第38話
圧倒的な存在を前にしたとき。
生物はどういう行動をするのか。
それはきっと、人間にも魔族にも大差はないのだろう。
「くそ……!」
毒づくアレクセイ。
彼が選択したのは――逃走。
勇気ある撤退でも、勝つための後退でもない。
完全なる敗走。
背を向け、彼は必死にリュートから逃れようと飛翔した。
だが、
「がッ!?」
次の瞬間、私たちが見たのは床に落ちたアレクセイの姿だった。
リュートに頭を押さえつけられ、床を崩壊させる勢いで墜落した彼の姿だった。
その一連の動作は、私の動体視力などかなたに追い越した領域で行われたものだ。
「よもや、オレから逃げられるなどと思い違いをしてはいないだろうな?」
リュートは笑う。
凄惨に、背中が凍るような声で。
王に敵対する。
その意味を愚民に教える声色で。
「このッ!」
翼をひるがえすアレクセイ。
そのまま黒翼でリュートを薙ぎ払おうとしたのだろう。
だが、無駄だ。
振るわれた翼は、彼に到達する前に斬り落とされた。
結果として残ったのは、アレクセイは飛び立つ術さえ失ってしまったという事実のみ。
「クク……良い良い」
あごに手を当て、リュートは肩を揺らす。
それを隙だらけなど評することはできない。
いくら隙を晒そうとも、隔絶した差が埋まることはない。
「存分に攻撃するがいい」
嘲笑まじりにリュートがそう語りかける。
「そのほうが、死罪にする罪状に困らんからな」
「がはッ……!?」
吹っ飛ぶアレクセイ。
気が付けば彼ははるか後方の壁にめり込んでいた。
もはや何が起きたのか分からない。
あえて言うのなら、アレクセイが死んでいないということは剣で斬ってはいなかったのだろう――くらいの想像だ。
「あ……あんなに怒っている魔王様……初めて見ました」
異常すぎる光景。
その姿を見てリリはあたふたと震えていた。
先程までの天使じみた神聖さなんてもう残ってはいなかった。
やはり、ここにいるのはこれまでと変わらないリリなのだろう。
(原作でもあそこまで怒っているのは初めてかも……)
とはいえ、彼女の微笑ましい反応を笑うことはできまい。
平静を装っているものの、私も顔がひきつりかけている。
もしあの怒りが自分へと向けられていたら。
きっと失禁しながらその場で土下座していたことだろう。
……あそこまで彼を怒らせた時点で、土下座に意味があるかはともかく。
(ソーマに殺されるルートでさえ、あんなじゃなかったのに)
ノアとの決戦も。ソーマとの死闘も。
彼は感情的に怒りをぶつけたことはなかった。
むしろどこか相手を尊重するような。
相手を悪と断ずるのではなく、相手の行いもまた正義と認めるような。
そんなキャラクターだった。
やはりそこは人類の平穏のため戦ったノアや、勇者という役割を押し付けられただけのソーマが相手だったからというわけか。
独善的な理由で敵対する相手には、ここまで冷徹だったとは。
「安心するがいい」
リュートは語りかける。
もはや壁に体を預けることしかできないアレクセイへと。
立つこともできず、自分を恐れることしかできない敵対者へと。
「なぶり殺しにするつもりはない」
リュートが大剣を掲げる。
その刃が宿す暗い炎が勢いを増した。
まるで地獄がこの世界にまで手を伸ばしてきたかのような光景。
その圧倒的な力を掲げ、彼は笑む。
「なぶるには――少しばかり、実力が離れすぎているからな」
そして、断頭台の刃は落ちた。
「――――死ね」
噴き上がる黒の炎。
それは柱のように天まで伸び、この施設だけではなく雲さえも焼き払った。
残るのは天井を失った地下施設と、青い空だけだ。
「……しまったな。本来であれば、奴から反魔王派の情報を抜き出す必要があったのだがな」
そんなことを言いながら、リュートは手元から剣を消した。
(つ……強すぎる)
あれで弱体化しているとは思えない。
聖魔のオラトリオにおいて、ノアの勝利が奇跡と評されたことが誇張なんかではなかったと今になって痛感した。
(娘がリュートの婚約者候補になるくらいだし、あの魔族だってかなり強いはずなのに)
名家の当主となれば、それこそ中ボスくらいのポジションは与えられてしかるべき存在だというのに。
まさか塵さえ残らないとは。
「まあ、やってしまったものは仕方がないか」
肩をすくめるリュート。
彼は私たちに向き直った。
そこにはもう、先程までの冷たさはない。
「とりあえず、帰るとしようか」
「はい」
「はいっ」
これで終わりだ。
彼の言葉を聞くと、そんな気持ちになれた。
(実際には全部が終わりってわけじゃないんだろうけど)
別にラルストン家だけが反魔王派というわけではないだろう。
今回は、陰謀を1つ潰したにすぎない。
(それでも、一区切りがついたってくらいには考えてもいいのかな)
だが、思うところがないはずもない。
私が魔族領を訪れてすぐに勃発した毒殺未遂事件。
そこから続いていた悪意の連鎖を断ち切ることができたのだから。
原作にない展開が続いていたからということもあり、これらの騒動を乗り越えられたことによる安心感は大きかった。
「エレナさんッ……!」
そんな私たちへと切迫した声が届いた。
振り返れば、そこはこの地下施設へと続いていたはずの階段。
すでに崩落したそこには、ソーマが立っていた。
「ソーマ君……!?」
かなり急いできたのだろう。
彼は汗を垂らし、肩を上下させていた。
もっとも、それくらいの消耗で急行できるような場所にいなかったはずという疑問は置いておく。
「無事でよかった……!」
階段を駆け下りることさえもどかしいのか。
跳び下りるようにしてソーマは私のもとへと駆けつけてきた。
「エレナさんたちが消えてから、急いでここに来たんだけど……」
申し訳なさそうで、それでいて安堵したソーマの表情。
――以前の黒装束との戦いで、ソーマはわずかながら勇者の力を発揮しつつあった。
だからこそ彼は転移魔術に巻き込まれることなく、魔王城に残されていたはず。
正確な場所は分からないが、決して近くはなかったであろう距離を走破してきたのだろうか。
「よかった……正直、間に合わないんじゃないかって……」
どこか気の抜けた様子で微笑むソーマ。
もし私が逆の立場であったら、気が気ではなかっただろう。
私自身も被害者とはいえ、彼にはかなり心配をかけてしまった。
(城からかなり離れてるはずなのに……こんなに早く来てくれるなんて)
こればかりはさすが勇者の身体能力――とも言いきれない。
たとえ勇者として肉体が強化されていたとしても、決して楽な道程ではなかったはずだから。
「ありがとう。ソーマ君」
それが分かるから、私は心から感謝の言葉を口にした。
「ソーマさん? なんでこんなところに……」
私たちがそんなやり取りをしていると、背後からリリがひょっこりと顔を出す。
「リリさん? その姿は――」
あまりに必死でリリやリュートが目に入っていなかったのか。
彼女に声をかけられ、初めてソーマは彼女へと目を向け――固まった。
現在、リリは天使の輪と翼が生えている。
驚くのも無理はないだろう。
そんな、
そんな呑気なことを思ってしまったのだ。
「その姿は……あ……ぅ……あ」
その考えが間違っていたことに気付いたのは、ソーマがその場で膝をついてからだった。
彼は頭痛に耐えるかのように額を押さえている。
「そ……ソーマさん?」
戸惑っているリリ。
怪我があるようなら治療しようと考えていたのだろう。
彼女がソーマへと手を伸ばす。
「ぁ……」
――迂闊だった。
(しまった――)
事ここに至り、私は致命的なミスに気が付いたのであった。
「ダメッ!」
私は手を伸ばす。
リリの手を弾くように。
しかし今さら間に合うはずもなく。
リリの回復魔法を宿した手は、ソーマへと触れてしまっていた。
(勇者は聖女と同じ、世界を浄化する力を持つ存在)
まず前提として、勇者と聖女は似た存在だ。
男女の違い。異世界人か、この世界の住人であるかの差。
相違点もあるものの、本質が世界を浄化する存在であることは一致している。
(原作シナリオでは、ソーマの覚醒に引っ張られるようにしてリリは聖女の力に目覚めた)
つまるところ、リリとソーマが扱う力もまた本質的には似通ったものなのだ。
水と水が引きあうように。
(だとしたらその逆も――)
――2人の浄化の力も、他方の覚醒をうながす性質がある。
「ッ――――――――――――!」
その声は、勇者が目覚めた声だった。




