第35話
重厚な鉄の扉の前。
私は息を呑む。
当然ながら鍵はかかっている。
この細腕でどうにかできる障害物ではない。
だけど、世界の摂理の外側にある手段を用いたのなら。
「それでは――いきます」
バグ。
この世界がゲームである以上、完全に消すことは難しいエラー。
それを利用するのだ。
「っ……」
私は懐からインク瓶を取り出す。
本来であれば呪術に使うために用意していたものだが――
(うん……大丈夫)
扉の前へと転がした瓶を拾いながら――扉をすり抜ける。
バグ――こちらの世界では女神のイタズラなんて呼ばれているらしいけれど――は、魔術で封印された扉さえも無視して透過できる。
私が振り向けば、そこには傷ひとつない鉄の扉があった。
しかし周囲は、リリたちがいた部屋ではない。
誰もいない石造りの廊下が左右に伸びているだけ。
――無事にすり抜けられたらしい。
「特に魔術はかかっていないみたい」
私は扉の鍵を開け、リュートたちを廊下へと招き入れる。
最悪、2人を抱えながら扉抜けをする可能性も考慮していただけに、思いのほか軽い作業で終わりそうで安心した。
「これだけ強力な弱体の魔術を地下全体にかけているのだ。さすがに、すべての扉を魔術で封じるだけの余裕はなかったのだろうな」
そう口にするリュート。
これまで見聞きした情報から察するに、この施設内では魔術を使うのが困難になるらしい。
そんな場所では、扉に魔術をかけるのも容易ではないのだろう。
――さすがにすべてが物理的な施錠で済まされていると楽観視してはいないけれど。
「さすがに奴らも女神のイタズラを前提に脱出するとは思いもしなかっただろうな」
笑うリュート。
彼の言う通り、今回は完全に敵の裏をかいた手段を取れているはず。
これでうまく出し抜ければ、脱出も不可能ではないだろう。
「ともあれ、見張りがいないなどということもあるまい。あまり離れるなよ」
「はい」
「はいっ」
私たちはリュートの言葉にうなずく。
魔王に反旗をひるがえしたとなれば、作戦の失敗はそのまま死とイコールだ。
向こうだって相応の準備はしているはず。
油断して軽はずみな行動をしてしまえば、いつ窮地に陥ってもおかしくない。
(今のリュートがどれくらい戦える状態なのか分からない)
先頭を歩くリュートの背中を見つめる。
見ている限りでは、彼はいつも通りに思える。
だが弱体の魔術を私は自分自身で体感している。
転移前にアンネローゼに撃ち込まれた1発。
そして、ここに仕掛けられた弱体の魔術の負担を3人分。
さらにいえば、彼は魂を切り分けた影響で全盛期の半分ほどの力しかないという。
今の彼が戦える状態だとは考えにくい。
(敵に見つからないようにしないと)
正面突破なんてもってのほか。
可能であれば敵に悟られず、会敵もなく脱出する。
それが理想なのだ。
弱体の魔術の範囲外にさえ出てしまえば、どうにでもなるのだから。
「きゃぁ!?」
大きなホールのような場所に出たとき、轟音が鳴り響いた。
倒れそうになるほどに揺れる地面。
あまりの衝撃に、天井から破片のようなものが落ちてくる。
(な……なんなの……!?)
施設が崩落してしまうのではと不安になるほどの揺れ。
頭を両手でかばいながらも周囲を確認して――私は氷を見た。
「なっ……!?」
さっきまで私たちがいたのは広間だった。
軽く見積もっても半径50メートルほどの広さを持つ円形の空間。
その大半が、氷で覆い潰されていたのだ。
私たちの左右は氷の壁に閉ざされており、広間は少し広いだけの廊下へと変わってしまっていた。
「思ったより……いや妥当な頃合いか」
そんなことを口にするリュート。
この状況下においてさえ、彼には余裕が見える。
いや、そうでもないのだろうか。
彼の視線は真剣なもののように思えた。
「女神のイタズラで封じられた扉を抜けることはできた」
カツカツと音が鳴る。
広間の向こう側にある入口。
そこから靴音が聞こえてくる。
音から察するに――ハイヒールだろうか。
「だが当然、オレたちが動いていることを察知する仕組みもあるはずだからな」
正直なところ私にはどういう手段を用いたのか予想もできない。
しかし彼が語るには、私たちの脱出はすでに露見していたらしい。
だとしたらこれは、私たちの脱出を妨げるための防衛ラインなのだろう。
「もっとも、お前が来るとは思わなかったがな」
そして、私たちの前に1人の魔族が現れた。
「アンネローゼ様……」
リリが彼女の名を漏らす。
私たちを出迎えた存在。
それはアンネローゼだった。
(たしかに彼女もここにいるわよね……)
なにせ転移魔術を使ったのは彼女なのだ。
転移先の部屋にいなかったため考えることをやめていたが、彼女がここにいるのは自然なことだった。
「――――――」
無言で歩いてくるアンネローゼ。
彼女の眼は虚ろで、あきらかに普通ではない。
もう本人を演じる必要もなくなったというわけか。
「先程の魔法を見る限り、お前は弱体の魔術の影響を受けていないのだな」
リュートは部屋を覆う氷に視線を向けた。
たしかに、あれは弱体化している魔術とは思えない。
(さすがに自分たちが魔術の影響を受けないための準備はしているわよね……)
手段は分からない。
魔術の標的から外れる方法があるのか。
あるいは、彼女が受けるはずの負荷を誰かが受け持っているのか。
ともあれ言えることは、目の前にいるのが全力を発揮できるアンネローゼだということだ。
「いくら衰弱させているとはいえお前を殺すには、こいつくらいの戦力は必要だろう?」
アンネローゼの口から聞こえてきたのは――男の声だった。
きっとあれが、彼女を操っている魔族の声なのだろう。
もう声も隠すつもりがないらしい。
「反逆される可能性は考えなかったのか?」
「もう体の支配は終わっている。何もできはしない」
リュートの言葉を魔族は嗤う。
しかしリュートは余裕を崩さない。
むしろ笑みを浮かべてさえいる。
「だそうだぞ? アンネローゼ」
そして、そう告げた。
きっとそれがキッカケだったのだろう。
アンネローゼの右手が、彼女の喉奥へと差し込まれた。
そのまま彼女は、口内から黒い何かを引きずり出そうとしている。
「ッ……!」
息を呑むような魔族の声。
それは、彼女の口から出ているスライム状の物体から聞こえてきた。
あれが魔族の正体というわけか。
「まさか……体の制御を取り戻して……!」
「アンネローゼ様っ!」
動揺する魔族の声に、リリが歓喜の声を上げる。
(この状況。彼女が味方に戻ってくれたのなら――)
現状、リュートでさえアンネローゼに勝てるか分からない。
もし活路があるとするのなら、彼女が魔族の支配下から抜け出すこと。
しかし、そんな希望はたやすく打ち砕かれる。
「そんなこと……させるわけがないだろうッ!」
アンネローゼの口が大きく開く。
あごが外れそうなほど開いた口からは黒い手が大量にあふれた。
腕は彼女の首を絞め、手足を拘束する。
「が……ぁ……」
最初は抵抗を見せていたアンネローゼだが、それもわずかな時間だけ。
ついに彼女の体は力を失い、黒い腕になされるがままとなる。
「まさかここにきて抵抗を見せるだなんてな」
魔族は嗤う。
だが、その声にはたしかな焦りが見えた。
彼にとって彼女の抵抗は、それほどありえない事態だったのだろう。
「意外だったが、どうにでもなる程度のサプライズだったな」
そんな言葉はきっと虚勢なのだろう。
だがそれが偽りだったとしても、私たちが窮地に陥っていることも事実。
内心で私は歯噛みする。
「なるほど。アンネローゼが全力で抵抗しても弾き返せないとなると、ただの肉体支配ではない――もはや同一化というべき力らしい」
「そういうことだ」
少し余裕を取り戻したのか、
魔族はリュートの言葉に答える。
「もはや、俺がアンネローゼ=ハートそのものだ。どうにかして分離しようなどという奇跡を起こす術はない」
魔族は嗤う。
アンネローゼの体で、不愉快な声を上げる。
「そして、お前たちがここを生きて切り抜けるという奇跡も起きない」
(あんな力を持った魔族なんて、私の知識にない)
なにより、彼に言い返す言葉がないことが悔しくてたまらない。
もしも彼が原作で登場するキャラクターだったのなら。
対抗策だって分かったかもしれないのに。
(それに、もしもアンネローゼを助ける方法があったとしても……)
とはいえ、残酷な事実が1つ。
(……それを実行できるだけの余裕が私たちにはない)
現状、アンネローゼだけにとどまらず全滅が濃厚だという事実だ。
唯一可能性があるとすれば、リュートが私たち全員を見捨てた場合だろう。
弱体化の負荷を身代わりすることをやめ、1人で離脱する道を選んだのなら。
彼だけなら生き残ることができる可能性はあるはずだ。
だが、同時に彼がそれを選択肢することはないだろうという確信もあった。
(どうすれば……)
「ま……ぁぁ……!」
絶望的な思考。
それを打ち切ったのは、アンネローゼの悲痛な声だった。
「ぁ……」
体の自由を奪われたアンネローゼ。
それでも彼女は必死にあらがっていた。
その姿はあまりに痛ましい。
「魔王……様ぁ……!」
そんな中、彼女が見せたのは――笑顔だった。
涙をにじませながら、痛みに耐えながら。
それでも彼女はたしかに微笑んだ。
「――そうか」
彼女の表情を受け、リュートが目を見開く。
しかしすぐに、彼は笑みを見せた。
「お前の忠義、たしかに受け取った」
「――――ありがとうございます」
そんなやり取り。
具体的な言葉を発したわけではない。
だが、分かる。
2人の間で大事な何かが交わされたことが。
それはきっと――
(まさか……!?)
最悪の近い発想。
それでいて、きっと彼女ならそうだろうと思う決意。
思考が追いついたとき、血の気が引いてゆくのを感じた。
「だめぇぇぇぇぇぇぇ!」
同じ発想に至ったのだろう。
リリが悲鳴を上げる。
だが、遅い。
「――――――」
巨大な氷柱が、アンネローゼの胸を貫いた。




