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第94話

 店内が静まり返った理由。


 それはシンプルだった。


 善悪はともかく盛り上がっていた酒の席。


 そこに最悪ともいえる犯罪者が現れたのだから。


 これまで通りの空気が保たれるはずもない。


「こいつ黒魔女じゃねぇか」


 先程、私を蹴り飛ばした男がそう吐き捨てる。


 これまでの歯牙にもかけない態度ではない。


 その目には明確な悪意が映っていた。


「間違いない。俺も手配書で見たことがある」


「俺なんか、直接見たことがある……間違いなく本人だ」


「まさかこんなところにいやがったとは……」


 店内がざわついている。


 傭兵として各地を回っているのだ。


 当然のように、一般人より様々な事情に通じているはず。


 あのエルフの森にさえ悪名が届くようなエレナについて知らないはずもない。


(最悪の状況ね)


 さっきまでリリにセクハラをしようとしていたことが嘘のように空気が冷たい。


 目の前の男だけではない。


 店中の視線が私へと向けられていた。


「魔族に国を売ってやがった魔女が、まさかこんなところに潜んでいたなんてな」


 男が一歩進む。


 あきらかな嫌悪を顔に浮かべて。


「今回も魔族に尻尾振って、なにか企んでやがったのか?」


「ぁぐ……!」


 ぐらりと視界が揺らぐ。


 おそらく鳩尾を蹴られたのだろう。


 気が付けば私はその場でうずくまっていた。


 せりあがった胃液で喉がひりつく。


「エレナちゃんっ……!」


「さすがにやめとけって……! こんなところであの女の味方をしたら嬢ちゃんも無事じゃすまねぇぞ……!」


 リリが私に駆け寄ろうとしたのだろう。


 慌てたように他の客が彼女を引き止めていた。


 それは先程までの好色な感情によるものではなく、まぎれもない善意だった。


 今の私との関係を匂わせることがどれほどのリスクなのかが分かっているからだ。


「放してくださいっ」


 それでもリリは私のところへと駆けつけようとしていた。


 その気持ちはありがたいが、今ばかりは彼女が拘束されていて助かった。


(リリが私の同類として扱われなかったのは運が良かったわね……)


 あくまで彼らが見ていたのは同じ店で働いていただけの私たち。


 一緒に行動していたところを見ていないから、リリと私の関係を把握していないのだ。


 おかげでリリは、私と同じ店で働いていただけの他人という立場を確保できている。


 最悪、私だけですべての物事が収まる。


 リリにまで被害を飛び火させずに済む。


 それだけが救いだった。


(だけど私は見逃してもらえそうにないわね)


 なら、あとは自分の安全を確保するだけ。


 そう考えて身を翻そうとしたとき――


「逃げるんじゃねぇよ!」


「きゃっ」


 頭に走る傷み。


 男が乱暴に私の髪を掴んだのだ。


 ぶちぶちと髪が千切れる音が鳴る。


 そのまま引き倒すように私は床へと転がされた。


「う……」


 倒れたまま痛みにうめき声が漏れる。


 そんな私へと、椅子が振り下ろされた。


 避ける間もなく迫った椅子は私を殴打するものではなかった。


 振り下ろされた椅子。その4脚が床板を貫通した。


 ――私の体を床に縫い留めるように。


 椅子はまるでホチキスの針のように私の体を床に拘束している。


 椅子で体を固定され、起き上がるどころか両腕を動かすこともできない。


「これで逃げられねぇな」


 男は私を拘束している椅子に足をかける。


 椅子越しに彼の体重が私の体を押し潰してゆく。


 その痛みに思わず表情がゆがんだ。


「さて、どうすっかな」


「やめてくださいっ」


 動けない私を見下ろして男が笑う。


 それを止めようと声を上げるリリ。


 しかしそんな声さえもスパイスだと言わんばかりに男は笑みを深めていた。


「まあそう言うなって」


 彼が手を伸ばすのは、腰に携えられた剣。


「こいつは生きていることそのものが罪」


 きっと使い慣れた得物なのだろう。


 男はスムーズな動作で剣を抜き放ち、掲げる。


 まるで断頭台の刃を再現するかのように。


「どうやって殺そうが女神様もお許しになるってもんさ」


 まるで正義の執行者にでもなったかのような男の笑み。


 いや、きっとこの場ではそうなのだろう。


 少なくとも、この場にいる客たちは全員が私を悪と断じている。


 振り下ろされようとしている刃に疑問など持っていない。


 むしろ後押しさえしているような雰囲気だった。


「まさか、この女をかばおうなんて酔狂な奴はいねぇよなぁ!?」


 そう男は問いかける。


 反論など上がるわけもない。


 仮に万が一でも、この場に私に同情的な人間がいたとして。


 ここでそれを表明することが自殺行為であることは明白なのだから。


 唯一の味方であろうリリは声を上げないように口を押えられている。


 ゆえに私を擁護する声は出てこない。


「こいつは魔族よりも腐った魔女だ。魔族を殺るまえの景気づけに、世界平和に貢献といくか」


 剣へと注がれる照明の光が反射して眩しい。


 あれが今から私の命を奪うのだと主張するように。


「ぃゃ……!」


 私は身をよじり逃れようとする。


「うるせぇんだよッ!」


「ぅッ……!?」


 男が椅子を踏んでいた足へと力を込める。


 それだけで胸が一気に圧迫され、呼吸が止まった。


 どうにか動く足で床を蹴るが、それでなにかが変わることもない。


 ただただ、死の瞬間が迫ってくる。


(誰かっ……!)


 できることは祈ることだけ。


 しかしその祈りが届かないことなど百も承知。


 恐怖に目を閉じる。


「…………?」


 すぐに訪れると思っていた断頭の感覚。


 しかしそれが私を襲うことはない。


 想定とは食い違う感覚。


 私はゆっくりと眼を開けた。




「おやおや。想像以上の乱痴気騒ぎですね」




 そこには剣を振り下ろしかけている男と――彼の手首を掴んで止めている美丈夫の姿だった。


 穏やかな雰囲気。


 腰まで伸びた緑髪。


 そして特徴的な、尖った耳。


 そこにいたのは、


「あ?」


 不機嫌そうに男は乱入者を睨む。


 だが、乱入者が意に介することはない。


 向けられた敵意を涼しい顔で受け流していた。


「すいません」


 彼は穏やかに告げる。




「放していただけませんか。彼女、私の友人なんです」




 しかしその物腰の柔らかさに反して、彼の声には逆らうことを許さないだけの威風とでも呼ぶべき風格があった。


(なんで彼がここに……?)


 命を拾った。


 だというのに私の脳内は困惑で満ちていた。


 なぜならそこにいたのは、




「……ユリウス=アトリー」




 この場にいるはずのない人物だったのだから。

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