第31話
「ひゃっ……」
庭園にリリの短い悲鳴が溶けてゆく。
そんな彼女を無視し、私は彼女の背中に指を這わせた。
リリが着ているメイド服は背中のあたりが大きめに開いているので、呪術の練習にちょうどよかったのだ。
私の指先は赤いインクで濡れており、指の軌跡をリリの体へと残してゆく。
私は辞書のような魔導書とにらめっこしながら、白い背中に呪いの紋様を刻んでいた。
間違いない。これは完全に呪いの儀式である。
誰がどう揶揄しようとも。
「え、エレナちゃん……これちょっと……ひゃっ」
(なんだか悪いことをしている気分になってきたわね)
可愛らしい悲鳴に自然と真顔になってしまう。
私がやっているのは正真正銘呪いの儀式である。
悪いことといえば間違いないかもしれないが、私が想定していたものと方向性が少し違う気がする。
(なんというか……やっぱりヒロインよねぇ)
シミひとつない白い肌。
浮かび上がった肩甲骨をなぞるように指を滑らせれば、彼女の肩はぴくりと跳ねる。
(こんな可愛い子、現実にいたらみんな放っておかないでしょうね)
やはりゲーム世界ということもあって、この世界は顔面偏差値が異常である。
もし現実にリリがいたのなら、男女問わず人が群がって大変だろう。
元の世界と比べれば、エレナの顔立ちもかなり整っている。
だがちょっと陰気っぽい雰囲気が拭えないというか、どうしてもリリのような正統派の美少女にはおくれをとってしまっているように思えてならない。
けして不細工ではないのだが、目を引くことはないだろう。
――案外、原作のエレナがノアを恨んでいたのも、こんな気持ちが始まりだったのだろうか。
「もしかしてさっきから適当に書いてませんかっ!?」
リリが悲鳴じみた抗議をしたことで、私は手を止めた。
……どうやら、彼女の背中で絵を描き始めていたのがバレたらしい。
なんというか、ちょっと書き間違えたあたりで心が折れてしまったのだ。
それならいっそ美少女の背中を楽しもうかと思ったのだが。
「ちゃ、ちゃんと書いてるわ」
(本当に綺麗な肌……若さだけで説明できない才能の差を感じるわね)
元の世界の私とは、文字通り世界が違う。
私が彼女と同じくらいの年齢だったころも、絶対にこんなに綺麗な肌をしていなかった。
若さで言い逃れることも許さぬ、圧倒的なスペックの差がそこにはあったのだ。
ちょっと悔しかったので、最後に背中をひとなぞり。
「ご、ごめんなさいエレナちゃんっ! もうムリですっ……!」
そんなことをしていると、リリはほぼ椅子から転げ落ちるようにして私から距離を取った。
ついにくすぐったさに耐えられなくなったらしい。
(ちょっと遊びすぎたかしら)
というより、7割くらい遊んでいた気がする。
「えーっと、この呪印を相手につけると呪術をかけやすくなるのよね」
私は左手に握った魔導書をじとりと見つめる。
そこに書かれているのはルーン文字だか古代文字だか分からない記号。
これをターゲットにあらかじめ刻んでおくと、スムーズに呪いをかけられるようになるらしい。
「練習したら必要がなくなるそうですけど、最初はそうやってマーキングしておくほうがいいそうです……」
リリが涙目でそう答える。
あいにくと私はPCでの作業ばかりで、ここ最近は手書きで書類を書くことなんてあまりなかったのだ。
手書きで、こんな複雑な紋様の模写なんてできるわけもない。
実のところ、けっこう早い段階で間違えてしまっていた。
「地味だけど……いきなり難しいことに挑戦しても失敗するだけよね」
正直、ちょっと面倒くさい。
だけどこれが初歩の初歩として紹介されていたのだ。
やはりここはきちんと段階を踏んでいくべきだろう。
「それじゃあリリ――」
「え、エレナちゃん!」
もう1回。
そういうよりも早く、リリが両手を突き出した。
「い、今は本当にダメなので……呪印を書くやり方は後回しにしませんかっ!?」
それは必死の懇願だった。
私が思っているより、彼女はくすぐりに弱かったのかもしれない。
「ほか……というと」
私は呪術の教本を流し読みする。
「相手と目を合わせることで使える呪術もあるわね」
目を合わせることで発動する呪い。
とはいえ、邪眼のような格好の良いものではない。
この世界の呪術は、そういうバトル漫画みたいな技術体系ではないのだ。
「視線を通じて相手の思考を誘導して、術者から視線を逸らせないようにする……ね」
(これゲームでも出てきたわね)
相手のヘイトを集め、自分に攻撃を集中させる。
頑丈なキャラが、他のキャラを守るために使うスキルだった。
(これを使われるとエレナしか攻撃できなくなるから、他の雑魚敵を処理できなくて面倒なのよねぇ)
そうやって雑魚敵の処理が遅れたところに、状態異常を食らいまくってパーティが半壊するのだ。
なんだか懐かしい気持ちになってきた。
(って……これを使ったら私が真っ先に死んじゃうじゃない)
私が呪術を学ぶのはあくまで自衛のためだ。
誰かの盾になって死ぬためではないのだ。
つまり私にとって不要なものなのだが――
「まあいいか……どうせ練習なんだし」
見たところ、比較的簡単なものらしい。
実用的なものを覚えるのは、慣れてからでもいいだろう。
そう思い直す
「それじゃあ目を合わせてちょうだい」
私はしゃがみ込み、リリと目線を合わせた。
「呪術に必要なのは、相手を害そうとする意志……」
(呪術は才能よりも感情が大事だって設定集に書かれていた)
はっきり言ってしまえば、魔術は才能がなければどうにもならない技術だ。
聖魔のオラトリオの世界に出てくるキャラはこの世界における上澄み中の上澄み。
ゲームでの派手なバトルは才気あふれる彼女たちだからできることであって、今から私が学んでもたいしたことはできない。
一方で、呪術はそれほど才能に左右されない技術だといわれていた。
(だからただの貴族令嬢でしかないエレナの呪術が、聖女であるノアにも通じていた)
戦闘訓練なんて受けていないであろうエレナが、浄化の力を持つノアを呪えるのだ。
感情で才能の差をひっくり返せる。
それが呪術の利点といえるだろう。
あと、戦い以外にも使えるものがわりと多い。
だから私は、最初から颯爽と魔術を使う道を諦めたのである。
(気持ちの強さで効果が変わるなら、私でも――)
「うぅ……」
そんなことを考えていると、嗚咽のような声が聞こえた。
声の主はリリだ。
彼女は悲しげに目をうるませていた。
「ど……どうしたの?」
「ごめんなさい……。でも、エレナちゃんが今、私の嫌なところを思い浮かべているんだろうなって思ったらつい悲しくなってきて……」
「そ、そんなこと言われたらやりにくいじゃない……」
なんというか、心の底から申し訳ない気持ちになってくる。
いくら練習とはいえ、誰かに悪感情をぶつけようとするのは意外にもエネルギーが必要なのだ。
(呪術って、あまり私に向いていないのかしら)
たしかに原作のエレナは呪術を使用していた。
だが思えば、それを支えていたのは主人公ノアへの異常ともいえる怨嗟。
それと同じ感情を抱けるのか、と言われて同意はできない。
もし目の前に私を殺そうとしている人がいたとして。
私はきっと、憎悪ではなく恐怖を抱くことだろう。
精神構造が、根本的に呪術に向いていないのかもしれない。
「ほう……面白いことをしているようだな」
他の手を考えるべきか。
そんなふうに思いかけていたとき、声がかけられた。
「魔王様っ!?」
弾かれたように立ち上がるリリ。
そう。私の目の前に現れたのはリュートだった。
散歩をするような気軽さで、彼はふらりとそこにいた。
「呪術はあまり使わんが……望むのなら手ほどきくらいならしてやれるぞ」
彼は顎に手をやりながら、そう笑みを浮かべた。
(たしかにリュートならこういうの詳しそうよね)
彼は実力者であり、研究者だ。
天才ではあるが、感覚ではなく理論で力を扱うタイプ。
アドバイスを求める相手としては最適なのかもしれない。
「そういうことであれば、教えていただけると……」
相手が私よりはるかに高貴な存在であるという大前提を除けば、だけれど。
魔王から直々に手ほどきを受ける。
アンネローゼが血涙を流しそうなシチュエーションだった。
「ああ。構わん」
そう言うと、彼はその場で片膝をついた。
体勢としては私とそう変わらないはずだが、それでも彼の視点は私より頭1つ分以上に高い場所にあった。
「先程のやり取りを聞いていたが、少し呪術への認識を変えるところから始めるべきだな」
「認識、ですか……?」
私の呪術への認識は、シナリオや設定集で得た表面的なものでしかない。
彼の視点では、私のやり方は大前提から問題があったらしい。
「呪術においては魔力よりも心――相手を憎む心が重要だとされている」
それが私の知る常識。
リュートはそこに一石を投じた。
「だがそれは本質ではない」
リュートの手が伸びてくる。
「呪術の本質。それは、あくなき他者への関心だ」
彼の手は私のあごに触れ、そのままクイと持ち上げる。
――リュートと視線が交わった。
「相手の心が知りたい。相手に何かを伝えたい。相手に影響を与えたい。そういった他者とつながろうとする意志が呪術の本質だ」
リュートはゆっくりとそう語りかけてくる。
「憎しみも結局のところ、他者への関心の種類でしかないからな。他人に関心がない者は、他人に憎しみなど抱かんだろう?」
(いわゆる、アンチがファンより作品に詳しい現象――みたいな感じかしら?)
ちょっと違うかもしれないけれど。
ともあれ、私はそう解釈することにした。
「あくまで戦闘や暗殺のために微調整をした結果、憎悪が最適だとされただけにすぎない」
呪術は、あくまで手段。
そこに悪意を乗せようと――呪いを呪いにしてしまおうと考えたのは、使い手なのだと。
「お前が学びたいのが他人を害するための呪術でないのなら、悪感情は必ずしも必要というわけではない」
リュートの顔が近づく。
吐息が感じられそうなほどに。
「そうだな……たしか、目を合わせた相手に自分の思考を流し込む呪術があっただろう。あれをやってみるといい」
さすが魔王というべきか。
その声は魔性と評すべき風格を宿している。
鼓膜ではなく脳が揺れているのではないかと思ってしまうほどに。
「オレの目を見て、オレに自分という存在を刻みたいと念じろ」
「はいっ……」
(他者への関心……)
彼のアドバイスを思い出す。
(この世界への、この世界で生きている人への関心)
聖魔のオラトリオ。
私はシナリオを推すタイプのファンを自称している。
だがシナリオを推すということは、それを彩るキャラクターに魅力を感じていることに他ならない。
(それなら誰にも負けないわ……!)
羨望。敬愛。狂喜。
それはまるでファンレターをつづるように。
現実的に不可能と自覚しつつも、キャラクターに届いてくれたらと思うときのような――
「ほう……」
リュートが声を漏らした。
わずかな驚きを宿して。
「なんというべきか、お前は想定もしていないところでオレに驚きを与えるのだな」
クク、と彼は笑みを漏らす。
心の底から興味深そうに。
「いくら防ぐ気がなかったとはいえ、まさかオレの魔力耐性を突破するとはな」
――並みの呪術では、オレが無意識に垂れ流している魔力さえ突破できないはずだが。
彼はそう口にした。
彼は魔族。しかも、その王だ。
生半可な干渉など受けるはずもない。
しかし彼の言葉が正しいのなら、私の呪術は彼に届いていたらしい。
その事実に私は笑顔を浮かべ――
「遮断できると考えていたから気にしていなかったが、これでは他の呪術にしておいたほうが良かったかもしれなかったな」
「……え?」
――そのまま凍りついた。
顔が熱い。心臓がバクバクと脈打つ。
思い出したのだ。
私が彼に向けた呪術が、どういうものだったのかを。
「ふむ。まあ、流れ込んだ思考についてはノーコメントとしておこうか」
「っ~~!?」
届いてしまった。
私がしたためたファンレターが、本人に届いてしまっていた。
(リュートに思考を見られるの忘れてたぁぁ!)
この日、人生最大級の黒歴史が爆誕した。




