殻ねずみ
12
二匹目の大ネズミは、最初の一匹よりも楽に倒せた。
突進を横へ避け、壁にぶつかったところで後ろ脚を蹴る。転がって腹を見せたところへ斧を叩き込めば、それで終わりだ。
楽に、といっても斧を二回振り下ろしたし、危うく尻尾で足を払われかけたけど。
少なくとも、硬い頭へ斧をぶつけて手を痺れさせた一匹目よりはマシだった。
「やっぱり弱点が分かってると違うな」
その先で現れた三匹目も、同じように腹を狙って仕留めた。
大ネズミの突進は速いが、ほとんど真っ直ぐにしか走ってこない。一匹ずつなら、今の俺でも十分に戦える。
「このダンジョンなら結構いけるんじゃないか?」
かちり、と右足の下で音がした。
……今、何か沈んだよな?
恐る恐る足元を見る。
踏んでいる床石の周りに白い線が走り、それが俺を囲むように円を描いていた。
「いやいや、待て。今のなし。調子に乗ってないから」
誰に言い訳しているのかは分からない。
白い光は待ってくれなかった。
「ちょっ――!」
足元から光が噴き上がり、目の前が真っ白になる。
一瞬だけ身体が浮いたような感覚があり、次には足の裏へ硬い床の感触が戻ってきた。
光が消える。
「……言ったそばからこれだよ」
さっきまでいた通路が消えていた。
目の前には似たような石造りの通路が続いているが、後ろは壁で塞がれている。
試しに押してみる。
開かない。
斧の柄で叩いてみる。
やっぱり開かない。
壁の端へ指を入れられそうな隙間もなかった。
「やっちまった……転移罠ってやつか?」
こういう場所で床の仕掛けを踏めば、何が起きるかくらい予想できそうなものだ。
いや、無理だ。光ったときにはもう遅かったし、そもそも床と同じ色の石なんて気づけるわけがない。
俺は悪くない。
罠を作った奴の性格が悪すぎる。
「まあ、くよくよしても仕方ないか」
戻れないなら、前へ進むしかない。
そう自分に言い聞かせてから、逃げ道が一つしかないことに気づいた。
「……襲われたら絶対戦わないとダメじゃん」
斧を握り直し、一歩踏み出す。
そこで、床に積もった土へ小さな靴跡が残っているのを見つけた。
足跡は俺の立っている場所から始まり、通路の奥へ続いている。
「足跡の奴も引っかかったのか」
俺だけではなかったらしい。
仲間がいたようで少し安心――いや、罠にかかった奴がもう一人いるだけだ。安心できる要素はどこにもない。
「ちゃんと生きてるよな……?」
戻ってきた足跡はない。
ここに立ち止まっていても確かめられないので、俺は靴跡を追うことにした。
しばらくは一本道だったが、やがて太い通路の左右から細い道が何本も枝分かれする場所へ出た。
靴跡は真っ直ぐ進んでいる。
足跡の主が迷わなかったのか、横道を調べる余裕がなかったのかは分からない。俺としては前者であってほしい。
左の横道から、爪が石を引っかく音が聞こえた。
「出ると思ったよ」
思ってはいたが、できれば出てほしくなかった。
飛び出してきた大ネズミを通路の端で待ち構える。突進を引きつけ、ぶつかる寸前で横へ逃げた。
大ネズミが壁へ頭をぶつける。
そこへ近づき、後ろ脚を蹴って転ばせた。
「おら、腹!」
斧を振り下ろす。
刃が柔らかい腹へ食い込み、大ネズミが甲高い声を上げた。暴れる前脚から離れ、もう一度斧を振る。
少し遅れて討伐を知らせる文字が表示された。
「俺は学習する男だからな」
自分で言っておいて、さっき罠を踏んだことを思い出す。
「罠以外は」
誰も聞いていないので、付け足さなくてもよかった気がする。
その先でも大ネズミに何度か襲われた。
横道へ近づく前に音を確かめ、飛び出してきたところを避けて腹を狙う。二匹続けて現れたときは焦ったが、細い横道へ逃げ込み、一匹ずつ相手にしてどうにか倒せた。
慣れてきたとはいえ、楽勝ではない。
斧を振るたびに腕は重くなるし、突進を避けるのが少し遅れれば、あの前歯に噛みつかれる。
《リプレイ》も、いつまでも使えるわけではない。魔力が切れたときに囲まれたら、かなりまずい。
「転移罠っていったら、最奥に飛ばされて強敵がうじゃうじゃ……っていうのがお決まりだと思ってたけど」
斧についた血を振り落とす。
「さっきと同じネズミばっかりだな」
口にしてから、周囲を見回した。
また変なことが起きたら困る。
今度は何も光らなかった。
「よし」
何がよしなのかは自分でも分からないが、少しだけ歩く速さを上げた。
そのとき、甘い匂いが鼻へ届いた。
「なんだ?」
花のような匂いだ。
どこかで嗅いだことがある。前の世界で何度も飲んだ、紅茶に近い気がする。
「ダンジョンの中でお茶会……は、ないよな」
毒かもしれない。
そう考えて袖で鼻と口を覆ったが、もう思いきり吸ってしまったあとだった。
「遅いか」
すぐに気分が悪くなる様子はない。
代わりに、さっきまで何度も聞こえていた大ネズミの足音が消えていた。
右の横道から爪の音がしたものの、こちらへ近づいてこない。それどころか、奥へ逃げるように遠ざかっていく。
「この匂いが嫌いなのか?」
俺にとっては少し甘すぎる程度だが、大ネズミには我慢できないらしい。
匂いを追って進むと、壁際に黒く焦げた細い棒が落ちていた。見た目は線香に近い。
その少し先には、大ネズミが一匹転がっている。
背中の殻が黒く焼け、何か所もひび割れていた。
「すごなこれも魔法ってやつか?」
近くには、半分焼けた紙切れも落ちている。
拾って裏返すと、赤い線で細かな模様が描かれていた。文字ではなさそうだ。円がいくつも重なり、その周りを記号のようなものが囲んでいる。
「お札……か?」
神社に貼ってある物とは全然違うが、俺の知識ではそれくらいしか呼び方が思いつかない。
この紙から火を出したのだろうか。
「こんなときに定番の《鑑定》とかあれば便利なんだけどな」
持っていないものは仕方ない。
ただの燃えかすかもしれないが、何か分かる奴に見せれば役に立つかもしれない。俺は紙切れを《収納》へ入れた。
そこから先は、床に残る靴跡が急に乱れていた。
歩いていた足跡が走ったものに変わり、何度も床を滑っている。壁には手をついた跡があり、その下には小さな血痕まで残っていた。
「おいおい……」
嫌な予感しかしない。
甘い匂いも、ここまで来るとかなり薄くなっている。
前方から、石床を叩く足音が聞こえた。
一匹ではない。
複数の大ネズミが、同じ方向へ走っている。
俺は斧を握り直した。
その直後、通路の先から声が響いた。
「来ないでください!!」
女の声だ。
この世界へ来て初めて聞く、意味の分かる誰かの言葉だった。
人がいる!
警戒するより先に、俺は走り出していた。
足跡を追って角を曲がると、少し広い部屋へ出る。
崩れた石柱や瓦礫が転がる部屋の奥で、一人の少女が壁際へ追い詰められていた。
白い髪に、赤い一房が混じっている。頭には伏せられた白い狐?耳。尻尾まである。
人だ。
いや、人なのか?
どっちでもいい。今は耳よりネズミだ。
少女を囲んでいるのは三匹。
そのうち一匹は、これまでの大ネズミより一回り大きかった。背中の殻は黒く焦げ、中央に太いひびが入っている。
少女の外套は何か所も破れ、右腕に巻かれた布が赤く染まっていた。左足を庇い、短剣を両手で握っている。
どう見てもピンチだ。
少女が泣きそうな顔でこっちを向いた。
「おい! 大丈――」
「大丈夫じゃないです! 助けてくださいっ!」
「判断早いな‼︎」
俺は少女に向かって駆け出した。
大きな一匹が身を低くする。
考えている暇はない。
俺は《収納》から果物ナイフを取り出した。
「《リプレイ》!」
身体が登録された投擲を再現する。
大ネズミが床を蹴ったのと、ナイフが手を離れたのはほとんど同時だった。
刃が前脚の付け根へ突き刺さる。
大ネズミの身体が空中で傾き、少女のすぐ横にある壁へ激突した。
「今のうちにこっちへ来い!」
「無理です! 足を挫いて、立てません!」
「じゃあ動くな!」
「来いって言ったり動くなって言ったり、どっちなんですか!?」
「今は動くな!」
残る二匹が俺へ向きを変えた。
一匹が正面から突っ込んでくる。
横へ避け、すれ違いざまに後ろ脚を蹴った。倒れなかったが、体勢は崩れた。
そこへ斧を振り下ろす。
刃が脚の付け根へ食い込み、大ネズミが横倒しになった。
見えた腹へ、もう一撃。
「まず一匹!」
斧を引き抜こうとしたところで、少女が叫んだ。
「右です!」
「えっ――」
顔を上げると、もう一匹が目の前まで迫っていた。
斧を手放して後ろへ飛ぶ。
前歯は避けたが、伸ばされた爪が左腕をかすめた。服が裂け、その下に熱が走る。
「痛っ!」
大ネズミは俺の横を通り過ぎた。
その先にいるのは、動けない少女だ。
「そっちへ行くな!」
落とした斧を拾い、追いかける。
だが、ナイフを刺した大きな個体も起き上がろうとしていた。
俺一人なら、通路まで逃げられる。
狭い場所へ入れば、一匹ずつ相手にできるかもしれない。
後ろから、少女が息をのむ音が聞こえた。
「……くそっ!」
逃げられるわけがない。
少女と大ネズミの間へ割り込み、斧を横向きに構える。
大きな個体が口を開け、正面から飛びかかってきた。
前歯が斧の柄へ食い込む。
「ぐっ……!」
両腕に衝撃が走り、靴底が床を滑った。
背中が壁へぶつかる。
すぐ後ろに少女がいる。ここで押し負けたら、まとめて噛まれる。
近くで見る大ネズミの口は、思っていたよりずっとでかい。臭いし、歯には何かの肉まで挟まっている。
見なければよかった。
「そいつの背中です!」
少女が叫んだ。
「わたしの札で、殻が割れています!」
確かに大ネズミの背中の殻にヒビが入っている。
「わかった!」
俺は大ネズミの傷ついた前脚を蹴りつけた。
刺さった果物ナイフがさらに深く入り、大ネズミが甲高い悲鳴を上げる。
前歯の力が緩んだ。
斧を引き抜き、横へ逃げる。
勢い余った大ネズミが、後ろから来ていたもう一匹へぶつかった。
二匹がもつれて床を転がる。
大きな個体の背中が、俺の前に向けられた。
焦げた殻の中央に、太いひびが見える。
「そこだな!」
斧を振り上げる。
腕が重い。
握った手も震えている。
外したらまずい。今度は「腹を狙えばよかった」では済まない。
「《リプレイ》!」
身体が登録された振り下ろしを再現する。
斧の刃が殻のひびへ叩き込まれた。
硬いものが割れる音とともに、殻の破片が飛び散る。大ネズミの身体が床へ沈んだ。
だが、もう一匹が起き上がっている。
斧は大きな個体の背中に食い込み、すぐには抜けない。
最後の一匹が俺へ飛びかかる。
「これを!」
少女が短剣を投げた。
短剣は大ネズミの殻へ当たり、音を立てて弾かれる。
傷にはなっていない。
それでも、大ネズミの顔が少女へ向いた。
ほんの一瞬だけ動きが止まる。
「十分だ!」
斧を力任せに引き抜く。
そのまま身体をひねり、横から振り抜いた。
刃が大ネズミの顎の下へ食い込む。
大ネズミは俺の足元へ倒れ、二度ほど前脚を動かしたあと、動かなくなった。
少し遅れて、三匹分の討伐を知らせる文字が続けて表示される。
「はぁ……はぁ……」
斧を杖代わりにして、どうにか立ったまま息を整える。
助ける側まで食われかけていたら世話がない。
左腕を見ると、爪が通った場所から血が流れていた。ただ、指は動く。傷もそれほど深くはなさそうだ。
大きな個体の前脚から果物ナイフを抜き、血を拭って《収納》へ戻す。
それから、壁際に座り込んでいる少女へ近づいた。
「改めて聞くけど、大丈夫か?」
少女は返事をせず、俺の顔を見上げていた。
赤い目が何度か瞬く。伏せられていた狐耳も、少しずつ起き上がっていった。
「おーい?」
「……あっ。はい。今は、大丈夫です」
「今は、か」
さっきまで三匹に食われかけていたのだ。すぐ元気になれという方が無理だろう。
「腕を噛まれました。足も挫いています。でも、あなたの方こそ……」
少女の視線が、俺の左腕へ向く。
「血が出ています」
「これくらいなら平気だ。浅いし」
「平気なわけないでしょう!」
少女が勢いよく立ち上がろうとする。
当然、痛めた左足では支えられなかった。
「いっ……!」
「危ない!」
前へ倒れかけた身体を、慌てて受け止める。
少女の両手が俺の服を掴んだ。
細い指なのに、やたらと力が強い。
「無理するなって。せっかく助かったのに、今度は転んで頭を打つぞ」
「誰の怪我を見ようとしたと思っているんですか……」
「俺だけど、先に自分の足を見た方がいいだろ」
「そうですけど……」
少女は口を閉じた。
それでも俺の服から手を離そうとはしない。
さっきまで膨らんでいた白い尻尾が、今は俺の脚へ触れていた。先の方は、軽くふくらはぎへ巻きついている。
狐の尻尾って、怖いと近くの物へ巻きつくのだろうか。
たぶん、そうなんだろう。
「……あなた、わたしのことを知らないですよね」
「今会ったばかりだからな」
「それなのに、どうして戻ってきたんですか? あなた一人なら逃げられたはずです」
やっぱり見られていたらしい。
あのときは必死だったから、自分でも逃げ道を探していた顔をしていたのかもしれない。
「目の前で食われそうになってる奴を置いて逃れるわけないだろ」
「でも、怪我までして……」
「怪我をするつもりはなかった。そこは俺の失敗だな」
「そういう話ではありません」
「じゃあ、どういう話だ?」
少女は答えず、俺の顔をじっと見つめてくる。
近くで見ると、髪も頬も土で汚れていた。唇も少し震えている。
まだ怖いのだろう。
「とりあえず座るか。俺も少し休みたい」
「……はい」
壁際へ座らせようとしたが、少女は俺の服を掴んだまま動かない。
「離してくれないと座らせにくいんだけど」
「離したら、どこかへ行きませんか?」
「行かないよ。俺もここで迷子だからな」
「迷子……」
「罠で飛ばされて、戻り方も分からないんだよ。一緒だな」
少女の狐耳がぴくりと動いた。
「では、一緒に行動してくださるんですか?」
「そのつもりだけど。怪我人をここへ置いていけないだろ」
服を掴む手に、さらに力が入った。
なぜか尻尾まで強く巻きついてくる。
「そういえば、まだ名前を聞いてなかったな」
俺が言うと、少女は少しだけ身体を離した。
「俺はナオト。お前は?」
「ナオト……さん」
「そう。俺はナオト。で、お前は?」
「聞こえています。少し待ってください」
「何を?」
「……落ち着くのを」
少女は顔を伏せた。
白い狐耳の内側が、さっきより赤くなっている。
走って暑くなったのだろうか。
「分かった。急がなくていい」
少女は顔を背け、黙り込んでしまった。
「どうした?」
「今は聞かないでください!」
怒られた。
助けたはずなのに、どうしてこうなったのか。
よく分からないまま、俺は少女を支えて壁際へ座らせた。
それでも少女の手と尻尾は、俺から離れなかった。




