第37話 稜月ちゃん稜月ちゃん
稜月ちゃんは後ろから日光を受けて、身体の前が暗くなっていた。ニコニコと笑顔を浮かべて、わたしを見ていた。
「な、なんで」
「なんで、もないよ、私は光の彼女だから、迎えに来たんだよ」
腕にも足にも力が入らなくなって、ただ立ち尽くす。空気が抜けてしまったかのような感覚、ただ稜月ちゃんがそこにいるだけなのに、なんでこんな。
「あれぇ? どこに行こうとしてたの、そんなもの持って」
稜月ちゃんの視線がトートバッグに向いて、いたずらっぽい笑みが浮かんだ。
「どこにって、えーと、これね、いつも通り、だよ。わたしやんなきゃいけないから」
「へぇ、今日は月曜なのに、光ってばおっちょこちょいだね」
「……あ」
休館日、そうだった、忘れてた。
「そっか、忘れてたなあ。じゃあ部屋に戻ろうかな、はは、馬鹿だなあ、あ、稜月ちゃんは学校だよね、えと、気を付けて行ってきてね」
笑顔を浮かべると、単音が連続するような笑いが口から出ていった。
「それじゃ」と言って、背を向けようとした。
「待ってよ、どこに行こうとしてるの?」
予定の半分だけ回ったところで、身体が止まった。
首から上だけを、稜月ちゃんに向けた。
「だからね、部屋、部屋で勉強しないといけないから、から」
「私ここにいるんだよ、光に会いに来たんだよ、それなのに行っちゃうの?」
見える景色に白いザラザラしたものが混ざる。小さな汚れが動いていて、稜月ちゃんの顔がその薄い膜の向こう側にあるように見えた。みぞおちに嫌な感覚があって、ぐっとお腹が鳴いた。
「でも、やらないと」
「そう、じゃいいや。ごめんね引き止めようとして」
「え、あ、うん、そう言ってくれると助かる」
長めの息が出た。少し、胸が軽くなる。よかった、ちゃんと話聞いてくれた、よかった。なんで稜月ちゃんにこんな、でも勉強はしなくちゃいけないから、仕方ない。
からん、と音がした。稜月ちゃんの脱いだローファーが転がる音だった。
思わず、その足元を見た。膝下までの真っ白なソックスで、玄関のタイルに立っていた。顔を上げると稜月ちゃんはもうそこにはいず、わたしを通り越して上り框に足をかけていた。
「あの、稜月ちゃん、どうした、の? おトイレ、とか?」
ぴたっと白い足が止まった。
「ううん、お話してこようと思って、おばあさまたちと」
胸がきゅっと締まって、息ができなくなった。まぶたが上下にくっついて、ざらざらがまた大きくなった。
「なに、を、なに、なにを」
背を向けたままなのに、稜月ちゃんが笑ったのがわかった。
「もちろん、光のこと。話さなきゃいけないことが、あるよね?」
足首がカチコチになった。下がっていた顔が上がった。全身が粟立つ感覚があった。
「やめて……やめて……それはやめて、だめ、やめて……だめ……」
トンと背中に衝撃があった。腕が回っていて、稜月ちゃんに抱えられるようになっていた。そうされていると勝手に背中が丸まっていって、また下を向いていた。
耳元で稜月ちゃんがささやいた。
「ねえ光、私ね、行きたいところがあるの」
「行きたいところ……でも稜月ちゃん、学校は」
「学校でも図書館でも光の部屋でもない、ふたりっきりになれるばしょ」
吹き付けるような吐息が、耳の穴に入り込んだ。
「いいよね?」
ぞくぞくした感覚が、全身に広がった。下腹部が緩んで力が抜けた。手足の痛いのも、目と頭のざらざらしたのも、全部消えてなくなった。
かかる吐息が、稜月ちゃんの声が、ただ気持ちいい。
「ね、いこっ」
首筋に吸い付かれて、ちゅぱっという音がした。
また身体が緩んで、頬はきっとだらしなく溶けていた。
ああなんか、なんだっけ、なんでもいいや。稜月ちゃん、稜月ちゃん。
このままとろけて、消えてなくなるんじゃないかと思った。
手を引かれて、稜月ちゃんの後ろを歩いた。いつも後ろ、わたしが前にいたことは、たぶんない。今日も、これからも、ずっと。
頭がぽーっとして、まぶたが重かった。稜月ちゃんは何度も振り向いて、こちらを確認した。そのキリッとした目を見るたびに、胸の中の雑音はへたれてなくなってしまった。
早くなる心音を聞きながら森に入って、いつもの廃寺への道を辿った。これからなにが起きるんだろう。おしゃべりかな、肩を寄せ合ってうたた寝かな、なんか、どれも違う気がする。そんなことのために向かってるんじゃないって、わたしの胸が言ってる気がする。
足を止めずに股を閉じた。少し湿った稜月ちゃんの手の感触を、感じた。ドキ、ドキと心臓が跳ねて、わたしの身体は固くなった。




