第108話
ノアの肉体にはエレナの魂が憑依している。
その事実に脳が追いつかない。
一方でユリウスは険しい表情を浮かべながらも冷静に問いを口にしていた。
「アレンとロイはどうしたんですか?」
それは信頼なのだろう。
かつて共に戦った仲間だから。
なんの理由もなく、彼らがノアの異変を見落とすはずがないと。
ユリウスは確信しているのだ。
「ああ。ちょっとした暗示をかけているだけよ」
エレナは冷たく笑う。
本物のノアなら絶対にしないと思える表情。
それが彼女の主張の正しさを証明してしまう。
「少しだけ疑いにくくしてしまえば、私なら騙し抜ける」
エレナはそう嗤った。
彼女の呪術であれば、人間を完全に傀儡とすることも可能だっただろう。
しかしそれではどうしても異変に気付かれてしまう。
だからアレンやロイの行動がおかしくならないほど薄い思考誘導を。
そうして生まれた彼らの隙を、彼女は演技力で埋めたのだ。
「あの2人以外は言うまでもないわね。本当に簡単に騙せたわ」
呪術による干渉があったと言え、あの2人を出し抜いたのだ。
もはや他の人間を騙すことなど児戯だったことだろう。
「だって私は、あの女のことをずっと見てきたんだから」
エレナはノアを憎んでいる。
だからこそ彼女はノアに関心を持ち続けた。
ノアの思考を、仕草を。
他の誰よりも観察してきた。
彼女を絶望に陥れるために。
嫌いで嫌いで。すべての行動が鼻につくからこそ。
エレナは誰よりも正確にノアを模倣できる。
彼女が持つ執念じみた憎悪の深さをあらためて思い知らされてしまう。
「あら。私を殺すの?」
こてんとエレナは首をかしげる。
可愛らしい仕草なはずなのに、怖気が走る。
精神面において、彼女はこれまで見てきた誰よりもバケモノだった。
「言っておくけれど、間違いなくこの体はノアのものよ」
エレナは自身の胸に手を当てる。
姿を偽っている。
あるいは、自分を殺せば本物のノアが解放される。
そんな幻想はないのだと示すように。
「分かっています」
ユリウスは鋭い視線でエレナを射抜く。
「その肉体は今、貴女が支配しているのでしょう。ですがノアの魂も、間違いなくその奥底で眠っている」
あくまで、今はノアとエレナの主従が逆転しているだけ。
言ってしまえば、変則的な二重人格のようなものだ。
表に出ているのがエレナであるというだけで、肉体がノアのものである事実に変わりはない。
「貴女を殺して、ノアを取り戻してみせます」
それでもユリウスは弓を構えた。
彼にはエレナの魂だけを殺す術を持っているのか。
あるいは動揺を誘うためのハッタリなのか。
「その方法も分からないくせに」
エレナは後者だと判断したらしい。
くすりと笑う。
その笑みは妖艶で、ひどく不気味だ。
「ッ」
ほんの少し。
少しだけユリウスの手元が震えた。
「遅い」
その瞬間をエレナは見逃さない。
彼女の体から暗い魔力が滲みだす。
ほとんど反射に近い反応でユリウスが矢を放つ。
しかしそれが彼女に届くことはない。
「それは……!」
「忘れたの?」
エレナを守るように骸骨の魔力が現れる。
彼女の容姿がノアであることを除けば、その姿はグランドルートでボスとして登場したエレナの姿そのものだ。
「呪術は、才能の影響がもっとも少ない技能の1つ。たとえ聖女の肉体だったとしても、魂が私であるのなら十全に扱えるわ」
ノアの肉体を手に入れたことで、エレナは聖女としての力を行使できる。
同時に彼女がエレナであることは変わらぬ事実であるがゆえに、彼女が習得した呪術も使える。
そういうことなのだろう。
「ぐっ!」
「ユリウスさんっ!」
ゲーム内ではノアをはじめとした4人でようやく勝てた相手。
そんな彼女を前にしては、ユリウス1人で対処できるものではない。
驚くほどあっさりと、骨の右腕が彼を払い飛ばす。
壁に叩きつけられるユリウスの体。
地面に倒れたまま彼は動かない。
「エレナちゃん、離れてください!」
私を庇うようにリリが前に出る。
彼女の手元には清浄な光が宿っている。
聖女としての魔力でなにかをしようとしていたのだろう。
だが、その先を見ることは叶わない。
「そいつはエレナちゃんじゃないっての」
呆れたようなエレナのため息。
同時に振り下ろされる骨の左腕。
それがリリを頭上から床へと叩き潰した。
「ぁぐッ!?」
「リリ!?」
まるで虫でも潰すかのような一撃。
床に伏せたリリの体から血が広がり始める。
彼女の体が痙攣するように跳ねている。
だが意識があるようには見えなかった。
「はい。おしまい」
朝食でも作ったような気軽さでエレナはそう言った。
「どうかしら? このまま殺してもいいわよ?」
ユリウスを。リリを。
彼女は順々に見た。
2人はかろうじて生きている。
逆に言えば、治療を受けなければ死ぬということ。
より正確にいえば、2人を助けられるのは聖女の力を持つエレナだけということ。
「そうね。みっともなく土下座をしたのなら、この2人を治してあげてもいいわよ」
「…………」
足先から血液が抜けていくような感覚。
頭から、指先から血が引いて体が冷えていく。
もはや抵抗の余地なんてなかった。
「ようやく、貴女本来の姿が見れたのだもの」
エレナは蠱惑的に笑う。
今、私は魔道具で元の姿に戻っている。
それが彼女には嬉しいのだろう。
かつて聖域で私をなぶったときとは違う。
「貴女のみっともないところ、もっと見たいわ」
私自身の、苦痛にゆがむ顔が見られるのだから。
自分の顔をしている人間をいたぶるよりもよほど楽しいのだろう。
分かりたくもない感覚だけれど。
(まさかノアの体に、エレナの魂が入っていたなんて)
完全な想定外だった。
どうやってノアを説得するか。
彼女の思考に寄り添って、妥協点を見出すか。
そう考えていたのに。
まさか交渉の相手が違っただなんて予想できるはずもない。
(これじゃ、説得どころじゃない……)
本物のノアが相手なら、話くらいは聞いてくれただろう。
成否はともかく、交渉の場につくことくらいはできたと思う。
しかしエレナはそうじゃない。
彼女には最初から話を聞くつもりなんてない。
むしろ、私の主張を否定することこそ彼女の望み。
初めから譲歩する気など微塵もないのだ。
(今はとにかく、2人の安全を確保するしかないわね)
生きていればチャンスはあるなんて楽観的なことを言うつもりはない。
だがここで意地を張っても2人が死んでしまうだけ。
そして私も殺されることだろう。
もはや選択肢はなかった。
「命だけは……助けてください」
私はその場で膝をつき、土下座の姿勢を取る。
額を床へとこすりつけた。
「ごめんなさい……2人を、殺さないで……」
少しでも情けなく、彼女の嗜虐心を満たせるように。
命乞いをする。
生殺与奪を握っているのはエレナだ。
彼女を満足させられなければ、私たちはこのまま死ぬしかない。
「えー」
軽い声色。
焦らすような物言い。
その対象が人の命でなかったのなら、純真な少女のようにも見える。
実際は悪辣そのものだけれど。
「まあ、いいわよ」
意外なことに。
彼女は私の願いを聞き届けた。
彼女のことだから、私の言葉を容易く踏みにじることも覚悟していたのだが。
「本当なら、ここで殺しちゃうところだけど」
そんな予感に間違いはなかったと証明するように。
エレナは当然のようにそう言った。
ではなぜ、彼女はそうしなかったのか。
「貴女がもっと苦しむ方法。もう考えてあるから」
その答えは、やはり私にとって惨いものだった。
敵を助ける。
彼女に限っては、そこに善意がこもっているはずもない。
「貴女を苦しめるために、ここで殺さないであげる」




