第35話 覚めても、寝ても
なにもわからないまま世界は暗くなって、いつの間にか稜月ちゃんと別れて、家に帰って、ぼんやりと時間が過ぎた。
膝を抱えて、お風呂に沈んでいた。水面から飛び出るふたつのコブは、赤い。
扉の奥から話し声が聞こえる。みちるちゃんとおばあちゃんが、くだらない話題で談笑している。よかった、光が前向きになってくれて。うちの家系はタフだから、そう簡単に折れたりなんてしない。あなたと同じように、私と同じように。それに、お友達が側にいてくれるから。
胃のあたりがムカムカした。喉が狭まっていて、息を吐き出すのも重い。足をいくら抱いても締め付けても、身体の厚みはなくならない。
なんで、なんで、なんでなんだろう。なんだったんだろう。さっきまで普通に生きてたのに、今はもうなんか、全部が違う。
灯里、お姉ちゃん、わかんなくなっちゃった。ようやく、ようやくだって思ったのに、なんでこんな。自分だけじゃない、稜月ちゃんまで巻き込んで、わたしは――光
頭の中で、稜月ちゃんがわたしを呼んだ。
光、どうしたのって、稜月ちゃんが言う。腰の後ろに手を当てて、下から覗くようにわたしを見ている。その動作はかわいらしいのに、その声は弾んでいるのに、周りは全部黒くて、一切光が差さない。鼻の奥が詰まった感じがする、目の付け根の奥が膨らんでいて、そこで息が詰まっている。
何を見たんだろう、何があったんだろう、稜月ちゃんはなんなんだろう、わたしはなんなんだろう。なんで、「なんで……なんで……うぅ……うう」
喉が震えて、声はただ悲鳴をあげる機械みたいに聞こえる。いつの間にか目を閉じていて、また泣き出しそうになっていた。
家族も誰にも稜月ちゃんにも、謝る言葉すら喉を通り抜けていかなかった。
ベッドに座っていてもわたしは、膝に手を置いていた。しっとりした髪が肩に乗っかっていて、エアコンの風がもっと冷たくなったように感じられる。
静かにしているだけで、自然とまぶたが落ちてくる。焦点が合わず世界はふたつに割れて、細すぎる指先はまるで石の置物のよう。
思考らしきものがぷつぷつと浮かんでは消え、ただ手のひらを眺めていた。赤くなっていて、骨についた肉はぷくと膨らんでいる。傷一つない手、なにもない手、なにも掴めない、この手。
明日にならなきゃ、寝なきゃ、日が変わればきっとなにか変わる。こんなの今だけのことで、きっと明日にはいつもに戻ってる。いつものわたしに、いつもの日常に。
「もう、寝ちゃおう」
電気を消して、タオルケットを被って、ベッドに横たわった。
意識は漠然と、体は朦朧と、寝ようとしてるわたしは、誰なんだろう。
「おやすみなさい、灯里」
つぶやきが口を出て、思ったよりも早く頭から思考が消えていった。
暗くて狭い場所にいた。壁には赤黒いペンキが塗りたくられていて、漆喰の塗装のようにでっぱりが見える。光はないのに全部見えていて、おかっぱ頭の女の子のシルエットが浮かんでいた。
顔もない、目もない、でもそれは確かにわたしを見ていて。型紙を切り取ったようにくっきりとスカートが浮かんでいた。黒の中に黒があってずっと黒い。でもそれはそこにあって、わたしだけを見ていて。
女の子は、足をピンと伸ばしてこちらに向かって歩いてきた。わたしの目の前で止まって、顔が上がった。凹凸のない、黒一色の顔が。
「お姉ちゃん」
「あか、り」
「こんなとこでなにしてるの? みんなもうあっちに行ってるよ?」
「あっち、って、なに。なに言ってるの灯里、お姉ちゃんには、わかんない」
影の口が半楕円のように開いて、赤い舌だけが見えた。
「ほらあっちだよ、あっちにはあるでしょ? ちゃんと」
影は暗くなにもない場所を指さした。うっすら肌色のなにかが積み重なっているように見えるけど、違う、そこにはなにもない。伸びてくる腕も、悲鳴を上げる口も、あの目も、頭も、なにもない。
「むこうって、あっちって、なにが。わたしになにを、ねえ、灯里」
「だからぁ」
影が寄りかかってきて、腕を抱き込まれた。頬を擦り寄せて、わたしを見上げた。
「光はさぁ、本当はもう死んでるんだよ。そんなところにいつまでもいるのが、間違いだと思わない?」
影に色がついた。甘い声、鋭い目つき、小柄な体躯。指を絡め、胸を押し付け、わたしに絡みついている。その顔を見るだけで、おもわず頭を遠ざけてしまう。
「稜月、ちゃん、なんでこんなところに」
「なんで、もないよ。いつも一緒、私はずっと光の側にいる。いないときも、いるときも、ずっと変わらない」
「だからって、なんで、え、えぇ、だって灯里が、今、今まで、そこに」
稜月ちゃんの口が裂けて、また影になった。
「そうだよ、灯里はここにいるよ。お姉ちゃんと一緒、いつも一緒、ずっと隣にいるの」
「とな、となり」
「そう、いつも一緒。だからね、お姉ちゃんも早くおいでよ」
「だから、だからさっきからなにを言ってるの、早くって、おいでって、わたしは」
影は、黒でしかない目を見開いて、わたしを見上げた。
「稜月お姉ちゃんも言ってたじゃない、光が――お姉ちゃんはもう死んでるんだって。わかるでしょ? あっちがどっちなのか、誰がそこで待ってるのか」
「わからない、わからない、わたしは死んでなんかない、だって、まだ」
頭を抱えた、ような気がした。しゃがみ込んで震えているわたしがいるのに、まるでその姿を高いところから眺めているような錯覚がする。影も稜月ちゃんもどこにもいなくて、ただ一人で暗いところにいた。
「ねえ、ねえ、なんで」
わたしはわたしに戻って、目の前に丸みを帯びた黒い足が見えた。側頭部を押さえたまま顔を上げると、視界が明るくなる。こちらを見下ろす灯里がいて、神様みたいに後光がさしている。閉じた目は細く、曲線のように穏やかで、口元には笑顔が浮かんでいた。差し伸べられた手のひらは、ふっくらしたまだ小さい女の子のもので。
「お姉ちゃんはまだそんなとこにいるの? 早く死のうよ、みんな待ってるよ」




