第36話 楽しい楽しい楽しい
背中に圧力のようなものを感じた。触れるだけで鳥肌が立つ、なにか黒い放射状のもの。背中を向けているのに、その姿ははっきり見えていた。
白いセーラー服を着た女の子。肩は丸まっていて、だらんと両手を垂れ下げている。ふらふら歩み寄ってきて、一歩踏み出すたびに倒れかけている。その目は影のように黒く、猛獣のように歯をむき出しにしてる。
「裏切り者」
女の子の声が、内側に広がった。体中を駆け巡り、血から熱を奪っていく。
「裏切り者裏切り者裏切り者裏切り者。光は私を残して遠くに行くつもりなんだ私なんてもういらないんだどこにもいかないなんて嘘、私はただ利用されただけ」
「そんな、そんなことない、わたしは稜月ちゃんと一緒にいる、ずっとず――」
腕を引かれる。灯里がわたしの手を掴んでいる。
「早く死のうよ、早く。死ね、死んでよ、お姉ちゃんは生きてちゃいけないんだから」
「やだっ、死んでない、わたしは死んでない、灯里はそんなこと言わない、そんなこと……そんなこと……」
目から力が抜けるのに、わたしには涙なんてない。口ではなにを言っていても、力がない。嘘だ嘘ばかりなにを言っても嘘で、本当のことなんてなくて、わたしはわたしは、死、死、死ぬ、嫌だそんなの嫌だ、でも生きてる、そんなのだって、わたしには。
気持ち悪い。みぞおちの奥が荒れている。こんな場所にいるのに、なんでわたしは、わたしの形をしているんだろう。
「光ぅ、私のために生きるんでしょ? そうでしょ、そうだってちゃんと言ってよ」
「死ねよ、死ね死ね死ね死ね、なんで生きてるんだよなんでお前だけ生きてるんだ、なんで、なんで、わたしは死んだのに、なんでお前だけが、許せない、早く死んでしまえっ」
「あ……ぁ……ぁぁ……」
どっちを見ても暗いものしかなくて、行き先なんてどこにもなくて、身体はひたすらに道がわからないと右往左往している。
逃げなきゃ、いかなきゃ、ここは違う、違う、こんなところは違う。両手を前に出しながら、わたしは駆け出した。溺れる人みたいに必死に、指先でなにを掴もうとして。
転びそうになりながら走って走って、どれだけ走っても、出口なんてどこにもなかった。
ただただ胸の中には「嫌だ」という正体不明の言葉が浮かんでいた。
朝はいつも通りに過ごした。
談笑しながらご飯を食べて、シャワーを浴びて、洗面所で身だしなみを整える。髪を乾かして、櫛を入れ、お肌のケアも済ませたら、最後は笑顔。鏡の中の自分に、微笑んだ。
「よし、今朝もばっちり」
死ねばいいのに、死んじゃえばいいのに、胸の中に声が聞こえる。それは身体の真ん中を通って上り、頭の中でぐるぐると縦に回り続ける。
「ちょっと前髪伸びたかな?」
ぴょろりと跳ねた髪の毛を、指先で摘んだ。鏡とにらめっこして「うーんびみょい」と唸った。
「おい光、長いけど、具合でも悪いのか?」
後ろからみちるちゃんの声が聞こえて、すっと背中が上がった。洗面所入口の扉に手をおいて、口には歯ブラシを咥えている。浅黒い肌は健康的で、その顔は老けとも悩みとも無縁そうだった。薄い胸も、少年のような体格も、短い髪も、全部普通で、まともな大人で。
「なあ、なんかさっきから――」
背筋をまっすぐに立てた。鏡の中のわたしは、変わらず笑顔だった。そのまま振り返って、みちるちゃんの鼻を見た。
「ううん、なんでもない。ごめんね。あ、どくねもう終わったから」
「お、おう、ならいいんだけど」
みちるちゃんの目が、一瞬下を向くのがわかった。
「なにかあったなら、お姉さんにもちゃんと話してくれよ」
言い切ってから、みちるちゃんは照れを隠すように笑った。
わたしは二往復、首を左右に振った。
「ほんとになんでもないよ。今更、心配してもらうことなんて、なにもないよ」
みちるちゃんの横を通り抜けて、洗面所を出た。どしどし音を立てて階段を登っていると、歯に力が入って、名前のつけられないごわごわした感情が湧いてくる。
なんにもわからないよ、みちるちゃんには。
目元に湿り気が現れた。拭わなきゃなのに、手はだらんとして力が入らなかった。
着替えを済ませ、トートバッグを肩から下げて玄関に立った。外の光で白くなってる引き戸、夏の熱気が伝わってきて中まで暑い。腰砕けになりそうなのを堪え、扉を開けた。
「おはよう、光」
稜月ちゃんが、いた。




