第39話 気持ちいいことと、そうじゃないこと
足元から虫が這いずるように、消えていた感覚が蘇ってくる。方向感覚がなくなった視界に、几帳面に閉じた丸と、陽気な文字だけが整然と浮かんでいた。
カレンダーから目が離せない。服を掴んだまま手は固まって、時間も止まってしまう。太ももの外側から冷や汗が染み出してきて、気持ち悪い。気持ち悪い、気持ち悪い。
ただの置物になったわたしは、考えることも忘れていた。
頭の中には、ぽっかり空いた空白だけがあった。
「光」
後ろから声をかけられて、肩がぴくっと跳ねた。
「そんなところに突っ立って、どうしたんだい? 今朝も顔色がよくなかったけど、心配事があるならババアに話してもいいんだよ」
首を先に半分回してから、振り返った。
「あはは、ばれちゃってた? ごめんなさい、ちょっと試験がプレッシャーで、そう難しくないはずなんだけど、失敗できないって思うと、どうしても考えすぎちゃって。でも、だいじょぶ、だいじょぶ、もう一踏ん張り頑張るから、おばあちゃんは心配しないで」
背中側に手を組んで首を傾けると、髪の毛が肩から落ちていった。
しわだらけのおばあちゃんの顔は、一向に明るくならなかった。
「また、辛いことがあるのかい。ごめんね、平気なはずないのにね」
手首を締め付ける指に、力が入った。下唇を噛みそうになって、でもすぐに、それをやめた。
「そんなことない」
そんなことない、そんなことない、そんなことない、わたしは平気だってわたしは無事だってなんども言ってるなんどもなんども、何度も。
「ちゃんと生きるってみんなにも伝えたんだもん。くよくよなんてしてられないし、だからわたしは大丈夫。ほんとだよ、ほんと。へへっ、おばあちゃんは、ちょっと心配性だよ」
「だけど光、あんたの人生なんだ家族のことは――」
「いいから、わたしの好きにやらせて。あ、ごめん、今日も行かないと」
稜月ちゃんが待ってる、わたしを待ってる。こんなところにいつまでもいられない。いかなきゃ。
おばあちゃんの顔を見ずに、居間を出た。後ろの方から、重い息遣いだけが聞こえた。
ソックスだけを履いた稜月ちゃんが、わたしの腕を枕にして寝息を立てている。ブランケットのくぼみが、身体のラインをはっきりと浮かび上がらせていた。
ちゅんちゅんと小鳥のさえずりが聞こえてくる。お堂の薄暗い天井の一部が剥がれていて、四角い穴が開いてる。びらびら垂れる木材に手を伸ばして、指先は遠い。
広げた手を丸めて、胸元に戻した。腕の中の稜月ちゃんは、すやすやと、耳を出して眠っていた。脇に乳首が当たっている。脚と脚が重なって、触れ合ってる。
起きればまた、求めてくる。稜月ちゃんはずっとそうで、わたしも、そう。
野生に生きてるみたいな、わたしたち。
腕から力を抜いて、目を瞑った。小鳥の鳴き声は消えてなくなり、稜月ちゃんの吐息だけが聞こえていた。
今日は、何日だっけ。学校、勉強、試験、面接……なんて言うんだろう、それを口にしたら。
「わたしの人生、おばあちゃん……」
目を開けた。太陽の角度が変わって、天井が明るくなっていた。きらきら舞う埃が降り注いで、わたしたちの中に溶けていく。
「わたしの好きに」
好きなのは稜月ちゃん、だけど、けど、それだけじゃ、わたしは。
稜月ちゃんは。
揉まれてるときよりも、胸の中が熱くなっていた。
夕方の森を、並んで歩いた。稜月ちゃんはわたしの腕に抱きついていて、頬を擦り寄せている。沈みかけの太陽が正面にあって、目は薄っすらとしか開かない。伸び切った木の陰を踏みながら、同じような景色の場所を延々と進んだ。
かぁかぁという鳴き声が高いところを通過していき、震えながら伸びる虫の音がいたるところから聞こえていた。
熱と湿気が漂っていて身体中汗塗れ。下着は湿って、シャツは濡れて、足の指先もぬるぬるしている。皮膚の表面がほてっていて、肉と一緒に思考が垂れていく。ぼーっと歩いて、稜月ちゃんの話す言葉が耳から首の裏側に逃げていって、また歩いて、半分くらい行ったところで強めに息を吐いた。
「あのね」
ばっと稜月ちゃんが顔を上げた。茶色く丸い瞳がわたしを見た。
「あ……あの……ね、やっぱり、わたし思うんだ」
「なあに? 急に怖い顔して、また私を虐めるの?」
早くなる息を、飲み込んだ。浮きそうになる肩を抑えて、口元に笑みを作る。
「そうじゃないよ、そうじゃ。えとね、今、わたし、とっても幸せ。なんだけどね、けどね、どうしても、言わなきゃいけないことがあって、稜月ちゃんが嫌なのはわかるけど、わかるけど」
ぱんっ、と手を叩く音が聞こえた。両手を合わせた稜月ちゃんが、腕から離れていった。
「そうだっ、忘れてた」
「え、わすれ……ちょ、ちょっと待って、いま大事なことを――」
稜月ちゃんの顔が顎の真下にやってきて、わたしを見上げていた。




