第45話 私を呼ぶ声
稜月ちゃん助けて、と私を呼ぶ声が頭の中で反復する。けどそれを上塗りするように、わたしはもう大丈夫、なんて言葉がギンギンガンガン脳内を支配する。
寒い。冷房を消して布団を頭から被って、ベッドの上で座っていて、汗ばかりが出てくるのに、寒い。もっと布がほしい。もっと、もっともっと。
ホワイトノイズのような耳鳴りがうるさい。父親の不快ないびきは階下からドアを突き破ってここまでやってくる。オレンジに点灯するテレビのスタンバイランプ。カチカチうざったい古くさい時計の音。生もの、心臓の鼓動。冴える目、眠くなれない真夜中。光で鬱憤を晴らそうとも思えない。もう二十日も身体を重ねてない。自分で自分に指を入れることもしてない。時間が過ぎていく。一睡もしていない。ずっと寝ていない。
あの日から、あの夜から、光が消えたあのときから。なんとかしなきゃ、なんともできない。光は面接を受けた、試験を受けた、手応えは抜群だと言った。
自己採点に光が満足していたのが今日のこと。だから明日デートしてほしいって、ご褒美がほしいって、要求してきた。
首を支える筋肉が痛い。目はパリパリに乾燥している。カラーに光るスマホの画面を見つめて、もう何時間だろう。メッセージ、最新の、私に向けられた、言葉。
――稜月ちゃんのおかげで頑張れたよ
文字が滲んで三つにも四つにも見える。なんで頑張るんだろう。頑張れないのが光だったのに。もう二度といなくならないようにしたつもりだったのに。なんであなたはまだそんなふうなの。
ちゃんと壊れたはずだったのに。大切な大切な私だけの光になったはずだったのに「どうして」
首が痛すぎて、気持ち悪くなってくる。今すべてを吐き出したら、内臓まで飛び出してきそうだ。私の中の物が全部出てきて、おたまじゃくしのようにうねうねとのたうち回る。水がなくてただ乾いていって、やがて死に至る。そんな哀れなおたまじゃくし。
肺が痛くて、咳が出た。まつげに隠れた視界は霧のように白く、部屋の中のものなんてなにも見えなくなっていた。
明日、別れ話を切り出されたらどうしよう。
あの日まで全部順調だったのに、なんでこうなったんだろう。
デートになんて行きたくない。
七時前くらいに、追加でメッセージが来た。ずっと無視してたからか、光はこんなことを言ってくる。都合が悪いのか、具合が悪いのか、なら別の日にしよう、全然気にしないで――手から落ちたスマホを拾い直して、なんて送ろうか迷って、『大丈夫、行ける』って返した。スタンプがやってきた。喜んでるうさぎみたいな、よくわからない流行り物。
家まで迎えに来るなんて言うから、拒否して光の家に行った。約束の時間にはもう門の前にいて、私を見つけると手を振りながら駆け寄ってきた。
手提げバッグを持つ光は、朝日で肌がキラキラ輝いている。薄手のカーディガンとロングスカート、頭には祖母に貰ったらしいストローハット。
ニコニコする光は、軽蔑するように私を見た。
「どうしたの? やっぱり、具合でも悪いの、無理しなくていいんだよ」
「無理なんてしてない。ちょっと寝不足なだけ、勝手に決めつけないでよ」
「じゃ、ゆっくり歩こっか、あ、帽子使う?」
「いい。ほんとに平気だから。ほらさっさと行こう」
後ろ歩きで、門の外まで出る。急に未舗装路になって「あっ」道のくぼみにかかとをひっかけた。片足立ちになって、バランスが崩れる。お尻が地面に引っ張られて背中が――
「よっと」
光に支えられる。背中に片腕を回されて、そのまま胸元へと抱き寄せられた。
「あぶないよ、稜月ちゃんって意外とおっちょこちょいだったり?」
「か、からかったりとか、そういうのやめて」
「あはは、ごめんなさい。でもね、そんな稜月ちゃんも」
光の頬がふにゃふにゃっと柔らかくなった。アホ面、目まで細めて、しているときよりも気持ちよさそう。かっちり合わさった白い歯、高い鼻、二重まぶた、ぴんとしたまつげ、空の色に近い瞳、リップの塗られたピンクの唇。光、あなたは私の光。
「とってもかわいいよ」
身体の力が抜ける。背中を支えてくれる手が、全体を支えているみたいにおっきく感じられる。笑顔が、ムカつく。
光はそんなこと言わないのに、言わないのに。ウザったいのに。
手も足もなんにも言うことを聞いてくれなくて、すぐには逃げ出せなかった。
「好きだよ、稜月ちゃん」
ぞくぞくがやってくる。肌が敏感になって、こすれる服が気持ちいい。
「それだけ言って。毎日言って、毎秒言って、じゃないとやだ」
「そんなことなら、いくらでも」
もっと強く抱きしめられて「大好きだよ」と光は耳元でささやいてくれた。
けど、私も、って言葉だけは、どうしても出てきてくれなかった。




