第5話 あぁ、だめ、なにこれ、すっごい、すごい
「大丈夫だから、な、すまん、ちゃんと話せばよかった、もうここはいいから、別のところを」
その手が、光の肩に触れた。
「ひっ……」
光の上半身がねじれた。肘で手を弾いて、目の前とみちるの顔を何度も何度も往復するよう見た。締りのない口からベロが見えていて、目を凝らすと涎が糸を引いてるのがわかった。
拳に力が入った。手、指、脇の下、肘、汗でまみれてべたべたになった。
「ぁ、あ……す、すまん、待ってろ水、水持ってくるから」
みちるが急に部屋から出てきた。素足をバタバタさせてこっちに向かって廊下を駆けてくる。
「やばっ」
頭を引っ込める。身体を丸くする。四つん這いになって壁沿いを急いで戻る。やばいやばい見られたらめんどくさい、なんて言おうなんて言おう、心配してたって――玄関まで戻っても、結局声をかけられることはなかった。
廊下にみちるさんの姿はなかった。真っすぐ行ってキッチンに向かったのか、あーよかった。
土間で屈んでいると、緩んだ関節にまた汗の気持ち悪さを感じた。
外に出て、引き戸を閉めた。適当な壁を背もたれにして、ひといきつく。
「危なかったぁ……」
息を吐いて、顔を上げた。ひさしの切れ目から、トゲだらけの太陽が見えた。
「なんかすごかったなあ……あんな反応するんだ……へぇ……」
どくん、どくんとリズムよく心臓の音が聞こえる。崩れ落ちた光が目の前に現れる。心の抜けたあの顔。抜け落ちたあの顔。涎も涙も唾も全部液体垂れ流しにしたあの顔。やっばぁ。さっきと同じだ。
皮膚を撫でられるような震えがやってきて、足の付け根で内側に溶けていった。止まっているとまたどんどん呼吸が早くなって、腰回りが痙攣した。
あぁ、だめ、なにこれ、すっごい、すごい。
一度、お腹の中の空気を全部吐き出した。内股になった足で、壁を頼りに建物を回り込んだ。あの部屋、どこだっけ、光がいたの。こっち、たぶんそう、あのあたり。
胸を抑え、腰砕けになりながら、その部屋の前までやってくる。カーテンが閉まっていて、中はよく見えない。けど、縁の下側から覗き込むと、ほんの少しだけ様子がわかった。
物がほとんど置かれてない薄暗い和室、テーブルすらもないそこに、横に長い台座が置かれていた。それと、人の足があった。白の短い靴下を履いた誰かが、台座の前で立ち尽くしていた。暗い、けど光じゃない、あんな靴下履いてなかった。じゃあみちるさんか、おばあさんか、どっちでもいっか。そんなことより。
縁側にほっぺたをくっつけて覗き込む。ガラスに目を付けて、そうして、ようやくそこに置かれているものがわかった。
写真がある、みっつ。箱がある、これもみっつ。整然と並べられていて、お茶碗らしきものや、みかんみたいなものが置かれていた。
身体の芯をなにかぬるっとしたものが降りていった。足に力が入らなくなって、その場で座り込んだ。
「やっぱり……光はそうだったんだ……うふ……うふっふふふ」
不規則なリズムで、夏の虫が鳴いていた。混ざり合うそれに耳を澄ませながら、肉が震えるような感覚にしばらく浸っていた。
寝て覚めて支度をして制服を着て、だらだら歩きながら村唯一の小売店へとやってきた。太陽光のせいで意識が霞む。ヒビの入っただだっ広い駐車場を横切って中へと入る。なんでこんなとこに立ってんのかな、もっと近場にしとけって。昨日から自転車駅におきっぱだし。
重いガラス戸を開けると、ぬるい空気が胸元に飛び込んできた。涼しくない、なんかぬめっとしてる。扇風機回ってるし。
カウンターに目をやる。
「らっしゃ……って、あれほんとに来たんだ」
一瞬腰を上げたみちるさんが、すぐパイプ椅子に座り直した。
「一度入ったからには最低三点な、冷やかしお断りだから」
そう言って、みちるは手元に視線を落とした。なんだその態度、人がわざわざ苦労してきたのに。
そこら辺を探して、適当に見繕う。チューインガム三つをカウンターに叩きつけた。
「光のことを教えてください」
「うわっ、直球。もう少し雑談しようとかそういう気ねえの?」
「いい天気ですね、タバコの銘柄たくさんありますね、繁盛してますか?」
顔に力を入れて、笑顔を作る。見つめてると、みちるさんは椅子を軽く倒しながら、目を据わらせた。




