第31話 みんなにわたしの好きな人を伝えます
カレンダーに丸をした次の日、わたしは一階のある部屋の前にいた。薄暗い廊下に、分厚い襖が閉じられていた。若草模様の表面に触れる。手に汗が染み出していて、湿っぽい。
指先が震えて、拳を作っても力が入らない。頭は思ったより冷静で、けど胸の左側だけがずっと音を鳴らしている。身体が今この場所にないような、そんな浮いた感覚。
目を閉じて、落ち着いて、落ち着こうとして、呼吸をした。この先で、わたしの家族が待ってる。みちるちゃんでも、おばあちゃんでもない、大切な、大切なもういない人たちが。
灯里、あかり、おねえちゃん、おねえちゃんは、大丈夫だ、大丈夫、稜月ちゃん、稜月ちゃん、わかってる、わかってるよ、これは必要なことだから、逃げてちゃいけないから。
両手の拳をぐっと握って、骨が鳴った。目を開けて、意識的に二回呼吸をして。腕の付け根のあたりが、じんわりと熱くなった。
行こう、話そう。
一瞬喉が詰まって、なにも見えなくなって、歯を食いしばった。
「ん、んん、ふぅ、んん、大丈夫大丈夫だから、稜月ちゃん」
ぎゅっと目を閉じて、引き戸に手をかけた。
襖を一気に開けた。
蛍光灯に照らされた、六畳一間の和室。無機質で、言葉も、音もない。そこはテレビで見た刑務所の一室みたいだった。
部屋に入って、それを探した。
壁側にあった。仏壇があった。
白い台が置かれていて、そこに骨壺が三つ。写真も三つ。
血の気が引いて、また自分ではないような感覚になる。つばを飲んで、息継ぎするように顎を上げた。
不思議と涙は出ない。ただただ、押し寄せてくる。見えない、台風のような圧力が。
どれぐらいの時間かわからないけど、その場で固まっていた。おっきな壺に挟まれた、小さな壺。緑色のカバーがかけられているのに、なぜか中身がむき出して置かれているように見えた。
ちょっぴり身体が斜めを向いている、灯里の写真。おかっぱで、乳歯が欠けている。
涙が出てこない。泣くしかないと思ってたのに、泣けない。でも、足が動かない。手も言うことをきかない。
目を閉じて、自分のことを考えた。今ここにいる自分、かつてあそこにいた自分。全部奪われた自分、けど新しく大切なものを手に入れたわたし。ふたつのわたしがいて、ここにいるのは今の三奈木光で、そんなわたしは、もう逃げたくないと思っていて。
「よし……大丈夫」
目を開けて、前髪を払った。白くふっくらした座布団を見て、そこに座った。
二段重ねの棚。奥には遺骨と遺影、手前には鐘と、今日のお昼ごはんが三人分。ちゃんと、ちゃんとそこにある。それを見ると、胸の奥から涙が上がってきて、耐えられなかった。
「おばあちゃん……わたし……ごめんね……」
指で涙を拭って、顔を上げた。また前髪を払った。しっかり目を開けて、つばを飲み込んだ。
なんて言おう、なんて言えばいいんだろう。ごめんなさい、ありがとう、違う、そんな簡単な言葉じゃなくて、もっともっと、伝えなきゃいけないことがたくさんある気がして、でも、ちっともわからない。
下唇を歯の上に乗せて、噛んだ。荒くなっていた息を落ち着けて、呼吸を整える。
左にあるお父さんの写真、右にあるお母さんの写真、真ん中にある灯里の写真。それらを順番に目で追った。
急に、心が落ち着いた。涙が目に張り付いて、しわがれたような感じがした。
「お父さん、わたしね、ちゃんとここにいるよ。嫌なことたくさんあったけど、なんとか頑張れてるよ」
あの日からずっと、最近までなにも覚えてない。ただ、暗いところにいただけ。
「お母さん、わたし生きてるよ、生きてる。死んじゃいたいって思ったこともあるけど、それだけは絶対に選ばなかったよ、選べなかった」
消えたい、いなくなりたい、わたしなんかここにいちゃいけない。遠くに遠い場所に、誰もいない場所に、行かなくちゃいけない。そんなことばかりを、覚えている。
でも、そんな世界に一本の手が生えてきた。光に包まれていて、あったかくて、どんなときもわたしをひっぱろうとして。細くて頼りないのに、絶対絶対離さないでいてくれた。
稜月ちゃん、稜月ちゃん、ありがとう、わたしを助けてくれて。ありがとう。
下唇がめくれて、歯がむき出しになっていると思った。ぶさいく、ブサイクで酷いけど、酷いけど、これがわたしだ。
「灯里、わたし、わたしね、ずっと灯里が側にいてくれるような、そんな気がしてたの。となりにいるって、手を繋いでるって、でも違うんだね、あなたはここにいたんだ」
眉の根本がなぜか痛かった。頭の真ん中が、暑苦しかった。
灯里の笑顔を見ていると、すぅっと頭の力が抜けた。笑ってる、そこにいる。
なにを言おう、なにを言ったらいいんだろう。頭の中で思考がぐるぐる回って、追い付かない。外側は冷静なのに、中はかきみだされている。
膝下に置いた親指が、ぴくぴくと動いていた。
頭の中に、灯里の声が聞こえた。
おねえちゃんはなんでそこにいるの、と言っていた。
「なんでって、なんでだろう」
わたしがいるのは当たり前で、でも当たり前なんかじゃなくて。
ちっちゃな天使みたいな灯里が、光の筋の中でふわふわと浮かんでいた。まるでキューピットみたいに、わたしを誘ってる、違う、わたしに託そうとしている、あそこにいた、あの子の人生を。
少し、目は上を向いていた。それを見つめて、言った。
「わかんない、わかんないけど、一緒に探してくれる人を見つけたよ。だからさ、こんなお姉ちゃんだけどさ、また、またちゃんと報告できると思うからさ、もう少し待っててくれないかな」
息を吸うと、時間が止まったような感覚がした。呼吸音がよく聞こえた。
灯里の骨壺を見た。
「絶対見つけるから」
たぶん、真顔になっていた。涙もなく、弱さもなく、少し胸がざわざわするけど、それでも真っ直ぐに見つめていられた。
仕方ないお姉ちゃんだなあ、と呆れたように言って、灯里は空を上っていった。
ただ、静かだった。エアコンの風の音が聞こえて、それが動いていたことに今気付いた。
また下がり気味だった、顔を上げた。
言葉ではなく目を閉じて、心のなかで「ありがとう」とつぶやいた。
また、いつか会おうね。
わたしはもうちょっと、おばあちゃんになるくらいまでは、生きるから。
うん、平気だよ。だって、稜月ちゃんがいてくれるから。
なにも怖いことなんて、ないよ。
そうやってしばらく、みんなと話していた。なにも聞こえてこないのに、何もかもが聞こえているような気がしていた。
隣の部屋で、ちりんと風鈴が鳴っていた。




