第34話 うん、したい
色っぽさのある声が、頭の中で反響した。
あの日の光景が、頭に浮かんでくる。
わたしはここにいて、端っこに立っていて。
「ぁ……ぁぁ……ぁ」
胸が、首周りが、突っ張って、音を出しながら息が飛び出していく。
あ、あ、ぁぁ、ひぅ、な、なん、これ、いみ、いみわかんない、な、なに、なにがなにがなにが、やめ、やめて、そんなのちがう、そんなの、そ、そんな、そんなの。
「わた……わだっ……ぁ…ぁぁ……ぁぁあぁ」
左目をえぐるように手をすべらせて、髪の毛を掴んだ。指の隙間に絡んで、痛い、指のほうが痛い。痛い、痛い、痛い。目を開けていられなくて、強く閉じて。唇が剥がれて、歯がむき出しになった。
自分の短すぎるうめき声だけが聞こえる。
「ほおら光、なにが見えたの? 言ってよ、ちゃんと言ってよ、ねえ」
稜月ちゃんが身体にまとわりついてくる。腕を回して、抱きついて、背後からわたしをがっちり捕まえている。股がぴったりとじて、筋肉がぎゅうぎゅうと悲鳴を上げていた。
左下に稜月ちゃんの顔があった。目を閉じて、猫のように笑っていた。
「言ってよ、言わないと嫌いになっちゃうよ、ねぇ、ちゃーんと」
「ちゃ、ちゃん、ちゃんと、わたし、わたしはなにを、あのとき」
左側から列車が迫ってきた。
音はなにも聞こえず、ただ黄土色の顔面が向かってきていた。
なにもかもが白になって、丸まった背中が現れた。背丈はわたしとぴったり同じで、顔は真っ白で、なぜか口元が笑っている。
ホームの縁に足をかけて、体重を線路側に傾けている。かかとが浮いて、身体が投げ出されて。
「だめ、だめだめ、いっちゃだめ、だめ、だめぇ」
手を伸ばしたけどすり抜けて。時間が止まって。ただ蝉の鳴き声が、耳にうるさくて。
そして。
その女の子は、いなくなった。
「あぁあああぁあああああ」
膝がガクガク震える、足の甲に力が入って、立っていられなくて、膝をついた。耳元に、唇があった。
「どうしたの? 人が死ぬ瞬間でも見たような顔して」
「死ぬなんて、わたしは、わたしは」
肩に手を回して、稜月ちゃんはわたしにのしかかっていた。
「ねえ、光、こっちを見て」
言われたとおりに、顔を向けた。
「どうしてあなたは、今ここにいるの? ご家族のため? 妹さんのため? まさか学校に行くため? ううん、違う、どれも違う、そんなものは必要ないもん」
稜月ちゃんが、いた。肩と首をがっちりつかんで、わたしを、わたしだけを見ている。
自分の呼吸音が、大きかった。気動車が滑り込んできて、目の前が暗くなった。
二の腕に稜月ちゃんの腕を感じる。背中に稜月ちゃんの胸を感じる。胸のあたり、素肌が稜月ちゃんの指を感じる。
「痛いの? 苦しいの? 辛いんだね、じゃあさ、久しぶりに」
稜月ちゃんの唇が、ぴったり閉じた。そこにだけ色があって、艶のような光沢が浮かんでいた。
「キス、しよっか」
止まっていた心臓が動き出す。消えそうな音が、身体を叩いている。唇だけが視界いっぱいにあって、息を呑むと、喉の奥で酸味を含んだ嫌な味がした。
「ほしい、欲しいんでしょ、だってすごく欲しそうな顔してるもん、光のエッチ。でも、うーん、光は私を嫌いになっちゃったもんね、どうしよっかなあ」
「あ、あ、稜月ちゃん、わだ、わたし、やだ、やだやだやだ、やめてやめて言わないでそんなこと言わないで言わないで……言わないで……」
泣いてるみたいに顔が崩れた。太ももが痛い、痛い、うぅ、ぅぅと掠れた声がまた聞こえる。
「言ってよ、光がここでなにをしようとしてたのか、い、わ、な、い、と」
稜月ちゃんは「んふ」と笑い声をだした。
「私たち、ここでおしまいになっちゃうよ?」
目が開いていって、目玉の上の方が突っ張るような痛みを訴えた。がくっがくっと壊れたテレビみたいに視界が歪んだ。稜月ちゃんの吐息が、耳の穴にかかった。
「またカウントダウンする? ごー、よん、さん、にぃ、いち」
あ、ぁ、あ、あ、わたしなんで、なんでわたし、わたしわたし、なんで、なんで。
言わないと、言わないと、なにをなにを、わたしは、ここでなにを。
「ぜーろ。ほら、言って、もう一度は聞かないよ、言って」
唇が離れる水の音がした。
開いていた気動車のドアが、しまった。
発車しますと、聞こえた。
肩甲骨から熱が広がって、背中を経由して頭に上った。足の裏と股が汗塗れで、なんかそういうことにようやくきづいた。ははそうなんだ、そうだったんだ、わたしそうなんだ。
ここにもういないはずだったんだ。胸の中にじわっとしたものが広がった。笑顔が浮かんできた。ああ稜月ああ稜月ちゃんそこにいるいてくれる。わたしの好きな人。
呼吸が荒くなってるのがわかった。じわぁと股の間から熱が広がって、ねばっとしたものが降りてきた。
「稜月ちゃん、あの、わたしね」
笑顔が溶けていく。足の裏がピンっと張って、心臓がどくんとコブのように音を立てた。
「稜月ちゃんがいなかったら、死んでたみたい。あはは、あはははは、やばいね、あははは、やばすぎるね、うふ、うふふふ……ぅぅ」
涙が出そうなのに、全く出てこなかった。
稜月ちゃんの唇が、顔が、微笑むその目が、愛おしい。
正面に回って、稜月ちゃんは首に手を回した。見つめ合って、じんじん、ぽかぽかした。
「稜月ちゃん稜月ちゃん」
「よくできました」
顔が近づいてきて、目の前が真っ暗になって、唇を奪われる。
むしゃぶりつかれて、わたしもむしゃぶって、息ができなくなってもそうしていた。
離す頃には口の周りがびしょびしょに濡れていた。
立ち上がった稜月ちゃんに見下ろされて、左胸のあたりにまあるい穴が広がった。
「これで光は私の――」
その先の言葉は、なにも聞こえなかった。
頭の中で、警笛が鳴り響いていた。




