑り、斧の柄が嫌な音を立てた。
怖い。
力を抜けば、俺もユラもまとめて噛み砕かれる。
「な、なんで……」
後ろからユラの声が聞こえた。
「逃げてって、言ったじゃないですか……!」
「うるせえ!」
斧を握る両手へ力を込め、巨大ムカデの牙を押し返す。
「嫁を置いて、一人で逃げる旦那がどこにいるんだよ!」




