第29話 卵焼きの作り方をね、教えてもらいたいんだ
次の月曜日、稜月ちゃんはまた、我が家で朝ご飯を食べていた。
目を輝かせ、口をパクパク開けて、美味しいって言葉だけが飛び出してくる。笑顔は伝染して、食卓が日向になっていた。
稜月ちゃんを見てると、自分の顔が緩んでるのもよくわかった。ほっぺについたご飯粒も、ちょっと変わったお箸の持ち方も、全部本物で、すぐ側にいてくれて。ふとした時に見せる真顔までも、心地いい。
「おい光、箸止まってんぞ、具合でも悪いのか?」
おぼろげだった意識が、急にはっきりした。声をかけてきたみちるちゃんは、右側で悩めるオランウータンみたいな顔をしていた。
適当に目星をつけてだし巻き卵に箸を伸ばした。
「あ、あ、えと、なんでもなーい、あ、卵焼き、はむっ――ん」
口内に上品なだしの風味と、舌に絡みつくようなとろとろの感触が広がった。思わず口に手をあてた。ジンと身体がしびれて、緊張のあとに、味がやってきた。
「お、お……お……」
鼻の奥が緩んで、目元に力が入らなくなった。下を向いて、もう口の中にはなにもないのに、なにかを飲み込むふりをした。
お母さんの味だ。
胸の奥からどっとなにかが、わけのわからないものが込み上げてきて、固く目を瞑った。手の甲で涙を拭って、顔を上げた。
「美味しい……おいしいね、こんなに、こんなに、おばあちゃんの卵焼き」
わたしは変だ、嬉しかったのに、今は泣いてる。みんなが見てる、稜月ちゃんが見てる、でも、でも。
食卓に静けさがやってきて、おばあちゃんの声が聞こえた。
「そうかい、よかったね、光」
「うん……うん……こんな美味しいものもう食べられないと思ってた」
おばあちゃんに、笑顔を見せた。涙が止まらないのに、なにも考えずにそんな顔をしていた。
「光、おまっ……おまえよぉ……」
横からみちるちゃんに抱きつかれた。びくっと肩が固くなったけど、その人肌に溶かされてしまう。わたしの身体を支えにして、なぜか目元に光るものを浮かべていた。
「わりぃ……我慢できなかった」
「みちるちゃん、いいよ、いい、ありがとう」
抱きつかれたまま、またおばあちゃんを見た。口にはまだ幸せで、しょっぱい味が残っている。舌はちゃんとわたしの舌で、空気の温度さえも感じられた。
「ねえ、おばあちゃん、わたしにね、わたしに」
「なんだい」
「卵焼きの作り方をね、教えてもらいたいんだ」
おばあちゃんが、息を呑むのがわかった。軽く目を見開いて、ふっ、と、顔の力が抜けた。
「ああ、構わないよ」
「ありがとう、おばあちゃん」
夏の湿気も、風鈴の音も、蝉の声さえも、胸に深く染み込んでいった。
おばあちゃんの微笑みはどこまでも優しくて、みちるちゃんの抱擁はとっても力強い。黒檀の座卓はたくましく、麦茶の瓶は水滴を反射している。サラダは緑、卵焼きは黄色、お米は白で、煮物は明るい茶色。わたしがいるのってこんな場所だったんだ、知らなかったな。
部屋にあるもの全部が新鮮に見えて、それを眺めていると、ふと、コトンとお茶碗を置く音が聞こえた。
薄っすらと吹き続けていた風が止んで、もわっとした熱気が部屋にやってきた。
「ごちそうさま」
対面に座る稜月ちゃんを見て、背中の筋肉が硬直した。歯をかっちりと合わせて、軽く顎を引き、睨むようにわたしを見ていた。目が据わっていて、眉根にしわができていた。
「稜月ちゃ、ん」
言い終わる前に、一瞬にしてその顔は笑顔に変わった。
「よかったね光、私のおべんと以外も、ちゃんとわかるようになったんだ」
固くなった背中から、なかなか力が抜けなかった。なんか今、すごい顔してた。見間違い、でも確かに、ううん、ううん、そんなわけないよね、わたしを睨むなんて。
きっと、気のせい。
「あ、ありがとう。はは、なんでかはわかんないけど、たぶん稜月ちゃんのおかげかな」
「あはっ、そう言ってくれると、とっても嬉しい。私の愛がやっと届いたんだね。光の愛も早く欲しいなぁ」
「あ、家族の前で変なこと言わないでー」
抱きついたまま、みちるちゃんが顔を上げた。
「え、お前ら付き合ってんの?」
急に肌が熱くなって、口の周りがひくひくした。
「そ、そういうんじゃ――」
「これからです」
「こ、これ、ちが、ちがっ、ええ」
みちるちゃんはニタニタと言う。
「ふうん、だと思った。いっつも愛し合ってるもんな」
「ご存知でしたか」
顎がかくかくする。歯が浮いている。
「だ、だ、だかーらー」
色んな感情が大洪水で、あたまのなかはぐっちゃぐちゃだった。
愛、恋、好き、たぶん好き、でも付き合うって、なんだっけ。てか稜月ちゃんこんなとこで、大胆。ていうか、ていうかっ、愛って、どうやって伝えればいいんだろう。
窓ガラスに顔を真っ赤にした自分が映っていて、おばあちゃんはお茶をすすっていて、みちるちゃんはにやけていて、稜月ちゃんはニコニコと笑っていた。




