第93話
「考え方によっては、今のほうがちゃんとこの世界を生きていると言えるのかもしれないけれど……」
ふとそうぼやいた。
(一応、自分の生活費は自分で稼いでいるわけだし)
今日で労働3日目。
疲れは溜まっているものの、業務にも慣れ始めている。
自立して生きているという意味では、魔王城でニートをしていた以前よりも生きているといえることだろう。
しかし仕事に慣れてきたせいか。
働きながらでも余計なことを考えてしまうようになったのだ。
(だけどモヤモヤするのよね)
この世界で生きているはずなのに、以前より世界と向き合えていないというか。
今の生活ばかりで、その先の未来を考えられていないというか。
――もっとも、生きるというのはそういうことなのかもしれないけれど。
事実、元の世界で生きていた頃は世界の在り方になんて想いを馳せることはなかった。
結局のところ、この世界では生きることに追われることがなかったからこそそういうことを考える余裕があったというわけだ。
(傭兵の噂話だけじゃ、状況がまったく分からないのよね)
傭兵はただお金で雇われているだけの戦力だ。
国家直属の戦力である騎士とは違い、それほど情報を持っているわけではないのだろう。
詳しく聞けばわかる情報もあるのかもしれないが、労働時間中にそんなこともできない。
(まだ大きな戦いが起きていないみたいなのが救いだけど)
あくまで今は、戦いに向けて準備を進めている段階らしい。
噂話を聞いている限り、魔族にも人間にも大きな被害はないようだ。
(おそらく、魔族側が攻めていないのが理由よね)
私は現状をそう分析していた。
(魔族領に攻め込むためには、浄化の力を持つ聖女の協力が必須になる。つまり、聖女の居場所が完全に露見してしまう)
魔族領は魔素で満ちている。
魔素は動植物をモンスターに変える性質を持っており、人間にとっても毒となる。
人間が魔族領を攻めるにはノアの存在がマストなのだ。
(そうなれば、魔族側に『今は聖女が聖王国を守っていない』と知らせるのと同じ。だから人間は攻められない)
聖女の居場所が割れることで、魔族から聖王国がカウンターを受けるリスク。
それがあるから人間は攻めきれない。
(魔族側は……リュートが弱体化しているから、シンプルに攻めるだけの戦力がないということなのかしら)
いわば遅延戦術。あるいは籠城。
魔族としては防衛側に回ったほうが有利なのだろう。
だからどちらの陣営も攻勢に出ないというわけだ。
(このままの状態が続く……っていうのは楽観的過ぎるわよね)
今は小競り合いレベルだとしても、いつかはどこかで大きな戦いが始まることとなるだろう。
(どうすれば――)
仕事を続けながらも湧き上がる思考。
それを打ち切ったのはリリの声だった。
「ぁ、あの……やめてくださいっ……」
リリは客である男性から掴まれた手を払おうとしている。
しかし男性の屈強な腕を払えるはずもなく、逆に彼女は引っ張られるようにして男性に捕まってしまっている。
「いいじゃねぇか。少しくらいサービスしてもよ」
男は赤らめた顔でそう笑う。
――あきらかにかなり酔っている。
酒を提供しているため、これまでも酔っぱらいの対応をさせられることはあった。
しかし今回はこれまで以上にタチが悪い客だったらしい。
「俺たちは、魔族から嬢ちゃんたちを守ってやろうとしてるんだぜ? 相応の対応ってやつがあるだろ?」
「こんな小さな町には風俗もねぇからな。楽しみが足りねぇんだよ」
そんな風に周囲は制止するどころかはやし立てている。
このままでは事態はエスカレートしていきかねない。
「それならお酒を……きゃっ」
なんとか話題を逸らそうとしているリリだが、彼らがリリを手放す気配はない。
「それはそれ、これはこれってやつよ」
リリへと向けられる下卑た笑み。
彼女の表情がこわばっている。
――私はちらりと店長へと目を向けた。
返ってくるのは肩をすくめるようなジェスチャー。
どうやら放っておけ、ということらしい。
(助け船は期待できそうにないわね……)
しょせん、私たちは数日前に転がり込んできただけの他人。
助ける義理はないということらしい。
(それなら、私が行くしかないわね)
ならばここで動けるのは私しかいない。
意を決して私は男へと歩みよった。
「あの、お客様っ……!」
声に不安が表れないように。
そう気を付け、できるだけ堂々とした声色で話しかける。
「あ?」
返ってくるのは不機嫌そうな視線。
一瞬だけひるみそうになる。
だがここで引いたら、リリがどんな目に遭ってしまうか分からない。
引くわけにはいかない。
「ここはそういうことをする店じゃ――」
「違うってのか? おい! ここは客に文句をつけて追い出すってのか!? あ!?」
男が怒鳴り声を上げる。
その矛先は店長。
しかし彼はそそくさと奥へ消えてしまった。
「な……」
(たしかに助ける義理はないかもしれないけど……!)
客と揉めたくないという気持ちは理解できる。
だが少しくらい援護してくれても良いのではないか。
そう思わずにはいられなかった。
「店主は気にしてないらしいぜ?」
「それは……」
私の立場はただの店員でしかない。
それも頼んで働かせてもらっている立場だ。
店長が無視を決め込んだ以上、あまり強気に出ることもできない。
私が言い返せずにいたせいだろう。
男はにやりと笑って足を突き出した。
「分かったら退きやがれ。ガキには興味がねぇんだよ」
「ぁぅ……!」
男の足が押し出すように私の腹を蹴る。
さすがに怪我をさせないように加減はしていたのだろう。
痛みはそれほどではない。
しかし私はその場に踏みとどまれずに後ろへと倒れてしまう。
他の客の足元に這いつくばるように転がれば、笑い声で店内が湧く。
それがひどく残酷で、耳障りに思えた。
「おいおい。こっちに飛ばすなよ。鎧に傷が入ったらどうするんだよ」
「その程度で傷がつく安物なら、売りつけた店の奴に弁償させてやれっての」
「それもそうだな」
男たちはそんな軽口を叩きあっている。
「痛……」
いつまでも座り込んでいたらもっと笑い者にされるだけだ。
私は悔しさを隠しながら立ち上がる。
「あ?」
そしてその瞬間――店から音が消えた。
まるで示し合わせたように声が消えたのだ。
笑い声も。
雑談も。
すべてが同時に途切れたのだ。
「?」
誰かが店に来たわけでもない。
誰かが行動を起こしたわけでもない。
なのに一瞬で変化した店内の空気。
その変異に追いつけず私は戸惑う。
(どうしたのかしら……?)
「エレ……エリーちゃん……その……」
そんな私へと真っ先に声をかけたのはリリだった。
彼女の声はあきらかに動揺していた。
「――姿が」
「っ!?」
リリの言葉を受け、私はとっさに視線を落とす。
そこに見えていたのはエレナの白い肌。
――さっきまで働いていた黒崎玲奈という人間のものとは違う姿だった。
(うそ……! 変装の魔道具の効果が切れてる……!)
元の姿とは言うものの、あくまでそれは魔道具で変装しているだけ。
現在の私の本当の姿はエレナのものでしかないのだ。
ゆえに魔道具が降下を失えば、私の姿はエレナのそれへと戻ってしまう。
(さっき、あの鎧に当たったときだ……!)
私が男に蹴り飛ばされたとき。
床を転がった勢いで別の客にぶつかった。
(魔族と戦うために来ている傭兵なら、鎧に魔術への耐性が付与されていてもおかしくない)
今となっては確かめようがない。
だが、もしもだ。
(リュートはこの魔道具にかけられた変装の魔術はそれほど強力なものじゃないと言っていた)
さっきぶつかった客の防具が魔術による干渉を防ぐ性質を持っていたとして。
(さっき蹴り飛ばされたとき、ブレスレットがあの鎧に触れていて……そのせいで魔術が解けてしまっていたとしたら)
偶然、そこに変装の魔術を行使しているブレスレットが触れてしまったとしたら。
私にかけられていた魔術が阻害されてもおかしくはない。
そして、それは最悪の事態を示していた。
「こいつ……まさか災厄の黒魔女か?」
傭兵として各地を回っていた人間たちが、エレナ=イヴリスのことを知らないはずなどないのだから。




