第106話
ノアは私室にいなかった。
決闘に挑むような心持ちだからこその肩透かし感。
一方で、実際に彼女がいなくてよかったという安心感。
相反する心情が胸の内に渦巻いていた。
「いないようですね」
ユリウスが周囲に視線を走らせる。
部屋には明かりがついておらず、暗闇に包まれている。
光といえば、彼が手元で放っている魔術による光だけだ。
――人の気配はない。
隠れている……という感じはしなかった。
「さすがにこの時間帯まで仕事をしているとは思えませんが」
ユリウスはそう考え込んでいた。
王族となれば多忙な日々をすごしているのだろう。
とはいえこの時間帯にまで働いているとは考えにくい。
「だとすると、アレンの部屋でしょうか」
そう言うとユリウスはくるりと体を反転させた。
「行きましょう」
彼は足早に部屋を出ようとしている。
どうやら彼はよほどすぐに彼女と会いたいらしい。
「ま、待ってくださいっ」
そんな彼を引き止めたのはリリだった。
なぜか彼女は慌てているようだった。
絶賛不法行為中の身として不安になる気持ちは分かる。
だがどうにも彼女の反応は少し毛色が違うように感じられた。
「どうしましたか?」
怪訝な表情を浮かべるユリウス。
そんな彼にリリはまごつきながら問いかける。
「あ、あのっ……アレンさんってたしか……王子様……ですよね?」
「ええ」
ユリウスはうなずく。
聖王国は人間の国だが、魔族と因縁深い国でもある。
リリが王子の名前を知らないとも考えにくいのだが。
「そ、そうじゃなくて……つまり、聖女様の夫……ですよね?」
ただ、彼女が質問してきた意図はそういう類のものではないらしく、
「夜中に夫の部屋って……ぁぅ……そういうことなんじゃ……」
そう口にするリリの頬は真っ赤に上気していた。
にじむ感情は――羞恥。
(……想像したら気まずすぎるわね)
夜中に夫婦ですごす。
リリがどんな場面を想像していたのかがようやく理解できた。
たしかにアレンの部屋に踏み入ることを躊躇うのも分かる。
もし逆の立場だったら真剣に自殺を検討するレベルの黒歴史だ。
「申し訳ありませんが、私にも事情があります」
一方で、ユリウスは逡巡の余地さえないといった様子だった。
リリの妄想を一考さえすることなく歩き出そうとしている。
「先に私が1人で――」
「その必要はありませんよ」
ユリウスの足が止まる。
原因は、告げられた女性の声だ。
部屋の入口。
そこには白銀の女性――ノア・アリアが立っていた。
さっきまで仕事をしていたわけではなく、たまたま部屋を離れていただけなのだろう。
彼女は寝間着姿だった。
「久しぶりですね。ユリウス」
部屋に戻れば3人の侵入者。
そんな状況でもノアは戸惑う様子も見せない。
静かな目でこちらを見つめていた。
「ロイからもうそろそろ来る頃だとは聞いていました」
あきらかな異常事態。
しかし彼女はいつもどおりの雰囲気で話を続ける。
「正式な手続きを踏んで欲しかった、というのが本音ですが」
嘆息。
彼女は肩をすくめてそう言った。
「申し訳ありませんでした」
「構いませんよ」
ユリウスが謝罪を述べると、ノアは首を横に振る。
「なにか事情があったんでしょう?」
「ええ」
ユリウスはうなずいた。
「その様子だと、私の手紙だけがここに来た理由ではないのね」
少しだけ彼女の表情が真剣なものとなった。
夜中の侵入。
あきらかに普通ではない方法での接触。
しかも、同行者がいるのだ。
特殊な事情を察するのは必然だったのかもしれない。
「そうなります」
「なにがあったの?」
ノアは神妙な面持ちで問いかける。
彼女にとってユリウスは心を通わせ合った仲間だ。
彼のわずかな言動から、事情の重さを感じ取ったのかもしれない。
「それでは単刀直入に聞かせてください」
きっとこれは予感なのだろう。
合理的ではない感覚が、これからユリウスが語る言葉の不穏さを予期している。
そして、
「――――誰ですか? 貴女は」
ユリウスがノアに向けた言葉は、想像さえしていないものだった。




