第8話 この気持ちは、いつまで抑えられるんだろう
夜、気の抜けた身体で、自分の部屋のベッドに横たわっていた。エアコンで冷たくなったお腹に手を置いて、ゆったりと同じリズムで呼吸を続けた。
「うふふ」
今日はなんかあんまりだったけど、でも、生きててくれてよかった。
光、明日も会えるかな。学校どうするんだろ。この間は制服着てたよね。あそこに通うのかな、でもどこなんだろ、見たことないけど、ていうか冬服だったな。それも聞かなくちゃ。でも引っ越してきたってことは、こっちの学校に転入するのかな。
うちだったらどうしよ。かわいいしみんなにちやほやされそう。ちやほや、ちやほやかあ、普通に人気者になっちゃうのかな。見た目はそんな感じだし。あれ家族がいなくて病んでるだけだよね。あんな顔、学校じゃ絶対見せてくれないんだろうな。
別にいいんだけど、別に、もう決まってるとかだったら、そうなってもしょうがない。けど、うちはやだなあ、うちは。
寝返りを打って、横向きになった。同時に、重たい息も喉を出た。
「学校かあ」
声といっしょに、もう一度ため息が出た。
あんなところ、なんで行かなくちゃいけないんだろ。
ベッドの上でぼんやりしてると、窓の外から車のエンジンが聞こえてきた。膝立ちになって様子を確かめると、パパのセダンが車庫に戻ってきて、ちょうどヘッドライトが消えるところだった。
適当に服を着て、階段を駆け下りた。今日はいつもよりちょっとだけ早い。また深夜になるかと思ってた。
上り框の少し後ろに立って待っていると、すぐにパパは中へと入ってきた。ズボンから飛び出したワイシャツはしわくちゃで、ネクタイもちょっぴり曲がっていた。顔色はいつも通りあんまり良くなくて、私を見ても特にそれは変わらない。
「おかえりなさい、パパ。今日は早かったね」
「ああ」
「まだ話してなかったんだけど、最近ね、面白いことがあったんだ。パパにも――」
「後にしろ」
パパが革靴を土間に脱ぎ捨てる。私はそれを拾って、かかとを揃える。しゃがんで作業をしていると、その大きな背中はもう廊下にあった。
投げ出されていた鞄を拾って、その背中を追いかけた。
「ごはん、一応残しておいたんだけど、今日も食べてきちゃった?」
パパは無言だった。ネクタイが落ちてきたから、それも拾った。電気もつけないで台所に入って、ビールの缶を冷蔵庫から取り出したら、そのまま居間へと向かってしまった。
サランラップを被せてあった冷しゃぶには、見向きもしなかった。
着替えもしないで、パパは畳の上であぐらをかいた。低いところにある短髪の後頭部が、面白くもない部屋にくっきりと浮かんでいた。
冷しゃぶの入ったガラス製の器を両手で持ち上げた。ずしんと手にのしかかる重み、底が厚くて金属バットくらいには固い。
冷蔵庫には行かず、敷居を越えてパパの真後ろへと立った。容器は胸の前に、抱えたまま。
「村にね、新しい人が来たんだよ。三奈木光さんって子で、私と同い年の女の子なの」
「ふうん」
パパはこっちなんて見ようとせずに、スマートフォンを弄っていた。ちらちら見える横顔は、ときおり笑顔を浮かべていた。
「早速、友だちになったんだよ。今度パパにも、紹介させてね」
「暇があったらな」
画面を見て、またパパはニヤけるような笑顔を浮かべた。声には覇気なんてないのに、その顔はずいぶん色づいていた。誰かとメッセージのやりとりをしているようだった。
そんな背中を見ていると、頬がひくひくと動き始める。内側に巻き込んだ下唇をいつの間にか噛んでいて、鉄っぽい血の味がした。
一歩、前に出た。ガラスの器を、パパの頭のすぐ後ろで持ち上げた。
「光って変な子でね、学校に行ってるかもわかんないんだよ。そんな子と遊んでるの、パパはやっぱり嫌かな」
返事はやってこなかった。パパはスマホに夢中で、今度は通話を始めようとしていた。またいつもの女だろうか。
ぷるると短い呼び出し音が鳴って、繋がるとパパは陽気な声を出した。
「うーす、おれおれ、さっちゃん今平気? 平気だよな、いやべつになんも――」
腕の力を抜くと、氷と冷しゃぶの入った器が手から落ちていった。重い音がして、中身が畳へと散乱した。
ようやく、パパは振り返った。
「ぁあん? おまっ、なにしてんだ、こんなもんよぉ」
「あ、ごめんなさい、手が滑っちゃって。すぐに片付けるから」
台所から布巾を取ってきて、畳を拭いた。床に膝をついて、ひとつひとつ氷をつまみ取った。
舌打ちをすると、パパはまた電話へと戻っていった。
「ごめんごめん、うちのが粗相しやがって。違う違う、娘だよ、むすめ、あんま出来のよくねえのがいんの」
パパのワイシャツにも、液が飛び散っていた。渇いた布巾に持ち替えて、その背中に触れた。
「ぁっ……」
パパの肘が、肩に当たった。わざと小突いてくるような動きで、私が尻餅をついても声すらかけてくれなかった。
掃除を続けた。畳を全部拭き取って、汁の一滴までも残らない状態にしてもまだ、パパは電話の最中だった。背中にはもう触れないようにして、部屋へと戻った。
馬鹿笑いは、夜の間ずっと聞こえていた。




