第36話
氷柱がアンネローゼの胸を貫いた。
氷を伝う赤い血。
それが、彼女自身の行為によるものであることは明白で――
「ぎゃあああああああああああああああ!」
響く絶叫。
それは彼女の口から聞こえてくるが、彼女の声ではない。
彼女を蝕んでいた魔族の叫びだ。
アンネローゼの口内に潜んでいた黒い肉体は溶けるように地面へと落ちてゆく。
「たしかに、肉体を同一化するほどの憑依能力は無類の支配力を有するだろう」
そんな姿を、リュートは静かに見つめていた。
「しかし反面、依代と生死を共有するというリスクもつきまとう」
対象を操るのではなく、対象そのものとなる。
だからこそ、対象に訪れる死をも平等に甘受する必要がある。
そういうことなのだろう。
「どうやらお前は、実力だけを見てアンネローゼを依代に選んだようだが失策だったな」
リュートは静かに笑った。
「彼女の忠誠を甘く見すぎだ」
実力だけを見るのであれば、アンネローゼを依代にしたことは正解だっただろう。
彼女は魔族の中でも随一の実力者なのだから。
しかし、同時に彼女は魔族の中でもリュートを強く慕う人物でもある。
だからこそ、彼を害するくらいならと命を絶ってみせた。
「この古き王めッ! お前は恥ずかしくないのか! 人間に敗れ! 今、部下の死骸を踏みつけて生き汚く逃げおおせようとしているのだぞ!?」
それは最期の抵抗なのだろうか。
魔族がそう叫ぶ。
ただの黒い塊と化しながら。
負け惜しみのような言葉を吐く。
「お黙り……なさい」
それに反論するのはアンネローゼ。
命を落とす彼女自身が、魔族の言葉を否定する。
「魔王様を侮辱することは……わたくしが許しませんわ……!」
強い憤りを込めて。
「アンネローゼ」
リュートが彼女へと歩み寄る。
すでにアンネローゼは床に伏しており、その命は消えようとしている。
そんな彼女に、彼は微笑みかけた。
いつもの余裕にあふれた超然とした笑みではなく。
慈愛さえ感じさせる優しい笑みを見せた。
「見事な忠義であった」
彼は膝をつき、アンネローゼの頬を撫でる。
「許す。永久に、お前はオレの心の中で生き続けることだろう」
「……よかった」
アンネローゼの表情に安堵が浮かぶ。
避けようのない死への恐怖など微塵も感じさせることなく。
「最期の瞬間まで、貴方様の役に立てた」
そこにあるのは底のない忠誠心。
彼女の眼からこぼれ落ちたのは、恐怖ではなく喜びの涙だった。
その涙は、リュートの指先に拭われた。
「お慕いする魔王様と一生をかけ、共に在り続けたいと思っていました」
彼女は頬に手を伸ばす。
リュートの掌に、自分の手を重ねるように。
「ですが、ここから先は……わたくし1人で逝きますわ」
その言葉を最後に、彼女の手から力が抜けてゆく。
「ぃゃ……ぃやです……」
力尽きた手が床に落ちる直前、それを拾い上げたのはリリだった。
「リリ……」
「アンネローゼ様……死んじゃ……だめです」
彼女はすがるように、アンネローゼの手を握りしめる。
しかしその手が握り返されることはない。
(まさかアンネローゼが……)
そんな中、私は何も出来ずにいた。
(この世界にシナリオなんてない)
あらゆる感情が動かせない。
あまりにも大きな衝撃は、私の心で受け止めきれるものではなかった。
ただ立ち尽くし、彼女たちの終わりを見ていることしかできない。
(分かっていたはずなのに……)
何度思ったことだろう。
この世界はゲームではないのだと。
何度も失敗して、そのたびに気持ちを引き締めてきたはず。
(こんなことって……)
それなのに、そんな覚悟など本物の悲劇を前には意味をなさなかった。
「リリ……勝手なお願いなのですけれど……聞いてくださる?」
弱々しく途切れ途切れの声。
「これからは貴女が……魔王様の助けになってちょうだい」
アンネローゼは、泣きじゃくるリリへと言葉を遺す。
「い、いやですっ……嫌じゃないけど嫌です! だって私は強くもないし、婚約者候補でもないし、そんなたいそうな存在じゃないんですっ! その役目が一番ふさわしいのはアンネローゼ様なんですっ! だから――死なないでくださいっ」
まるで駄々をこねるように。
リリは声を荒げる。
それを責めることなどできるはずもない。
「まったく……聞き分けがありませんわね。これでは、安心して死ねませんわ……」
穏やかに。
困ったように。
アンネローゼは笑う。
やがてその瞳からも光が消えていこうとしたとき――
「そう思うなら――――生きてくださいッ」
リリの声に呼応するように。
世界が光に包まれた。
「ッ!?」
その光景に、リュートでさえも驚愕を見せる。
リリを中心に展開される光。
彼女の頭上に構築される光輪。
彼女の背中から伸びてゆく白翼。
それはまるで天使のようで。
「……これは」
その光景を、私は知っていた。
それはこのタイミングで起こるべき事象ではない。
だが、そういうことが彼女に起こりえることは知っていた。
「天使の輪……白い翼。まさか――」
間違いない。
これは――
(リリ=コーラスは角も翼も尾も持たない魔族として迫害されてきた)
彼女は魔族の中で迫害を受けて生きてきた。
魔族でありながら、魔族とは違う容姿を持つ者として。
(でも、それは違う)
彼女が魔族だと示すものは、彼女が魔素に満ちた魔族領で生きていけるという事実の一点のみ。
そしてそれが、誤解を生んだのだ。
(彼女は魔族の特徴を持たない魔族じゃなくて――魔族領で生まれただけの人間)
彼女は、まぎれもなく人間だったのだ。
(聖魔のオラトリオReverseの主人公リリ=コーラスは)
そして、魔素の中で生きている人間は限られる。
(――もう1人の聖女)
彼女は、魔族領で生まれた聖女なのだ。
聖魔のオラトリオの主人公ノア=アリアと同じ。
それでいて、覚醒することのなかった遅咲きの聖女。
本人さえ気づくことなく生涯を終えるはずだった不世出の聖女。
それがリリ=コーラスなのだ。
「絶対に……死なせませんッ!」
響くリリの声。
その声は涙に濡れていた先程までとは違う。
覚悟に満ちた声だった。
「傷が……治っていく……」
その光景はあまりにも奇跡的で、思わず声が漏れた。
聖女が持つ癒しの力。
それは、絶命の淵にいたアンネローゼの命をすくいあげてゆく。
「よくやった小娘!」
そんな声を上げたのは、アンネローゼに巣食っていた魔族だった。
彼女と命を共にしていたからこそ、彼女が癒されたことで彼もまた力を取り戻したのだ。
黒い塊は鎌首をもたげ、その標的をリリに定めている。
(そうだ! アンネローゼを治しても、彼女の体は乗っ取られたまま……!)
奴はこのまま憑依先を変えるつもりだ。
リリが聖女だとわかったから。
魔王リュートを殺すうえで、この上ない逸材だと認識したから。
「褒美に、次の憑依先はお前にしてやるッ!」
(このままじゃ、リリが餌食に――)
リリへと手を伸ばす魔族。
しかしその手は――
「ごめんなさい。私は――あなたを許せません」
リリに触れる前に消し飛んだ。
いや、浄化されたのだ。
それはまぎれもなく、聖女の力だった。
世界を穢す魔族とは対極にある、世界を正す存在の力だった。
「戦いは怖くて、痛くて、嫌なものだけど」
静かにリリは語る。
誰に聞かせるでもなく。
自分に言い聞かせるように。
「だからこそ――誰かに任せてばかりじゃダメなんですよね?」
両手を広げるリリ。
その姿はいつもの可憐な彼女の姿ではない。
まるで宗教画のように。聖典の一節のように。
荘厳ささえ感じさせる、光に満ちた姿だった。
「――――――光あれ」
そして、世界が浄化される。




