第23話
椅子から転がり落ちる体。
受け身も取れずに全身が床に叩きつけられる。
その衝撃も。
床に散乱していた破片が肌を掠めた痛みも。
どこか遠くに感じられる。
(……体が動かない)
意識が薄らいでいるわけではない。
肌が見えない何かに包まれているように、皮膚から伝わってくる感覚だけがぼやけているのだ。
似ている感覚を挙げるのなら、麻酔を打たれているときの感覚だろうか。
「なるほどな」
背後から足音が聞こえてきた。
だが、体が動かない。
近づいてくるのが誰なのかを確認できない。
「毒が分かるワケじゃないのか?」
脇腹に何かが押し当てられる感覚。
そのまま私は床を転がされる。
「ぁ……」
仰向けになったことで、私は背後にいた人物を視界におさめることができた。
そこにいたのは黒装束を纏った男。
片足を上げていることから察するに、私は蹴り転がされたらしい。
(あれは……)
黒装束。
あれには見覚えがある。
――アンネローゼ毒殺未遂事件。
その犯人である令嬢メリッサと行動を共にしていた男だ。
「久しぶりだな。黒魔女」
そう黒装束は笑う。
嗜虐的な色を瞳に宿して。
「あなた……なんで……」
思わずそんな言葉が漏れる。
私は見たはずだ。
彼がリュートに殺される瞬間を。
なのになぜ、彼はここにいるのか。
「なんで生きてるのか、か?」
彼の口元が弧を描く。
そして、彼は自身の頬を撫でる。
「まあ運だな。さすがに、運以外であの魔王から逃げ延びられねぇよ」
逆光でわかりづらかったが、黒いフードの奥にある顔面は半分ほど焼け爛れていた。
リュートの炎に焼かれたのは間違いないのだろう。
ただどういうわけか、彼は生き延びた。
もしかしたら、貴重な回復アイテムなんかを所持していたのかもしれない。
「痺れが少し取れてきたか?」
だが、そんなことを考えている暇はない。
彼の足が、私の耳元の床を踏みしめた。
「ちゃんと喋れるよう、薄めておいてやったからな」
どうやら私は、彼に一服盛られていたらしい。
考えられるのは茶葉。
リリがいるのなら私はあれを使わない。
逆に言えば、私があれを使ったときはほぼ確実に1人。
だから毒を忍ばせる場所として都合が良かったのだろう。
「まあ、助けを呼べるほどじゃねぇけどな」
彼の嘲笑に、私は表情をゆがめる。
体の痺れは依然として抜けない。
声も出ないわけではないが、なんとか話せるだけ。
叫ぶために大きく息を吸い込むなんてできそうにもない。
抵抗する術はなかった。
「そんなにビビるなよ。殺しに来たわけじゃない」
私の心情を察したのか。
彼はそう言った。
「ああ、でも安心していいってわけじゃないぞ」
だが、彼の表情を見れば分かる。
「やることをやるまで、殺してやれないってだけだからな」
「っ……!」
これから私に待つ未来が、まともでないことくらいは。
「そういうわけで、質問だ」
彼がしゃがみ込む。
近づく視線。
そこには静かで冷たい殺気が満ちていた。
「お前……この前の事件、どうやって毒の存在を見抜いた?」
(……アンネローゼの事件?)
私が魔王城を訪れてすぐの事件。
それが、彼がここを訪れた理由らしい。
「日頃から毒殺の可能性を警戒しているのかと思えば、今回の感じからしてそれはなさそうだ」
どうやら私の盛られた毒は、私を試すためのものだったらしい。
リュートは、私が毒に気付いた理由を追究しなかった。
しかし犯人側としては、その理由はなんとしてでも知りたかったのか。
「自分が飲む物も警戒しないような奴が、他人の飲み物なんか調べないよな」
彼の言葉は正論だ。
事実、シナリオを知らなければ、私はあの事件を完全に見過ごしていたはずだから。
仮に毒を見抜く術を持っていても、アンネローゼへと届く紅茶を調べようだなんて発想さえなかっただろう。
「普通に考えれば、毒を入れたタイミングを見られた可能性が次に挙がる」
リュートもそう言っていた。
状況証拠から考えて、多くの者はそう考えるはずだと。
だが――
「でも、お前が厨房あたりによりついていなかったことは確認してある」
――計画成功のために目撃者を警戒していたであろう犯人は、私がそれを知れる立場になかったことを知っているはずなのだ。
「あと考えられるのは」
黒装束が指を立てる。
「お前に、事件の計画をリークした奴がいる可能性だ」
最終的に残る可能性は、私が事前に計画を知っていた可能性。
もし原作知識という裏技を考慮しなければ。
――この計画を知っていた誰かが私に教えた。
そう予想するはずだ。
「あのメイドが裏切ったのかと思ったが、よりにもよってお前を頼る理由がなさすぎる」
なら、毒を混入させたメイド――セラがその候補に挙がる。
人質を取られていた彼女が、事態を打開するために誰かに助けを求めるのは自然だ。
だが、その相手が私であるはずがない。
友情も、愛情も、信頼も、権力も、実力も。
なにもない私を頼るわけがない。
一縷の望みを託す相手として、私は不適格すぎる。
「だから、いるはずなんだよな」
黒装束はにやりと笑う。
「お前を通して事件を解決したかった奴が」
彼はナイフを取り出した。
「魔王の入れ知恵か? それともハート家つながりか? まさか他に協力者がいるのか?」
ナイフが首につきつけられる。
体が痺れていたおかげで、首筋に刃の感触を感じなくて済んだのはせめてもの救いだった。
「そもそも、魔王がなんでお前を妙に丁重に扱っているのかも気にかかる」
彼は真剣な面持ちでそう言った。
「普通なら自分の足を引っ張った無能なんざ殺す理由はあっても、保護までする理由はない」
(そうか……)
彼の言葉に納得してしまう。
事情を知らない者から見て、私の待遇は疑問だらけだろう。
(魂の入れ替わりという前提を知らなければ、リュートの行動はあきらかにおかしい)
少なくとも、入れ替わりに気付くまではリュートも私を殺すしかないと考えていたように思えた。
寛容だったリュートでさえそうなのだ。
放置ならともかく、保護までするのは奇妙でしかない。
「しかもお前の存在は反感を買うことが目に見えている」
そもそも、私は魔族からも嫌われている。
そんな人間をリュートが保護すると宣言したら?
魔族としては面白くないだろう。
表立って反発しなかったとしても。
そしてリュートは、そんなことも想像できない馬鹿じゃない。
「なのに、魔王はお前を客として招いた」
あきらかにマイナスしかない選択をした理由。
それを目にしたとき、人は考えるだろう。
「言え。もしかしてお前は――魔王から密命を受けているんじゃないのか?」
――自分たちが知らないだけでプラスとなる事情が隠されているのではないか、と。
「たとえば……反魔王派に潜ませているスパイから情報を受け取るメッセンジャー役――とかな」
「……!」
その言葉に息を詰まらせる。
――反魔王派。
それはシナリオの中で聞いたことのない言葉だった。
(反魔王派なんて聞いたこともない)
原作において、リュートは敬愛を集める存在として描かれていた。
反乱分子なんて描かれていた記憶がない。
(だけど、そういう存在がいることを前提に考えると――)
どんな指導者でも100%の支持は受けられない。
少ないながら、リュートを蹴落としたいという魔族がいたとしたら。
(あの事件を起こしたメリッサ。もしかして彼女の家は、リュートに反感を持っている魔族の一族だった……?)
メリッサは、ただの恋愛感情でアンネローゼを殺したかったわけでなかったとしたら?
魔王を敬愛するアンネローゼを排除し、魔王を害したい魔族を妻として据えることが目的だったのなら。
あの日起きた事件。
その全貌が、大きく形を変えることとなる。
色恋沙汰から、政治闘争へと変わってしまう。
「どの派閥にも所属していなくて、どの派閥も取り込みたくない疫病神。言い換えれば、どの派閥とも平等に接触できる存在だ」
そう黒装束は告げた。
私の立ち位置は特殊だ。
外部から現れた部外者であり、取り込むことに多大なリスクを伴う毒物。
みんながそう思っているからこそ、権力闘争から切り離されている存在。
それが私なのだ。
「うまく使えば、相容れない派閥間の橋渡しだってできる」
別派閥の魔族同士が接触したら怪しまれる。
だけど間に私が入り、メッセージを伝える役を果たしたのなら。
比較的怪しまれることなく、表向きはつながっていない派閥同士での情報伝達ができるのだ。
「なんてな? 少しはお前の意見も聞かせてくれよ」
黒装束は酷薄な表情でそう尋ねてくる。
「…………」
だが何も答えられない。
現実として、彼の予想は杞憂でしかない。
しかしそれを告げたところで、私は殺されるだろう。
この状況を打開できる何か。
それが思い浮かぶことはない。
「答えなくていいのか?」
そう言うと、彼は私の手を踏みつけた。
分厚い靴底に踏みにじられ、手がミシミシと嫌な音を立てる。
痺れが少し抜け始めているのか、生じた痛みに顔がゆがむ。
そんな私を見下ろし、黒装束は嘲笑する。
「あの世で、指が少ないと不便だぞ?」
ナイフが照明の明かりを反射し、冷たく光った。




